【短編小説】小雨のレストラン ― 過去の自分を救うことでしか、前を向けない時がある
彼女は、古びたレストランの窓際の席で、頬杖をついていた。
窓の外には初夏の小雨に煙る街並み。
濡れた若葉の緑が窓越しに鮮やかだった。
その前を傘をさした人たちが流れて行く。
「可愛いお嬢さん、ご注文の品ですよ」
初老のウェイターが、上品な笑顔で、注文のミルクティーをテーブルの上に置く。
「どうもありがとう」彼女は軽く微笑むと、また窓の外をボーッと眺めた。
買い物帰りに、ふと立ち寄った、隣街の見知らぬ店だった。
カウンターの奥の古いスピーカーからは、ビートルズの『Michelle』が流れていた。ポール・マッカートニーの甘く切ない歌声と、フランス語の響き(Ma belle...)。
それが、食器が触れ合う音や、静かな話し声と混ざり合い、彼女の無意識の扉を優しくノックしていた。
雨の昼下がりの、淡い光が差し込み、ここだけ時間が止まったような、遠い記憶に迷い込んでいくような、
不思議な心地よさに満たされていった。
夏のサンダルや鮮やかなリボンの入った紙袋を、彼女はもう一度確認してから、カップに口をつける。
何か、とても不思議な味だった。「幼い日の、おぼろげな、輪郭を持たない思い出…」そんな味がした。
ふう、と温かい吐息をカップに落とす。
窓の外を眺めながら、彼女はぼんやりと自分の年齢について考えていた。
来月になれば、自分は二十一歳になる。
二十歳という華やかな門出を過ぎ、いよいよ本格的な「大人」という季節が、雨雲のように低く、静かに垂れ込めてきているような気がした。
十代の頃に抱いていた、根拠のない万能感。
それはいつの間にか、このミルクティーに溶けた砂糖のように消えてしまったのだろうか。
――自分はどこで、何を落としてきたのだろう。
この窓の外の見知らぬ人たちも、やはり同じような喪失感を、胸の奥に隠し持っているのだろうか…。
その時だった。行き交う傘の波の間を、一人の少女がすり抜けていくのが見えた。
彼女は思わずカップをソーサーに戻した。
窓の外、雨の歩道を迷いのない足取りで歩いていくのは、
十七歳の自分だった。
驚きはなかった。この不思議な空気の中では、それが必然であるかのように感じられた。
彼女は新鮮な好奇心に突き動かされ、迷う事なく席を立った。
レストランの重い扉を押し開けると、雨の匂いが一気に鼻腔を突いた。
肌にあたる小雨が瑞々しく、心地よい。
「待って」……声にはならなかった。彼女はサンダルの音を響かせ、吸い寄せられるようにその後を追った。
角を曲がった先は、一度も見たことがない、細く静かな路地だった。雨は上がり、乾いた風が頬を撫でた。
その時、頭の奥で、鈴の鳴るような、けれどどこか尖った声がした。
――どうしたの? そんなに憂鬱な顔をして。二十一歳になるのが、そんなに怖いの?
頭に響くその弾んだ声に、心臓が跳ねた。前を走る少女は振り返らない。
――昔のあんたは、もっと疾走してたじゃない。ほら、ついておいでよ!
ふいに十七歳の彼女が肩越しに振り返り、弾けるように笑った。
彼女は弾かれたように足を速めた。二十一歳の憂鬱なんて、路地の角に置いていく。
二人は走り続けた。不思議なことに、距離を縮めようとするほど、前を行く背中は少しずつ小さくなっていく。
十七歳から、中学生へ。途中、様々な懐かしい音が、何処かから聞こえてきた気がした。
いつかの夏の風鈴や花火、賑やかな海水浴場、さざ波の音。
そして前を走る彼女は、ランドセルを背負った少女になっている。サンダルの音は、いつしか運動靴が地面を叩く音へ、そして最後には裸足で砂を蹴る音へと変わっていた。
真っ白な光の壁を通り抜けた瞬間、視界が開けた。
そこは、記憶よりもずっと青い海が広がる、輝くような砂浜だった。
波打ち際には、小さな幼子の後ろ姿があった。
「……あ」
その小さな背中に、今の自分が抱える「空虚」の根源を見た気がした。
彼女は駆け寄る事もできず、ただ立ち尽くした。その小さな背中は、ひどく怒っている。小さな体は怒りに震えていた。
彼女は、怒りに震える幼子の背中を見つめながら、自分の胸の奥が焼けるような痛みに襲われるのを感じた。
その怒りの正体を、彼女は知っている。それは、あの日の「拒絶」の裏返しなのだ。
幼いあの日。母が病室で、痩せた手で自分の指にその指輪をはめてくれた時。「これがあれば、もう一人じゃないから」と囁いた母の声。
けれど、その直後、幼い彼女は叫んで指輪を投げ捨ててしまったのだ。「指輪なんていらない、お母さんがいい!」と。
その瞬間の、母の悲しそうな、けれどすべてを許すような微笑み。
あの時、母が指輪に込めたのは、死にゆく自分がいなくなっても、この子が独りで立っていけるようにという、祈りそのものだったのだ。
「ごめんね……」
彼女は、震える声でそう呟いた。
「もう、拒んだりしない。あの時のあなたの悲しみも、お母さんの祈りも、全部私が連れて行くから」
幼子はこっちを振り返らなかった。ただ溢れる感情を堪えて震えている。だけど壊れてしまう。このまま、そんな想いを抱えこんでいたら…。
彼女は、思うよりも先に幼子に駆け寄り、そっと抱きしめた。
「ごめんね…辛かったでしょ、寂しかったんだよね。よくがんばったね。…もう大丈夫だよ…」
喉に痛いほどの熱い物が込み上げ、感情が涙となり止めどなく溢れだす。
幼子はゆっくりと振り返った。
小さな体は無邪気な朗らかさを取り戻していた。そして、少し悲しい、慈しむような微笑みを浮かべた。
そのまま、ふわりと淡い光の中に溶けるように、静かに消えてしまった。
その足元の砂の上には、一筋の光を放つシルバーの指輪が転がっていた。
「探していたの。ずっと、ここにあったんだね」
彼女は祈るように指輪を拾い上げた。ひやりとして、けれど懐かしく温かい。切なさに胸がいっぱいになり、また涙が溢れだす。
砂浜の後ろを見上げると、そこには母の居た病院が、あの日のままの佇まいで、夏の陽射しに霞んで見える。
彼女は指輪を握りしめ、胸に押しあて目を閉じた。
ふっと、潮騒の音が遠のく。
ゆっくりと目を開けると、窓辺の席にいた。
レストランの静かな喧騒が蘇り、ビートルズの「Michelle.」は終盤を奏でている。
さっきまでの涙や様々な感情はそのまま残っていた。
まさか…、慌てて手を開くと、そこにはシルバーの指輪が握られていた。
「夢ではなかったんだ…」
だが、それを確信した瞬間に、魔法が解けたように指輪は消えてしまった。
「どこまでが夢だったんだろう…」
指のつけ根には、指輪の微かな圧迫感と熱が、いつまでも残っていた。
彼女はもう悲しまなかった。形は消えても、それは今の自分の血肉となって、魂の深い場所に溶け込んだのだと確信していたから。
もう、何も怖くはなかった。二十一歳になることも、大人として生きていくことも。
「Ma belle, Michelle...」
彼女は小さく口ずさみ、冷めかけたミルクティーに再び口をつけた。
カウンターの奥では、初老のウェイターが、品のいい笑みを浮かべながら白い皿を静かに拭き上げている。
カチリ。
彼が重ねた皿の音が、静かな店内に心地よく響いた。
その音は、明日へと続く、確かな日常の合図だった。
完
[BGM:The Beatles - Michelle]
あとがき
誰の心の中にも、理由のわからないまま、ずっと大切に仕舞い込んでいる「情景の欠片」があるものです。
私にとってそれは、ビートルズの『Michelle』を聴くたびに、脳裏に浮かび上がるあるイメージでした。
窓の外に降る、止みそうにない小雨。フランスの片隅にあるような静かなレストラン。冷めかけたミルクティー。そして、頬杖をついてどこか遠くを見つめる、ひとりの女性。
ずっと胸の中にあったそのメロディとイメージの断片を、そっと繋ぎ合わせるようにして、この物語を紡いでみました。
主人公が抱えていた憂鬱は、遠い日に置き去りにした自分自身との「未完了の別れ」だったのかもしれません。
母から託された祈り、そして幼さゆえにそれを拒んでしまった自分。その罪悪感という雨が、彼女の時間を止めていました。
形あるものはいつか消えます。けれど、愛された記憶や、自分を許した瞬間の手触りは、血肉となって永遠に失われることはありません。
この物語が、自分の中の「幼い自分」と対話を必要としている誰かの元に、温かいミルクティーのように届くことを願っています。
小雨のレストラン
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