第27話「視界ゼロ、恐怖のメガネ紛失」
異変に気づいたのは、目覚めてすぐだった。
目の前が、白かった。
正確に言えば、何も見えなかった。輪郭が曖昧で、光だけがうっすらと差し込んでいた。
「……メガネがない」
口にした瞬間、背筋が冷たくなった。
手探りで床をまさぐる。
椅子の脚、落ちた紙袋、湯の冷めたマグカップ。
だが、メガネはない。
ポケットにも、バッグの中にもない。
僕の視力は0.03。しかも乱視持ち。
眼鏡なしでは、スマホも時計も、トイレのサインすら判別できない。
思考が回りはじめた。
何者かが持ち去ったのか?
いや、深夜のオフィスに、誰が?
そもそも、僕は昨夜、どうしてここで眠っていた?
深夜。終電を逃し、地下の休憩室で夜を明かすことを選んだ。
空腹に耐えきれず、買ったのはカップヌードル。
お湯を注ぎ、フタがうまく閉まらず、「重し、重し……」とつぶやいた。
手元にあったメガネを、そっとフタの上に乗せた記憶が、かすかにある。
「……三分、だけ」と目を閉じた——そこからは、曖昧だ。
つまり、僕は最後にメガネをしていたかどうかも定かではない。
とにかく、地上へ出よう。
地下から2階のオフィスまでは、わずか数十段の階段と一本の通路。
普段なら2分もかからない距離だ。
だがその朝の僕にとって、その距離は異常に遠かった。
なにせ、視界がない。
0.03の世界は“見えない”というより、
“そこに何かがある気がする”という感覚だけでできている。
さらに乱視が加わると、残された微かな形もすべて歪む。
光源がぼやけて、直線が曲がり、奥行きが狂う。
僕は壁を伝い、足先で床を確かめながら進む。
もはやこれは、仕事場ではなく、見知らぬ屋敷の廃墟探索に近い。
非常灯が、ぼんやりと足元を照らしている。
階段を上がろうとしたが、段差がどこから始まるのか分からず、足を宙に浮かせて数秒固まる。
つま先で床をトントンと叩き、音の変化で階段の始まりを見つけた。
誰かが置き忘れた段ボールに足を引っ掛けて転びかけ、壁に手をついた。
その瞬間、妙な感触があった。
ふわっとした、やわらかく湿ったような質感。
思わず手を引っ込めた。観葉植物だった。たぶん昨日も見たあのパキラだ。
だが今日のそれは、闇の中で“誰かの頭”にすら思えた。
左手に冷たい金属の感触。ドアノブだ。倉庫のドアノブだ。
ここに入っても仕方がない。ただの倉庫だ。
目指すは2階オフィス。こんなところで立ち止まっている場合ではない。
上へ、上へ。
壁に触れながら、ゆっくりゆっくり上がっていく。
階段の段差さえも、凶器になり得る。
ようやく通路を抜け、階段を上り切る。
扉の隙間から差し込む光に向かって手を伸ばす。
ゆっくりとノブを回し、オフィスの扉を押し開けた。
たどり着いた。
それは“目的地に着いた”という感覚よりも、
“事件現場の扉を開けた”ような緊張感だった。
中は静かだった。
誰かがいる気配はするが、声はしない。
テーブルの輪郭をたどり、コピー用紙の山を避けながら進む。
ぼやけた人影らしきものが見えた。
「……誰か、いますか」
「……石井? 顔どうしたの」
斎藤さんだった。
声を聞いた瞬間、胸が強く脈打った。
「お前、なんか……すごい表情してるぞ」
「メガネが、ないんです」
「は?」
「朝起きたら、見えなくて……」
騒ぎを聞きつけて、柴田さん、篠田くん、堀井さんも集まってきた。
「顔真っ白だよ、石井くん」
篠田くんが心配してくれている。
柴田さんが呆れている。
そのとき、扉が開いた。
誰かが近づいてくる。
柴田さんだ。
紙コップを左手に、右手に——ピントが合う。カップヌードルの容器。
その上に、何かがちょこんと乗っていた。
「……これ、もしかしてさ、石井くんの?」
カップヌードルにキスする距離まで近づいて確認する。
僕のメガネだった。
一斉に沈黙。
「え、これ、昨日食べようとしたやつ?」
「はい、食べようと思って寝落ちしたみたいです。」
頭の中のピースが、音を立てて嵌った。
湯気。重し。フタ。メガネ。
三分だけ……のつもりが、そのまま寝落ちしていたのだ。
僕は黙ってメガネをかけた。
視界が一気に戻る。世界が輪郭を取り戻す。
ただし最初に目に飛び込んできたのは、スタッフの呆れた表情だった。
カップヌードルのフタを開ける。
伸びたレベルではない麺がカップに入っている。麺の沼。
冷ややかな表情の面々が去っていく。
僕は、伸びたカップ麺を捨てに、再び地下へ戻った。
