戦後はまだ未完成―終戦81年目に、先の大戦から「今」を問い直す
2026年8月15日、日本は81回目の終戦の日を迎えた。
皆さんはどのような感情で、この「終戦」を認識しているだろうか。
「終戦の日」のことは、「終戦記念日」とよぶこともある。
しかし、私は10代の頃、子供ながらに「記念?おめでたいことなのか」というような疑問を感じていた。
当然、教科書的な歴史観において、「8月15日は悲惨な戦争が終わった日であり、軍国主義的な時代の終焉」として捉えられてきたことは知っていた。
しかし、戦後まもなくの日本には、8月15日を「屈辱的な日」であると考える人もいたはずだ。
それでも今日において、多くの国民がこの日を「終戦記念日」として受け入れていることは、戦後の日本が自由社会のもとに、目覚ましい経済発展を遂げたからだろう。
ただ、現在の日本は、そんな「戦後の物語」の後の時代を生きている。
戦後日本が、アメリカを凌ぐかの勢いで成長し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた時代を、20歳である私は知らない。
中国が日本のGDPを追い抜いた2010年、私は4歳だった。
”バブル”という名の「戦後の夢」を終え、さらにそこから35年以上経った現在からみて、「先の大戦」とはどれくらいの距離があるだろう。
実は明治から終戦までが約77年。今はそれ以上の81年が経過している。
つまり、「一つの時代の終わり」に等しいだけの時間が経ったのだ。
そう考えれば、今の時代こそ、本当の意味で「もはや戦後ではない」といえるかもしれない。
では、そんな時代に生きる私たちは、「なぜ毎年、8月15日に戦争について考えなければならないのか」。
考えられる理由の一つは、「今ある平和の尊さを理解し、再び先の大戦のような惨禍を繰り返さないこと」だ。
ただ、もう一つ考えられるのは「まだ理想の戦後は実現していないから」というものだ。
たしかに戦後の日本は多くの偉大な先人たちの努力によって、復興を遂げ、経済的な豊かさも得た。
でも、私たちは今、「平和だなあ」とは思えていないのだ。
だから、終戦の日に、「先人たちが信じた理想の戦後とはなんだったのか」を思い出すことで、今と向き合う。
そして、「理想の戦後とはなんだったのか」について考えるには、「先の大戦とは何だったのか」を知る必要がある。
日本はなぜ戦争を始めたのか。
私は二年前、「なぜ日本が戦争に踏み切ったのか」について記事にまとめた。
この記事の趣旨は、「相手の国力が自分たちよりも強大である」と分かっていても、「もう戦争にかけるしかない」と判断してしまった経緯を知ることにある。
私はこの記事を書いていたときは、「構造」を重視していた。
それは当時の国際情勢や歴史的な背景、国民世論など様々な要素に着目し、「軍部の独断と思い込みだけで戦争に突入した」という理解では、実態を矮小化してしまうと考えたからだ。
特に、日本の場合、東條首相は、ナチスドイツのヒトラーのような扇動リーダー型というより、軍人官僚型だった。
東條氏以外が首相になっていても、日本は戦争に突入していた可能性が高い。
もっといえば、就任当初、彼は外交で戦争を回避する道を探ってはいる。
今でもこの「構造」を重視する私の立場は変わっていない。
ただ、2年経った今、もう一度自分が書いた記事を読み返してみると、この記述だけだと、これはこれで誤解を招く点が多いと感じる。
なぜなら、この記事では、「追い詰められた日本がなぜ戦争を選んだのか」は説明されているが、「なぜ追い詰められるような状態に陥ったのか」は説明されていないからだ。
まず、東條氏以外でも戦争に陥るとしても、当時の政治責任者である彼の責任は、極めて重い。
最終的に対米開戦を選んだ彼の外交政策については厳しく検証され続ける必要がある。
また、この記事を読んだ読者は、「結局、戦争は避けられないような状況に追い詰められていたのか。でも今はそんな状況を作らないようにしよう」という結論に至りやすい終わりになっている。
ただ、それだとやはり「同じような判断」を繰り返してしまうと思う。
1930年代の政治家や軍中央の判断を振り返ってみると、穏健派とよばれる人々も、最終的には「現状追認」に陥ってしまっている。
そして、彼らも「これ以上は拡大してはならない」としつつも、止められず、アメリカとの戦争に突入した。
例えば、「満州事変」においても、発生直後に当時の若槻内閣は、「不拡大」の方針を打ち出したが、その後に朝鮮軍の司令官が独断で越境を始めると、軍中央から迫られ、最後は承認している。
こうした当時の政治家や軍中央の判断、文民統制の不全は、開戦に極めて重大な影響を与えており、その歴史的責任は今後も厳正に問われ続けなければならない。
それから、「世論の変化」も重要なポイントだ。
1920年代においては、世論は軍縮や協調外交を支持する声が多かった。
1930年の選挙では、「軍縮」を公約にした濱口首相が勝利している。
しかし、「満州事変」をきっかけに世論は大きく変化する。
これはメディアの報じ方が大きく影響しているといわれる。
戦争報道は新聞にとって「ヒット商品」だった。
満洲事変は戦況写真の空輸や電送が可能になったタイミングと重なり、「報道写真」を取り入れ、戦争の最新情報を伝える新聞が売れに売れる契機となった。
また、朝日新聞は、満州事変以前までは、「満州は中国の一部」とする立場を取っていたが、事変の発生後からは、軍部支持に方針を転換した。
その背景には、部数競争・不買運動への恐怖という商業的動機から自主的に転向していったという側面が強い。
「売れるから・叩かれたくないから」という自発的な迎合の要素が大きかった、
無視された「最悪の予測」と破滅へと向かった意思決定の構造
現在(2026年8月)公開中の映画『開戦前夜』では、1941年時点で「総力戦研究所」が「日本必敗」の結論を出していたにもかかわらず、その警告が軍部や指導者層に無視されて戦争へと突き進んだ経緯が描かれている。
相手の国力の大きさを理解していても、組織間の利害と面子、世論や軍部との関係、そうした複雑な関係が、「後戻りできない空気」を醸成した。
日本では、「誰が戦争を始めよう」と言い出したのか判断が曖昧で、常に「責任の所在」が分かりづらい。
それゆえに、最初は戦争を回避するための外交交渉を目指していた政権も、気づけば、様々な前提の変化に対応できずに、内閣が総辞職するといったことを繰り返した。
他にも「少しでもマシな条件で講和しよう」として、機会を逃し続けている側面もある。
アメリカに強烈な一撃を加えてから講和に持ち込む「本土決戦論」やソ連を介した停戦交渉を模索する「ソ連和平工作」などは、その最たる例であるといえる。
いずれも、「そうでもしなければ軍部や世論を納得させ、戦争を終わらせることはできない」というなかでの苦肉の策ではあったものの、最後までその機会は訪れなかった。
組織内の意思決定(ガバナンス)にも重大な問題があった。
スウェーデンに駐在していた陸軍武官の小野寺少将は、1945年2月のヤルタ会談直後に、参謀本部へ「ドイツ降伏の3ヶ月後にソ連が対日参戦する」という極秘情報を打電している。
それでも、ソ連を仲介役とした和平工作に望みを託していた当時の日本軍中枢は、この不都合な情報を事実上無視した。
この判断が、その後に起きる東京大空襲と沖縄戦、原爆投下やソ連の対日参戦とそれに伴う「シベリア抑留」の悲劇へと繋がっていく。
1944年後期~1945年に亡くなられた人々は、この戦争の犠牲者のうちの約9割を占めるともいわれる。
戦争を止められるとすれば、「最初の一歩」を止めるしかない
私は「国防」としての自衛隊の役割は極めて重要だと認識している。
ただ、同時に「民主的な統制」を機能させ、「組織のガバナンス」には細心の注意を払わなければならない。
日本の最後の砦であり、国家国民のために働く自衛官には最大限の敬意を表しつつも、その運用は厳格な規律にあることが大切だ。
そして、「国民」や「メディア」の役割にも自覚的である必要がある。
歴史をみると、政治家や官僚が平和的な合意をしようとしても、世論に「妥協を許さない空気」があると、そうした平和外交が成立しない場合がある。
外交による平和は、「一定の妥協」を伴うものであることは認識しておくべきだろう。
もちろん、その合意が著しく国益を損なうものであれば、批判的にみるのは当然だ。
そのバランス意識を持つことが民主主義を成立させるために重要になる。
ときに私たちの考える脅威は、単にお互いの疑心暗鬼から生まれた勘違いかもしれない。
ただ逆に、相手に対する過度な楽観から、本当に恐ろしい存在を助長してしまっている場合もある。
さて、我々と世界は「先の大戦の教訓から変われたのだろうか」。
確信を持てないのなら、「戦後はまだ未完成」だといえる。
やはり戦後はまだ続いている。
逆に言えば、「新たな戦前」にしないために、どんなバランスで現状と向き合っていけばよいのか、私もそれを考え続けていこうと思う。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
写真出典 千鳥ヶ淵戦没者墓苑
