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18.「永遠に変わらない愛」なんて嘘だね

「永遠に変わらない愛を誓いますか?」という結婚式でお決まりのフレーズがある。「永遠に変わらない愛」、これは事実認知的にも、行為遂行的にも嘘である。どういうことかご説明する。

事実認知的水準において嘘である根拠として、皆さまご存じの通り、我が国の離婚率が現在3割を超えるなどの引用ができる。だが、結婚の儀式の場で「愛の不変性の事実確認」をこれから結ばれようとしている者たちに問うているわけではないことも、皆さまお分かりかと思う。端的に言って、事実認知的に「愛の不変性」が嘘だとしても、このような事実認知が新郎新婦に求められることではない。なので、吟味すべきは行為遂行的な問いとなる。

行為遂行的水準では、何か。事実として見れば今ここでは愛の不変性は虚偽かもしれない。しかし、これから先の結婚後に愛が永遠不変であることを証明していこうとする宣言のことならばどうか。今はまだない、でもこれからはありうるし、そうあるようにしていこうとする「誓い」のことである。これならば皆さまもご納得いただけるのではないだろうか。

だが、ここで私は行為遂行的水準でも、「永遠に変わらない愛」は端的に嘘であるとする。何故か?それは、今の私と未来の私は別人だからである。

朝三暮四という故事がある。宋の時代、狙公という猿飼いがいた。狙公は貧乏になってきたため、飼っている猿にやる餌を減らすべく猿にこう伝えた。「これからは朝3つ、暮れ4つトチの実を与える」。すると猿たちは激怒したため、狙公は慌ててこう伝えた。「では朝4つ、暮れ3つではどうか」。すると猿たちは大喜びした。

この故事を単に猿は計算が出来ないというような教訓に帰してはならない。どうして猿は計算の上では同じ条件であるにも関わらず、朝と暮れで数を変えたら喜んでしまったのか?それは、「朝の猿」と「暮れの猿」は猿から見て別人だからである。人間の場合は、「朝の私」と「暮れの私」が私から見て別人であるという見方はふつう出来ない。でも「朝の私」と「暮れの私」は厳密には全く一緒ではない。朝に食べたパンが消化され、自分のエネルギーや血肉になった分だけ違う。その日に読んだ本の分だけ違う。昼間に交通事故にあって亡くなってしまったら、「暮れの私」というもの自体存在しない。「朝の私」と「暮れの私」は別人であるにもかかわらず、「同じ私」として見なせる/引き受けられるものが人間なのだ。この詐術は猿にはできない。だから、猿は朝と暮れを足して同じかどうか計算をするという発想ができない。

「今の私」と「未来の私」は別人である。たしかに「私」ではある。でもそれは人間に備わった詐術のために同一性を保っている、実際は薄氷のような幻想であり、別人であることを否定することができない。だとすれば、「永遠に変わらない愛」を誓っている今の私と、その愛の不変性を証明しようとする私は「別人」である。もっというと、結婚直後の私と、結婚3年目の私も別人である。では、「愛の不変性」は行為遂行的に証明できると言えるだろうか?ある時点の私とそうでない時点の私という、「別人」がもたらす愛は果たして不変だろうか?結論は、「いいえ、愛の不変性は事実認知的にも行為遂行的にも嘘」である。

だが、話はここでは終わらない。愛の虚偽性について語りたいわけではない。そうではなくて、「変わらない愛を誓う」ことは確かに不可能であるが、「愛すること」をこれからも「時間の中で変化して別人になっていく私」にリレーしながら続けることは行為遂行的に「できる」ことを言いたいのである。

たしかに、今の私と未来の私は別人である。詐術によって同じ「私」として見なすことが出来ているだけの幻想であることを認めよう。だが、それは「今、ここにいる私が愛すること」を全く妨げない。その愛の仕方は、時間の中で私が別人になっていくことで変わっていくだろう。結婚後、共同生活を続けていく上でお互いの生活観の違いに諍いがあるだろう。仕事観の違いで衝突することもあるだろう。妊娠して子供が出来て変わることも多かろう。その時に今までの自分では考えもつかなかった親としての愛情を発見したり、パートナーへの特別な労りに目覚めることもあるかもしれない。結婚後、数十年後になって死別の時がいずれ訪れるだろう。死後の弔いで思いなすこともあろう。けれども、自分が別人に、お互いが家族に、親に、死者になろうとも、その時その瞬間の「相手を愛する仕方」が人間的変化に応じて変わるだけなのだ。「愛すること」が、変わりゆく自分の「愛する仕方」の変化を伴ってなお「愛すること」であることをやめないように、執り成すことを、私は誓うことができる。愛は不変ではないが、愛は「その時々において別の仕方で」愛であることを続けられる。

現代日本を現に生きている人々の中には、好意を寄せている相手の変化、相手のこれまで見られなかった側面を目の当たりにして幻滅し、割とすぐに愛することを止めてしまう人が体感ではあるがかなり多いように見受けられる。蛙化現象などという言葉がそれを端的に示している。あるいは、自分の幼稚な思いや願いに答えてくれないパートナーに憤慨したり、「自分を理解してくれない」と愚痴を吐く人も殊更に多い。どうして自分の幼稚性を棚に上げて、自分の臆断の自己点検を怠って、「自分自身を変えずに、相手や周りが変化するべき」と思いなすのであろうか?そのような愛の仕方は、不変の愛を求める幼児の愛である。本当に人間が他者を愛するというのならば、それは傷つけば癒し、傷つけたら謝り、間違いを指摘されれば素直に認めて自ら正し、相手の欠点を見つけたら長所も見つけ、対話が不全になっていたら違う仕方の対話を模索して再び良好な関係を立ち上げることができるような、弛まぬ自己刷新を伴いながらそれでも他者を愛することのできる人間こそ真に人を愛することのできる人間である。永遠不変のまま愛することなどできない。お互いの人間的変化を伴ってなお愛することこそが、本当の人間の愛の仕方である。

あうときも あわぬときすら いとおしい ただひたすらに いとおしいひと

朱井蒼

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