アルバイトから契約社員へ はじめての転職。

自己紹介エントリーの”いままでやってきたこと”の順に沿って記事を書いていきます。


自己紹介エントリー

北海道から大阪へ (帰省の旅)

“大阪こいよ。仕事見つかるまでメシくらいは食わせてやるから。”  

さっさと中退して、プータローへ

ネットゲームで知り合った友達が大阪に住んでいて、そう言ってくれました。
私は大分に帰省する帰路に大阪に寄って、この友達に会うことにしました。

この友達はたかちゃんといい、私より11歳上の男性でした。
ファイナルファンタジー11 をプレイしていく中で知り合ったパーティメンバーで、紆余曲折ありながらも話をする仲になりました。

私が振られた彼女のことも知っており、いろんな挫折のたびに話を聞いてくれる人です。

実は会うのは初めてで、当日は仕事いうことでしたので。梅田のネットカフェでネットゲームをしながら一晩待ち、当時オープンしてたのヨドバシカメラ梅田の前で待ち合わせをし。イカつめのスカイラインで乗り付けてきました。

当日の私は着るものもろくになく、ヨレヨレのTシャツにサンダル姿。
あまりに不憫に思ってくれたのでしょう。 焼肉をご馳走してくれ、銭湯に行き。

実家に泊めてくれることになりました。
色々話をしました。

  1. 大分県に居づらくて出てきたこと。

  2. 彼女との別れの顛末。

  3. 学校を辞めたけど、これからどうしていいかわからないこと。

  4. パソコンが好きなこと。

おそらく、本人は覚えてないと思いますが。この時にたかちゃんは。
“俺の時は就職氷河期でさ。100社以上書類で落ちて、今いる会社だけが合格できたから選ぶようなことを考えられる時代じゃなかったんだ。 お前は自分で選べるんだから、自由に考えて自分で決めてみろ。大阪きたらメシは食わせてやれるし。応援してっから。”

と言ってくれました。
いままで、”応援する” とは言っても。 具体的にどういうことを支援してくれるのかを提示してくれる人いませんでした。

私は正直、大分県に帰って。おばあちゃんと一緒にまた暮らしたいと考えていた時期なので。 すぐに返事することはできませんでした。

でも、きっとその迷いや恐れもたかちゃんには伝わってたんじゃないかな。と思います。

まだ、覚悟ができていない私でしたが。
大分から家出をした街に運命的な出会いを感じていました。

大阪から大分へ (帰省の旅)

たかちゃんによくしてもらい、大分県に帰る為の気持ちの整理をついた私は大阪から大分県に帰りました。

帰りに、母親と(再婚した相手の)父親と会い。母親の家に泊まり。
おばあちゃんのいる家に戻りました。

おばあちゃんは何があったのかも、これからどうするのかも、責めることもしませんでした。 ただ、大分を出発した日のまま。 かわいがってくれました。

10日ほど一緒に過ごしたと思います。

おばあちゃんが私に切り出しました。
“これからどうしたい。大分県にだけは帰って来たらいかんよ。 もう出れなくなる。”
“お金は心配しなくていい。もう一度。東京か大阪に行きなさい。”
“あんたは技術者の才能がある。 パソコン好きを武器にしなさい。”

と言ってくれました。
たかちゃんのことは私は話していないのに。

帰りたいと思っていたのは、ばあちゃんにはバレてたのでしょう。
私はとてもばあちゃんっ子なので、戻ったら甘えてしまうことも。

たかちゃんに、本当に行くことを伝えて。
私は大阪に行くことにしました。

また、大阪へ (次の出発地)

大分県から北海道千歳のワンルームに戻り、荷造りをして。市役所に行き、支払いを済ませ。

小学生の時に修学旅行の時に買ってもらった旅行バックをガラガラひいて、
丘を下って、駅前の本屋さんで小説を買って。

初夏だけどまだ肌寒い千歳の町から離れ、新千歳空港から関西空港へ。 

飛行機を待っている間、短い北海道で過ごした時間でしたが。次を決めるために必要だった時間だったのかなとぼんやり考えつつ。

全く、予定していない展開に大きな不安を感じながら。
大阪岸和田市に借りたワンルームマンションへ引っ越しました。

壁の薄いワンルームの2階建て2階の角部屋で、とてつもなく寒暖差のひどい部屋から私の大阪での社会人生活が始まりました。

不採用の連続

ばあちゃんの褒めてくれたパソコン好きを武器にするという目論見の実現は全く甘くはありませんでした。

  1. 日本橋の量販店 -> 不採用

  2. SIerの採用 -> 返事なし

  3. 求人サイトに出ていた支援業務 -> 返事なし

私はまた、腐ってしまい。
ネットゲームばかりする生活に逆戻りしてしまいました。

物事を先送りして、どうにもならない。
たかちゃんからも就職活動をしろと怒られ。周りからも腹を括れと言われ続ける毎日に逆戻り。

それはそうです。当時はITバブルが弾けた直後。
景気は冷え込み、採用抑制も広がり。派遣が社会問題化されつつある状況の中で、採用時期を逃した高卒の田舎者が就職活動をしているのですから。

・・・ばあちゃん、俺だめかもしれん。

繁忙期の緊急支援要員としてアルバイト採用

年末も近づく、2004年12月。
自堕落な生活をしていたところに電話がありました。

求人サイトに出ていた支援業務のベンチャー企業で、面接官からマナーや服装についてボコボコにダメ出しをされた会社さんの面接官の方でした。

“まだ、仕事決まってませんか?  年末の端末更改作業があって、人手不足だから。よかったらアルバイトから始めてみませんか。”

というお誘いのお電話でした。
二つ返事で私は引き受け、当時の集合場所を聞いて。取り組みを始めることから始めました。

初日 -> 千林大宮と千里中央を間違えて大遅刻。
2日目 -> ネクタイを忘れて怒られる。
3日目 -> もう失敗するもんかと1H以上先について凍えて呆れられる。

無茶苦茶なことばかりして失敗ばかりしましたが。
今回は逃げないと誓って、一度した失敗はしないように翌日までに学んで身につけて。

どれだけしんどくても勇気を出して現場に向かう日々を繰り返して、実績を作っていくこと。必要とされる人になることだけを考えて。 突き進みました。

返事が遅れた理由とアルバイトの理由は後日聞くところによると。私がまだ未成年だったからだそう。面接官の方がそのまま落とさずに採用プールの中に残しておいたくれたとのことでした。

新卒採用での社会人の開始ではありませんでしたが。
結果的に高校浪人の遅れと、中退でロスした時間と学習内容を必死に実務経験を積むことで取り戻すことにつながっていきました。

契約社員になる

アルバイトの身分でしたが、1つ大きな仕事を任されることになりました。
通信系のクライアントサポートの仕事です。

パソコンを買ったお客さんの端末のセットアップに訪問し、パソコンの初期設定とインターネット接続を行う仕事です。
大企業から受けた新しい仕事であり、会社としてはモノにしたい案件でした。

仕事の流れとしては、まず。

  1. 詰所に出勤して、訪問顧客のエリアのシートを選んでデスクにつく。

  2. 詰所のデスクでエリアから訪問先のルートを自分で決める。

  3. ルートの移動時間と作業時間から訪問時間の見込みをたて、戸別にアポイントの電話を行う。

  4. ルートの移動と作業を実施し、対応を完了していって。対応が終わり自体、詰所に報告書の提出を行いに戻る。

この仕事を私任せてもらう時、営業担当の主任から。
“いろんなお客さんに会うと思うし、いろんな場所に行くから。地理とビジネスマンとして必要な対応とかを学んでほしい。” と託してもらいました。

頭でっかちではない、仕事としてのスキルを学ぶ機会を与えてもらったと受け止めて。
できないなりに周りに気を配りながら、お客さんに喜んでもらえるようにしたいと考え。 振る舞いを工夫するようにしました。

最初のアポから怒鳴りつけられ、現地に恐る恐る行って対応したところ。
助かったわ。 といってもらえ、自信を得ることができ。 お客さんと仕事以外の話をして盛り上がったり。

中には昼食を勧めてくれて、甘えさせていただくお客さんなど。
関西の人の距離感を学んだり、やり切る部分に対することを学びました。

しっかり契約期間をやりきり。お客様から社員のお誘いまで頂きましたが。
営業主任との約束をまもり、契約社員として登用してもらうことができました。

働く日々

自分が知ってるパソコン知識はあくまで道具であって、基本的にはビジネスとしての土台が必要だという無理解を徹底的に矯正していく為にひたすら案件に入りました。

  1. キッティング作業では手順書通りチェックをして1作業ごとに1チェックをつけること。

  2. ロットでの梱包を解くときは先に保証書をもぎり、シリアルナンバーの突合と納品点数を確認してから箱を畳むこと。

  3. 現場リーダーの時には作業員に対して背中の机で作業をせず、対面で見える形で作業をしながら進捗や迷いがないかを確認すること。

現地作業での基本動作を徹底的に意識しなくてもできるように。ひたすら案件に入りました。

まだ働く日々

徐々に現地リーダー業務を任されるようになり、現場作業を仕切ることも増えてきて。
いろんな人を扱い、限られた時間の中でオフィスの引越しに向けたPCの梱包、セッティングを行うフィールド作業を中心に対応を続けていきました。

お客さんの部長さんから、”若いのに頭張ってんのいいな。俺の仕事で失敗してもいいから。やりきってみろよ。” と胸を貸していただいたり。
(後日その部長さんは心筋梗塞で突然亡くなりました。初めての別れ方でした。)

大企業や官公庁など、普通では入らないような大きなビルに入り、土地勘や地理。
各会社の雰囲気。いろんな現場の現地作業を体験しました。

しかし、給料は据え置き18万円であがりません。
ばあちゃんから、”3年はいなさい。3年で経験を積んで見えてくるものもあるから。”と励ましももらいながら。

どれだけ辛いことがあっても、勇気を持って現場に向かう毎日でした。
土日でも人が足りなければ現場に出動し、休日は泥のように寝ました。

まだまだ働く日々

現場リーダー業務をこなせるようになると、次第にSE業務や手順書の作成を任せてもらえるようになりました。

  1. 現場が判断しなくいいように手順の前提を詰めて書くこと。

  2. 明示的にユニークに識別できる文字文言として、一字一句用語は合わせること。

  3. 現場の飽きが回らないように、作業マイルストーンを置いて進捗を実感できるようにすること。

自分が手を動かさずに人に動いてもらって大きな仕事をする基本動作を徹底的に無意識でできるようになるまでこなすことにしました。

この頃には日本全国を行脚して全国規模の展開プロジェクトに参加するなど、荒削りで色んな失敗やミスを迷惑をかけたり。現場で疲れて寝落ちしてしまい後からクレームをもらうなど。一通りの怒られも経験して社会人としての度胸がついてきました。

そんな生活の中で初めて会社として新卒を採用することになり。
Uくんと知り合うことになりました。
(-> 彼とはいまだに一緒に仕事をする20年来の仲に発展。詳細は後日のおはなし)

しかし、給料は据え置き18万円であがりません。
そうこうしているうちに3年が経とうとしていました。

転職の決断と合格

21歳の終わりの年。10月。
上がらない給料と正社員の登用がないことを確認し、転職することにしました。

初めて転職サイト(enジャパン)に登録し、レジュメを自分で書いて。
仕事が終わったらサイトを確認する生活。

どこの会社が良いのか、条件面の相場や市場価格が今ほどオープンな時代ではなく。
自分から応募する決め手もわからず市場調査とおもい、眺めている日々でした。

ある日、仕事を終えて家に帰るとスカウトメッセージが届いており。
京都の古いIT企業からのスカウトでした。

通うにしては遠すぎる気もしながら、でも。
せっかくのチャンスなので面接を受けてみることにしました。

履歴書を京都駅の天井のないミスドで書き、面接を実施。
うまく話せる自信がなく、案の定。声は上ずり。ちゃんと答えられたかも怪しい面談でした。

想定サラリーに関していくらから検討してもらえるのかを聞かれたとき、18万なのでそれ以下はちょっと。。。 といったところ。 驚かれ23万円の提示。

絶句していたら、”どうしたの?” と聞かれ “そんなにもらえるんですか!?” と回答して若干引かれました。

全然常識レベルで会話が噛み合わないし、緊張からボロボロで面接の終始が終わりました。

絶対無理だったと帰り道にばあちゃんに報告し、帰りに友人の家に寄って落ち込んで話していたところ。

即日正社員での合格通知の連絡をもらいました。
ばあちゃんはびっくりしながら、とても喜んでくれました。

京都へ

アルバイトからお世話になって会社に退職の申し入れをしたところ。
引き留めの話がありましたが。条件折り合わず退職となりました。

全く仕事が何かも知らない中から、現場に入れてもらえたこと。
社会人としての最低限のマナーと常識を教えてくれたこと。

いろんな現場体験やお客さんとの出合いがあったことを糧に自分のキャリアを作っていく挑戦に方向性か定まった最初の判断と行動になりました。

私は京都へ行くことにしました。
2007年12月。 リーマンショックが起きる直前のおはなし。

大阪に来て三回目の冬のできごと。

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