これでいい
ケアマネジャーから連絡があった。
ご主人が亡くなった。
突然だった。
最後に会ってから、四日後のことだった。
あの日も、いつものように玄関まで送ってくれたのに。
初めて訪問した日。
古い家だな。物も多い。
たくさんの写真や置物が飾られている。
本が棚に隙間なく並んでいて、入りきらないものもたくさん置いてある。
古い家屋と、長く置かれてきたものの匂いがする。
玄関から見えるところにも、たくさんの物があった。
奥で、
「どうぞー」
と明るい声が聞こえてくる。
「おじゃまします」
玄関から奥のリビングに向かった。
ご夫婦がリビングの椅子に座っていた。
「すみません、散らかってて。腰が痛いもんだから」
奥さんがあわてて机の上を片付けながら言った。
ときどき腰をさすり、動きがぎこちない。
ご主人は新聞を開いたまま、
「どうも」
と会釈した。
一瞬目が合ったが、またすぐ新聞に視線を移した。
奥さんが大きな明るい声で、最近のご主人の体調を話してくれた。
ご主人は新聞を読みながら、ときどきふっと微笑んだ。
自己紹介と体調の確認を終え、
「運動について、希望や目標を一緒に考えていきましょう」
と話した。
このとき、ご主人はゆっくりと新聞をたたみながら話した。
「このごろ足の力が弱くなって、少し歩くのが大変になってきたんだけど、誰にも迷惑かけたくないからね。最後まで自分の足で歩きたい。だから、よろしくね」
穏やかな声だった。
でも、目は真っすぐだった。
「わかりました。長く自分の足で歩けるよう、少しずつ運動をしていきましょう」
私はそう答えた。
食事はどのくらい取れているか聞いた。
しょっぱいおかずを中心に、好きなものを好きな時間に食べる生活だった。
晩酌もしていた。
ご主人が一言、
「食べれてるんだから、いいんだ。食べれなくなったら大変だけど」
と笑う。
「そうですね」
と私は答えた。
病状から、この先、食べることそのものが難しくなるかもしれないと思っていた。
訪問を重ねた。
一緒にゆっくりと廊下を往復する。
少し休憩していると、
「お父さん、今日もがんばれたね」
と奥さんが声をかける。
深呼吸を繰り返しているうちに、眉間のしわがなくなり、口角がゆっくりと上がる。
ある日、訪問すると、ご主人は布団で横になっていた。
「今日は体がだるくて」
と話した。
私は、
「今日は運動、中止にしましょう」
と提案した。
「やる」
ご主人は言い、ゆっくりと起き上がった。
奥さんが、
「大丈夫なの?」
と言う。
ご主人は、
「大丈夫だ」
とはっきり答えた。
「今日は、できることをやっていきましょう」
運動が終わる。
「今日もがんばれたね」
と奥さんが言った。
ご主人は横目でちらっと奥さんを見て微笑み、また呼吸を整えた。
帰り、記録をしながら三人でお茶を飲んでいるときに、奥さんに、
「気になることがあったり、体調が悪化した場合は連絡をください」
と伝えた。
ご主人が新聞を見ながら、ぽつりと言う。
「今日もできたから、大丈夫だ」
「そうだね」
と奥さんが笑う。
ご主人が照れくさそうに微笑む。
訪問の最後には、いつも三人でお茶を飲んでいた。
湯呑は、みんな違うデザインだった。
私は奥さんから最近のご主人の話を聞く。
今日できたことを話す。
ご主人は新聞を読む。
新聞を読み終え、私と奥さんがまだ話していると、会話を聞きながら庭を見ていた。
ある暑い日には、庭を見ながら、
「今日は暑いから、夕方に水やりをしないとな」
と言った。
リビングから庭を眺めているとき、ご主人は椅子にもたれ、しばらく動かなかった。
後日、ご挨拶に行った。
奥さんは、
「わざわざありがとう。私も驚いてね」
と小さく笑っていた。
いつもの部屋に、いつもの布団はもうなかった。
初めて見た畳が、少し暗く、冷えているように見えた。
もう、いないんだ。
いつも物たちで狭く見えていた部屋が、急に広く見えた。
奥さんが、いつものように緑茶を淹れてくれた。
三つの湯呑が、今日は二つ。
「私も、突然で、びっくりしちゃって」
奥さんから、次々と言葉が溢れる。
私は何度もうなずく。
「最後まで自分で歩いてたのよ」
奥さんが目を細め、三人でいたときの顔になったように見えた。
ふと、会話が途切れた。
ご主人がいつものように、ぽつりと一言言ったときと同じ隙間だった。
私はいつもと同じように、湯呑を両手で包んだ。
温かい。
緑茶を一口飲む。
いつもの深い味がした。
部屋を見る。
いつもと同じ古い写真と置物、たくさんの本が目に入る。
いつもと同じだった。
奥さんが顔を上げる。
その顔を見て、瞳を見る。
その瞳には、リビングから見える庭が映っていた。
私も、しんとした雨の庭をゆっくり眺めた。
無言で、二人で見ていた。
ご主人の口ぐせの、
「これでいい」
が頭に浮かんだ。
庭と古い本の匂いを、いつもより強く感じた。
外は、雨が強くなっていた。
奥さんが私の心配をして、
「雨、大丈夫?」
と言った。
「折りたたみ傘を持ってきたので、大丈夫です」
と答えた。
帰るとき、奥さんの手を両手で握った。
「お元気で」
そう言って、家を出た。
※本稿は、訪問看護での経験をもとに、個人が特定されないよう一部の情報を変更して構成しています。
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