見出し画像

[都市伝説的考察] 武田信玄の死を隠した影武者「武田信廉」とは

​「風林火山」の軍旗を掲げ、戦国時代を震撼させた甲斐の虎・武田信玄。

​かつて戦国最強とも言われた信玄に、影武者がいたとされます。今回は、武田信玄の影武者に迫ります。


​1. 隠された信玄の死

​元亀4年(1573年)4月、信玄は足利義昭の呼びかけに応じ、織田信長を討つべく「西上作戦」を決行。徳川家康の軍勢を三方ヶ原の戦いで粉砕し、いよいよ京都へ進軍するかに見えました。

​しかし、信玄は持病(慢性的な結核、あるいは胃がんや食道がんと言われる)が急速に悪化し、甲斐へと引き返す途上の信濃国駒場(現在の長野県阿智村)で、53歳の生涯を閉じました。

​武田家は、織田、徳川、北条といった外敵に囲まれていました。もし「信玄の死」が漏れれば、武田の領国へ一斉に攻め込んでくるでしょう。

​死の直前に信玄は、息子の勝頼や、弟の信廉、宿老たちを枕元に集め遺言を残しました。

​「我が死を3年間秘匿せよ。」


​2. 影武者の存在

​信玄の死を3年間も隠し通す——。これを成功させるためには、完成度の高い「影武者」の存在が必須でした。

​影武者は、「顔が似ている」だけでは務まりません。立ち振る舞い、馬の乗り方、家臣への受け答え、ひとつ違えば敵に見破られます。

​武田家には唯一の適任者が存在していました。


​3. 武田信廉

​その人物こそ、信玄の弟である「武田信廉(たけだ のぶかど)」です。

大永8年(1528年)、武田信虎の六男として生まれ、信玄と母親も同じ弟でした。

​信廉は武田一門の筆頭格であり、信濃国の重要拠点である「大島城」や、対織田・徳川の最前線である駿河国「江尻城」の城代を歴任した男です。

​信玄からの信頼も絶大で、武田家の中心にいた重要人物です。つまり、信玄を間近で見続けてきたのです。


​4. 逍遥軒としての才能

​信廉はのちに「逍遥軒(しょうようけん)」と号し、画家としても活動します。私たちが教科書で目にする、「武田信玄像(高野山成慶院蔵)」を描いたのは信廉なのです。

死後、思い出して描ける程、信玄のことを研究していたのかも知れません。

​実母である大井夫人の肖像画(長禅寺蔵)も残しており、国の重要文化財に指定されています。


​5. 北条氏政の使者

​​信玄の死から間もない頃、武田家の同盟国、相模国の北条氏政は、「信玄が病没したのではないか」という噂を嗅ぎつけました。真偽を確かめるため、躑躅ヶ崎館へ使者を派遣します。

​使者が入室すると、信廉は信玄そのままの様に振る舞い、泰然自若とした態度で応対しました。対面した使者は、小田原城に帰り「信玄公は健在である」と報告しました。


​6. 見破る愛馬

​​信玄には、多くの戦場を共にした愛馬がいました。信廉が近づいた瞬間、激しくいななき、決して乗せようとはしなかったといいます。


​7. 上杉謙信の涙

​3年の月日が流れ、天正4年(1576年)に信玄の死を公式に発表、大々的な葬儀を執り行いました。

​この報せが届いたとき、上杉謙信は食事中でしたが、持っていた箸を落としました。そして「もうこれほどの好敵手は現れまい」と言い、涙を流したと伝えられています。

​一説に謙信は、武田軍の進軍の変化などから、「信玄ではない」と勘づいていたとも言われています。


​8. 武田家の滅亡

​信玄の跡を継いだ武田勝頼は、織田信長との決戦を急ぎます。そして天正3年(1575年)、長篠の戦いにおいて、織田・徳川の前に壊滅的な打撃を受けました。

​天正10年(1582年)、織田信長による「甲州征伐」が開始されると、一族や家臣たちの裏切りが相次ぎます。信廉が死守していた信濃の大島城も維持できなくなり、撤退を余儀なくされました。

​信廉は安良居寺に身を隠し、出家して「逍遥軒」と名乗りましたが、織田軍の「武田狩り」は苛烈を極めました。ついに捕らえられた信廉は、府中の立河原(現在の山梨県甲府市)にて斬首されました。享年51歳でした。


​9. 信玄生前の影武者

​​当時の記録を紐解くと、信廉は「信玄の生前から」影武者を務めていたことが分かっています。

​前線へ突撃する傾向のあった武田軍では、信廉が信玄の「諏訪法性兜」をかぶり、本陣に堂々と座って敵を引きつける役割を担っていました。

​また晩年の信玄は、しばしば病により寝込んでいました。信玄が動けない時、信廉が代わりに評定の席に座り、指示を出していたと伝わります。


​10. 黒澤明監督「影武者」

​世界的な巨匠・黒澤明監督は1980年、名作映画『影武者』を製作します。

​黒澤監督が描いた影武者は信廉ではなく、「信玄に外見が酷似していた泥棒」でした。映画では、泥棒が次第に自覚を持ち始めますが、最後は武田家の滅亡と共に、悲劇的な結末を迎えます。


​11. 武田信玄の言葉

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

城の堅さよりも、人との信頼関係や人材こそが最大の防衛力であり、思いやりが国を強くするという、信玄の哲学が凝縮された言葉です。 まさしく武田信廉も、その「人」でした。

そしてもう1つ。
一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る

このような信玄の意思が、武田家に受け継がれていたからこそ、影武者も成り立っていたのでしょう。


​12. まとめ

​死が隣り合わせの戦国時代。それでいながら、1人の武将の存在が、国の存亡を支えていた時代です。群雄割拠の中、甲斐国は武田信玄だけが支えることが出来た時代だったのです。

その代役は、影武者「武田信廉」だけが務められたのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集