「かわいそう」は、誰のためか——優しさからこぼれ落ちるもの
休憩室の沈黙が、少し苦手だった。
何か話したほうがいいのかな。
そんなことを考えながら、
コーヒーをごくりと飲み、
ゆっくりとテーブルに置いた。
「〇〇さん、有料老人ホームに入ることになったんだって」
一人の介護スタッフが言った。
その一言で、
部屋の空気が変わった。
「あんなに嫌がってたのにね」
「かわいそうだね」
「〇〇さん、あんなに優しいのに。ひどいよね」
さっきまで静かだった休憩室に、
言葉が重なっていった。
私は黙って聞いていた。
その利用者さんが、
施設への入所を嫌がっていたことは、私も知っていた。
だから、
「かわいそう」
そう思う気持ちが、
分からなかったわけではない。
それなのに、
「ひどいよね」
その言葉を聞いたとき、
思っていた以上に胸が大きく揺れた。
自分でも驚くほどだった。
休憩が終わってからも、
その言葉が頭から離れなかった。
どうして私は、
あんなに引っかかったんだろう。
考えているうちに、
いくつものことが浮かんできた。
私たちがその利用者さんと過ごしているのは、
一日のうちの数時間だった。
朝、送迎車で迎えに行く。
体調を確認して、
レクリエーションをして、
入浴介助をして、
食事をする。
夕方になれば、
「さようなら」
と家へ送り出す。
長く関わっていると、
その人のことをよく知っているような気持ちになる。
どんな話をすると笑うのか。
何が好きで、
何が嫌いなのか。
いつもと少し違う表情に、
「あれ」と気づく日もある。
私たちは、
確かにその人のことを知っている。
でも、
どこまで知っているのだろう。
送迎車が家へ着いたあと、
その人がどんな夜を過ごしているのか。
家族とどんな言葉を交わしているのか。
家に帰ったあとのことを、
私はほとんど知らない。
そして考えているうちに、
もう一つのことに気づいた。
私が知らないのは、
今の生活だけではない。
私たちがその人と出会うずっと前から、
その人と家族の時間は続いている。
その間に、
どんな言葉を交わし、
どんなことを決めてきたのか。
私たちは、ほとんど知らない。
もしかしたら、
まだ元気だったころ、
「介護が必要になったら、施設に入れてくれ」
そう話していたかもしれない。
反対に、
「何があっても家にいたい」
と話していたかもしれない。
どちらなのか、
私は知らない。
施設へ入ることになった理由も、
本当のところは分からない。
本人の安全を考えたのかもしれない。
家族の生活が、
もう続けにくくなっていたのかもしれない。
あるいは、
本人には納得できないまま、
話が進んでいたのかもしれない。
その選択に、
どんな意味があったのか。
私には決められない。
私たちが見ていたのは、
その人たちが生きてきた長い時間の、
ほんの一部分だった。
もちろん、
「施設には行きたくない」
という本人の言葉を、
軽く扱っていいわけではない。
なぜ嫌なのか。
何が不安なのか。
どう暮らしたいのか。
その声には、
きちんと耳を傾けたい。
でも、
その声だけで、
家族の選択の意味まで、
私たちに決められるのだろうか。
本人には、
本人の人生がある。
家族にも、
家族の人生がある。
そして、その二つの人生が、
長い時間をかけて重なってきた。
私たちは、
その途中から関わり始めた。
それなのに、
「かわいそうな人」
「ひどい家族」
そんなふうに役を決めてしまったら、
その枠からこぼれるものがある。
専門職も、人間だ。
「かわいそう」と思うこともある。
心配になることもある。
なんとかしてあげたいと、
強く思うこともある。
そんな感情があるからこそ、
気づける苦しさも、
拾える声もあると思う。
優しさは、
専門職に必要なものだ。
ただ、
強い感情はときどき、
複雑な出来事を、
一つの物差しだけで見せる。
しかも、その物差しが、
「優しさ」でできているとき、
私たちは、
それを疑うことが難しい。
あの日、
休憩室の沈黙をどうしようかと考えながら、
私はコーヒーを飲んでいた。
そのあとに聞いた、
「かわいそうだね」
という言葉。
あの言葉にも、
きっと優しさがあった。
だから、
なくさなくていいと思う。
私もまた、
「ひどいよね」
という言葉に、
自分でも驚くほど強く反応した。
だからこそ、
その感情をそのまま結論にせず、
「どうして、私はこんなに引っかかったんだろう」
と考える時間があった。
私たちが見ているのは、
その人の一日の、ほんの一部。
その人と家族が歩いてきた人生の、
ほんの一部だ。
優しさは必要だ。
感情も必要だ。
けれど、
優しさに縛られると、
優しさからこぼれ落ちるものがある。
今日もその人は、
お茶を満足そうに、
ごくりと飲んだ。
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