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映画【廃用身】後味の悪さに震える……。超高齢社会の最もリアルな「ホラー」と「禁忌」


現役医師である作家・久坂部羊2003年に発表したデビュー小説『廃用身』

出版当時、そのあまりにセンセーショナルな設定から「映像化不可能」とまで言われた本作。発表から20年以上の時を経て、ついに映画化されたと聞き、劇場へ足を運んだ。

当時から日本の超高齢化とそれに伴う医療・介護の崩壊を鋭く予見し、問題提起していたその先見性には改めて驚かされる。

本作が投げかける最大の問題は、過酷さを増す「超高齢社会における医療・介護崩壊」だ。


▶「Aケア」がもたらす合理性と、揺らぐ人間の尊厳


作中では、脳梗塞などで麻痺し、リハビリでの回復も見込みのない手足を「廃用身」と呼び、それを切断する手術(Amputation)を行う「Aケア」という選択肢が提案される。


医学的に見れば、動かない四肢は床ずれ(褥瘡:じょくそう)の原因になりやすく、移動や体位変換の際に介護者の大きな負担となる。


切断によって体重が軽くなれば、介護の負担は劇的に軽減され、結果として患者本人のQOL(生活の質)向上につながるケースもあるという描写は、現実の医療エビデンスに基づいた圧倒的なリアリティがある。


本作が突きつけるのは、単なる介護テクニックの是非ではなく、「実利主義と人道主義の衝突」である。

介護負担の劇的な軽減という「明確なメリット」がある以上、これを単なる暴論として片付けることはできない。しかし、その合理性を担保するために失われるのは、他でもない「人間の尊厳」にほかならない。

さらに恐ろしいのは、これが「“同調圧力”という名の静かな強制」へと発展する危険性を抱えていることだ。



「効率性」「コストパフォーマンス」を至上命題とする社会において、このような不可逆的な選択肢が提示されたとき、高齢者や要介護者は「家族や社会に迷惑をかけたくない」という集団心理から、自ら断る権利を放棄させられるのではないか。

ここで問われているのは、現代社会を覆う「コスパ・タイパ至上主義」への警鐘だ。

医療や介護に極端な「効率性」を持ち込めば、私たちは必然的にAケアのようなドラスティックな手段を選択せざるを得なくなるのではないか。

五体満足という価値観の中で生きてきた私たちが、どんな姿になっても「生きてこそ」と言えるのか。

生命倫理、優生思想、そして死生観のすべてが試される。


▶ドラマから小説、映画へ――原作小説の倒錯性と、映画の「善意」


我が家にある久坂部羊の著作たち


ドラマ「破裂」をきっかけに、久坂部羊作品を読み進めてきた者としては、今回の映画化は非常に期待値が高かった。劇場で鑑賞した本作は、原作の持つ不穏な空気を十二分に再現していた。



▶秀逸なキャスティングと音響演出


漆原医師を演じる染谷将太をはじめ、各キャストの繊細な表情やしぐさ、異人坂クリニックの空気感は、原作のイメージそのものだ。

また、世武裕子による劇伴が素晴らしかった。
環境音とも電子機器の作動音ともつかない、まるで『関心領域』を彷彿とさせる音が通底し、じわじわと迫る不穏さで観客の心を静かにざわつかせる。

特に手術室のシーンでは、ラジカセから流れるバッハ風クラシックの調べと、暗く冷たい手術台や血の描写が相まって、一種の儀式的な不気味さを感じさせた。


▶原作とのアプローチの違い


映画版の漆原医師は、サディスティックな性癖や残虐性は抑えられ、合理性と倫理観の狭間で葛藤する「善意の医師」として描かれている。

しかし、原作では、切断した四肢の保管描写や、昆虫などの四肢欠損に対するフェティシズム(アクロトモフィリア)的な「倒錯性」が強く示唆されていた。
 
映画が、これらの生々しい要素をあえて割愛したのは、本作を単なるサイコスリラーに終わらせないためだろう。より「現実の医療倫理の議論」へと、焦点を絞り込むことで 、観客一人ひとりに「問い」を投げかけている。
 

▶江戸川乱歩、中島敦、そして久坂葉子――原作に張り巡らされた「死と倒錯」のモチーフ


一方で、原作小説が内包していた世界観は、よりドープで文学的な深みに満ちている。

舞台となった神戸・阪神間の空気感のなかで描かれるのは、切断した四肢の保管描写や、昆虫などの四肢欠損に対しての「アクロトモフィリア」的な倒錯性と残虐性だ。

四肢を切断された傷病人に対する「圧倒的な優越感」「支配欲」は、江戸川乱歩「芋虫」を強く想起させる 。

さらに特筆すべきは、物語に散りばめられた「死のモチーフ」の重層性である。

作中で漆原医師が自死を遂げる「阪急六甲駅」は、19歳で芥川賞候補となりながらも、21歳で特急電車に飛び込んで自死した作家・久坂葉子の最期の地として知られる。

彼女が参加していた神戸の著名な文芸同人誌『VIKING』からは、のちに久坂部羊自身も作品を発表しており、この駅を作中の自死の場に選んだ背景には強い必然性を感じざるを得ない。

また、原作奥付にある「山月館(印刷・製本:李陵)」という中島敦作品へのオマージュも含め、原作はきわめて強固な文学的意図をもって構築されているのだ。
 

小説【廃用身】奥付


▶ラストに添えられた救いと、微かな「変化の兆し」


こうした原作の持つ猟奇性文学的背景を踏まえると、映画版のラストには、いくぶん救いのある独自の演出が施されていることがわかる。


生老病死の交錯
踏切で老婆の車いすを押す女性と、赤ん坊を乗せたベビーカーを押す漆原医師の妻がすれ違うシーン。「育まれる生命」と「消えゆく生命」の交錯は、まさに人間の「生老病死」を象徴している。


観客に委ねられる「微かな音」の考察
特に印象的なのは、終盤の洗濯物のシーン。
Aケアを受けた夫を自宅介護する妻が、庭で洗濯物を干している最中、夫の部屋から微かな気配(音)を感じて手を止める。しかし、それ以上は何も起こらず、妻は再び作業に戻っていく。

  • 原作の描写: 四肢を切断された男性が徐々に言葉を発するようになり、明確な回復の兆しを見せる。

  • 映画の描写: 夫はほぼ無反応のままであり、変化は明示されない。


監督の吉田光希は、あえて、これを「曖昧な余韻」として描いたのだろう。

妻が聞いた音は気のせいか、それとも夫からのコミュニケーションの兆しなのか……。
世武裕子
による微かなサウンドデザインが、不穏さと希望の狭間を巧みに表現し、観る人に解釈を委ねている。

これは完全な絶望ではなく、極めて小さな「光」を残すことで、Aケアの効果そのものを問い直させる映画独自の素晴らしい演出だと感じる。


▶この「後味の悪さ」を噛みしめる


観終わった後は、決して後味の良いものではない。胸に重くのしかかり、思考を強制的に起動させるような余韻が残る。

久坂部羊が一貫して訴え続ける「日本人の死に時」「老い方」というテーマ。本作は単なるエンターテインメントの枠を超え、超高齢社会を生きる私たち全員へ突きつけられた、極めて重厚な問題提起だ。

実際、筆者は仕事で医師を取材する機会があるのだが、どの病院やクリニックでも超高齢社会での医療のあり方については、非常に高い意識を持っている。
現場の切実な空気感を知る身としては、「廃用身」というフィクションが描き出す崩壊の足音はあまりにもリアルで、決してスクリーンの向こう側の出来事とは思えないのだ。この後味の悪さから目を背けず、自分自身の問題として噛みしめたい。


 

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