見出し画像

松家仁之『火山のふもとで』|一番好きな小説はなんですか?

一番好きな小説はなんですか?ってよく訊かれる。
この質問を真正面から受け止め考え始めると朝になるので、自分のなかで質問主がどのくらい普段から読書をする人間かを推察してその人に合わせた好きな本を答えるようにしている。
なかでも『火山のふもとで』は、この感動をこの人にも味わってほしい!と思う自分にとって大事な人、かつ普段から本を読んでいそうな人に勧めてまわっている。読書初心者にはややハードルが高いページ数で、文体や話の起伏も初読者には手厳しい印象があるからだ。それでも読了後の充足感は何ものにも代えがたいし、最後のページまでしっかりと味がする文章は、読書体験のなかでかけがえのないものになった。今でもベッドサイドに文庫本を置いていて、好きなページをぱらぱらと読み返している。
しかし、ぜひともこの感動を!と勧めても実際に読んだという人にはいまだ出会ったことがない。ということもあり、夏の話である本作をとにかく読んでいただきたく、この作品へのでかい愛を綴ることにする。
『火山のふもとで』を尊敬している書店アルバイトの上司から勧められたのはもう1年以上も前で、今のジャンル担当に配属されてすぐのころだった。上司は今もわたしに多くの仕事を振ってくれ、フェアの選書だったり個人出版社への感想文の寄稿を打診してくれたのも彼女だった。実際に自分の書いた文章が文庫本の巻末に載ったときは、初めての体験に高揚と感動をおぼえた。
そんな上司が勧めてくれたのだから間違いないだろうと読み始めたのだった。

「ぼく」が入所した村井設計事務所は、毎月7月末になると、北浅間の「夏の家」に仕事場を移動する。その夏は、美しく居心地のいい建築を手がける先生のもと、国立現代図書館の設計コンペに向けての作業がピークを迎えようとしていた。静かな情熱を秘めた先生とともに働く喜び、密やかに進行してゆく恋。浅間山のふもとでのかけがえのない日々と、それぞれの生命の瞬きを綴る、鮮烈なデビュー作。

文庫版『火山のふもとで』  あらすじより


ミステリーのような大きな事件があるわけでもなければ、読者を強く惹く出来事が起きるわけでもなく、物語はゆっくりと立ち上がっていく。暖炉に焚べた薪が、着火剤から火のもとを受けとり、徐々に炎を大きくしていくような、性急な物語とはほど遠い穏やかな時間が流れる物語だ。しかし、決して起承転結のない抽象的な描かれ方をされているわけではなく、むしろ具体性に富んだ描写、作中の野鳥の声や朝に淹れる珈琲の香り、深緑のかがやき、鉛筆をナイフで削る音、全ての表現が映像的に現前し文章越しにあらゆる五感と作用しあう。
この作品の影響で、建築の実習の授業をとり、あまりの過酷さから痛い目を見ることになったが、最終発表では、発表を聞きにきた建築系のどの先生からも高評価をいただき、泣きながら徹夜してよかった〜と、努力が報われたことにまた落涙した。ある先生からは、「褒められてるんだから、もっと喜びなよ」と言われたが、徹夜明けでひどく疲れていたこともあり、そんな余裕はなかった。
また図書館建築にも興味が湧き、旅先では積極的に公共図書館に訪れるようになった。

石川県立図書館
「美しい本の森」だ
富山市立図書館
隈研吾建築
米沢市立図書館
立方体の箱のような建物

同じ図書館という施設なのに、それぞれがその地に根ざす“生きた空間”にするために趣向を凝らしたつくりになっていて、その違いを見るのもまたおもしろい。

閑話休題、とにかく多くの人に『火山のふもとで』を読んでいただきたいので、わたしが読みながら付箋を貼っていた箇所を引用したいと思う。

付箋の色を分けた意味はとくにない


コーヒードリップに粉を入れ、ゆっくりと渦をえがきながら熱湯を注いでゆく。コーヒーの粉がつぶやくような音をたて、強い香りが漂う。朝の匂いだ。

p.151

たったの三行、コーヒーを淹れるだけの場面なのに、ここまで著者の言語感覚が確立されていることがたしかに表れているのは見事だ。コーヒーを淹れるとき、「つぶやくような音」だと感じたことがなかったが、どの表現よりも的確に五感に訴えかける言葉になっている。「えがきながら」を「描きながら」、「注いでゆく」を「注いでいく」と書かないバランス感覚。一つの文章だけを引用してもここまでの魅力が詰まっている。

じゃがいもを包んでいたやわらかな土は、夏の午前の日差しを浴びてみるみる白く乾いてゆく。長い時間ひなたぼっこしていた熊の仔の背中に顔を近づけたら、こんなこうばしい匂いがしそうだった。

p.183

じゃがいも一つをとっても表現に幅があり、著者の底知れなさがうかがえる。牧歌的な文章ではあるものの、著者の眼差しは決しておだやかではない、野心に溢れた書きっぷりだ。

「ひとりでいられる自由というのは、これはゆるがせにできない大切なものだね。子どもにとっても同じことだ。本を読んでいるあいだは、ふだん属する社会や家族から離れて、本の世界に迎えられる。だから本を読むのは、孤独であって孤独でないんだ。子どもがそのことを自分で発見できたら、生きていくためのひとつのよりどころになる。読書というのは、いや図書館というのは、教会にも似たところがあるんじゃないかね。ひとりで出かけていって、そのまま受けいれられる場所だと考えれば」

p.211

上機嫌でぺらぺら話しているときと、ぼんやりひとりでいるときと、ふとんをかぶってめそめそしているときと、いろいろあるのが人間だからね、部屋もそれぞれにあわせた役割を担うことができるように、つくり分けたほうがいい。

p.321

建築論も、人間の普遍的な感情のうごきに敷衍して語ることで、すんなり入ってくる。そして文字起こしをしていて気がついたが、ひらがながおそらく故意に多用されている。それによって文章全体が柔らかい印象になっているのだと思う。


まだまだ書き足りないがキリがないのであとはぜひ読んで体感していただきたい。主人公の恋愛模様もシンプルに面白いのでとっつきやすいはずだ。自分の周りに読んだ人がいなさすぎて語り合いたいので、何卒よろしくお願いします。
松村北斗主演で実写化されますように。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集