わたしは虎でもあるし、エーミールでもある
国語の教科書は、最強のアンソロジーだと思う。
新年度、国語の教科書が配布されたその日、わたしは全ページを読み切ってしまう子どもだった。そこで夏目漱石にも清少納言にも丸山眞男にも出会った。国語の教科書が、自分の世界をぐっと広げてくれたと思う。
そんな「国語の教科書」をあらためて読み直した大人がいる。
かまど・みくのしん『本が読めない33歳が国語の教科書を読む』。
本の紹介
読書が苦手なWEBライター・みくのしんさんと、それを支える友人・かまどさん。二人の軽妙な掛け合いで綴られる読書実況は、真剣なのにどこか笑えて、でもじんわり胸に残る。
前作『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』では「走れメロス」を題材に大きな話題を呼んだ。こんなにおもしろく「走れメロス」が読めるのか!と笑いながら読んだ。
▼ネット記事で読めるのでぜひ!
そして本作では、「やまなし」「少年の日の思い出」「山月記」「枕草子」の4作品を読破。
中でも、わたし自身も深く関わってきた 『少年の日の思い出』 と 『山月記』 をめぐる読書から、自分の記憶や感情が強く揺さぶられた。
『少年の日の思い出』――わたしはエーミールでもある
ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』は、中学1年生の国語の教材。
物語は、大人になった主人公が子ども時代を振り返る形で進む。彼は昆虫採集に熱中しており、自作の箱に蝶の標本を集めていた。そんな主人公の近所にいたのが、非の打ち所のない優等生・エーミール。
ある日、エーミールが珍しい「クジャクヤママユ」を羽化させたと噂になる。主人公は我慢できずにエーミールの家へ忍び込み、標本を盗んでしまう。しかし蝶はポケットの中でバラバラに壊れてしまう。
母に打ち明けた主人公は、謝罪を決意。エーミールのもとを訪れるが、彼は冷たく言い放つ。
「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」
主人公は弁償を申し出るが、エーミールは拒絶。主人公は失意のなか、自らの標本をすべて壊してしまう。
――許しのないまま物語は終わる。
主人公が救われない、という衝撃のラスト。中1の教材にしては、なんとも残酷。
主人公視点なので、どうしてもエーミールが悪いやつのように映ってしまう。しかし、エーミールの軽蔑する物言いや謝罪されても許さない態度は、ちょっと私にも似たようなところがあるな、と思ってしまう。
エーミールにとって自分の大切なものが壊されたのだから、いくら丁寧に謝罪されたところで、許す気持ちなれないことはものすごくわかる。謝られたからといって、起こった過去は変わらない。全て許すことなどできない。
エーミールは、怒りの感情をぶつけるのではなく、子どもらしからぬ言い方で主人公を軽蔑する。「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」と。この辺り、わたし自身と似ている気がしてしまった。怒りの感情を、皮肉で返してしまう。素直に、嫌だった悲しかった、と言えばいいのに。
エーミールの子供らしからぬ言い方について、ある小説で次のように解釈されていた。
「直接書かれていたわけではないんですが、エーミールの親は教師です。教師が自分の子に対して教育者のように振る舞ってしまうのは、職業病のようなものではないでしょうか。家で許されても学校で許されないことは沢山あります。エーミールの場合、家のなかでも先生と一緒に暮らしているようで、許されなかったことが沢山あったかもしれません。ちょっとした我儘や、子供らしい振る舞いなんかも」
エーミール、わたしと一緒だなあ。わたしの両親も教師で、家で許されないこと多かった。変に大人びようとしていた。
わたしは主人公に嫉妬してしまう。主人公はエーミールには許されなかったけれど、傷心のあいだ、母は主人公を優しく見守っている。母は主人公に謝ることを促すが、責めたりはしない。その視線を、羨ましく思ってしまう。エーミールも、主人公を羨ましく感じていたのでないだろうか。
自分の幼い頃を、エーミールと重ねる。エーミールは、この少年の日の思い出を、大人になったらどのように思い出すのだろうか。
『山月記』――わたしは虎でもある
中島敦『山月記』は高校現代文の教材。
舞台は唐の時代。主人公の李徴(りちょう)は若くして科挙に合格した秀才だったが、名声を求めすぎるあまり官職を捨て、詩人として名を残そうとする。しかし生活は困窮し、再び官途に戻ろうとする途中で姿を消す。
数年後、旧友の袁傪(えんさん)が山中で出会ったのは、虎の姿となった李徴だった。
李徴は語る。「才能がないと気づいてしまうかもしれないから努力をぜず、でも才能があると期待をもしているから友人と交わらなかった」そして、自分が虎になったのは、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のせいだと。
最後に詩を託し、夜明けとともに姿を消す――。
高校生のときに読んだこの一節は、今も忘れられない。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心の所為である。」
人間であった李徴が、自らの傲慢さゆえに虎へと変じてしまったことを悔やむ場面。…これは高校生のわたしにめちゃくちゃ響いた。当時、「わたしも虎を心に飼っているかもしれない」と思った。
間違っていると指摘されることがこわい。
最近まで、フィードバックを受けることがこわかったくらいだ。
▼最近やっとフィードバックを受け入れられるようになった話
わたしはずっと前から、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ち合わせている。
そうである自分を認めることもまた、自分に誠実であることに繋がる気がする。虎を追い出すのではなく、飼い慣らしたい。
まとめ
『少年の日の思い出』を読むと、わたしはエーミールの孤独に重なる。
『山月記』を読むと、わたしの中の臆病な自尊心と尊大な羞恥心があらわになる。
わたしは虎でもあるし、エーミールでもある。
国語の教科書の作品を読み返すことは、結局「自分を見つめ直すこと」なのだと思う。みくのしんさんの実況的な読書は、そのことを改めて教えてくれた。
▼『枕草子』にも思い入れがあるのでエッセイにしています
国語の教科書――あの最強のアンソロジーを、もう一度開いてみたくなる。
そこには、きっと今の自分を映す鏡があるから。
