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『本人の希望』の奥にあるもの――ケアプランの隙間からこぼれ落ちる尊厳

「血圧は安定していますね」

バリバリ、と乾いた音を立てて、血圧計のマジックテープを外した。

数値は、きれいな正常範囲に収まっていた。

けれど、私が見ていたのは数字だけではなかった。

血圧計を巻くためにまくった袖口からのぞく、乾いた皮膚。

フケの目立つ髪。

少し伸びたヒゲ。

デイサービスで関わっていた男性だ。

脳梗塞の後遺症で片麻痺が残り、着替えや移動には介助が必要だった。

ケアプランには、「リハビリを続け、体力をつける」という目標が掲げられていた。

その方は、リハビリにとても熱心だった。

運動の合間にも、何度も尋ねられた。

「どうすれば、もっと上手くできますか」

以前、こんな話もしてくださった。

「今まで家内には苦労ばかりかけてきたからね。なるべく自分で動けるようになりたいんだ」

その言葉を聞いて、なぜこれほど熱心にリハビリに取り組むのかが、少しわかった気がした。

けれど、私の心には別の気がかりもあった。

事前に確認していた自宅浴室の写真だ。

深い浴槽。

手すりのない壁。

片麻痺のあるその方が、ご夫婦だけで安全に入浴できる環境には見えなかった。

奥様が体を拭いていることも聞いていた。

ある日、デイサービスでは、体操をする人、談笑する人、それぞれがいつもの時間を過ごしていた。

周りには笑い声があった。

その賑わいの中で、私は声をかけた。

「歩行も安定してきましたね。浴室に手すりなどがあれば、自宅でもお風呂に入りやすくなると思うのですが」

男性は少し黙った。

そして、小さく息をつくように話し始めた。

「……実はね、退院してからうまく動けなくなって。お風呂が怖くて、入れてないんだ。少し体を拭くだけで」

声は穏やかだった。

けれど、その笑顔はどこか引きつっていた。

そして、ぽつりと言った。

「本当はね、さっぱりしたいんだよ。」

少し間を置いて、

「家内にも苦労ばかりかけて、情けないね」

と続けた。

その言葉を聞いたとき、胸の中にあった違和感が静かに輪郭を持った。

話してくださった。

だから、この願いを置き去りにはしたくなかった。

私は入浴についてケアマネジャーへ相談した。

退院後、自宅では怖くて入浴できていないこと。

今の身体状況では、浴室環境にも工夫が必要だと思うこと。

それを伝えた。

返ってきたのは、

「体は奥様が拭いているそうです。ご本人がリハビリを希望されていますので」

という言葉だった。

「本人の希望」。

もちろん、それを尊重することは大切だ。

実際、その方はリハビリを望んでいた。

一生懸命取り組み、

「どうすれば、もっと上手くできますか」

と何度も尋ねていた。

自分で動けるようになりたい。

これ以上、家族に苦労をかけたくない。

それは間違いなく、その方自身の希望だった。

けれど、

「本当はね、さっぱりしたいんだよ。」

その言葉もまた、同じ人からこぼれた「本人の希望」だった。

リハビリを頑張りたい。

自分でできることを増やしたい。

安心してお風呂に入りたい。

人の希望は、一つではない。

そして、計画書に書きやすい願いだけが、その人の希望でもない。

数字には表れないものがある。

計画書には書かれない暮らしがある。

「歩けるようになりたい」という言葉の奥に、家族への思いがあったように。

「困っていない」と見える暮らしの奥に、「さっぱりしたい」という願いがあったように。

制度が悪いと言いたいのではない。

誰か一人を責めたいわけでもない。

だからこそ思う。

書類の上にある「本人の希望」だけで、その人を分かったことにしてはいけないのではないか。

その日の仕事を終えてからも、私は考えていた。

どう伝えれば、この願いを支援につなげられるだろう。

どうすれば、この方の暮らしが少しでも良い方向へ向かうだろう。

誰かを責めるためではなく、一緒に考えたかった。

あの日、その方は最後に、

「困ったねぇ」

と笑った。

声は穏やかだった。

けれど、その表情は少し引きつっていた。

あの一言は、お風呂のことだけではなかったのだと思う。

血圧は正常だった。

リハビリにも前向きだった。

ケアプランにも、きちんと目標が書かれていた。

それでも、その人の暮らしからこぼれ落ちていたものがあった。

だから私は今日も、数字や計画書だけでは見えない、一人ひとりの暮らしに耳を澄ませる。

笑顔の奥にあるため息を。

言葉にならなかった願いを。

そして、あの日の

「困ったねぇ」

を、忘れずにいる。




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