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終末夜話 25

大王が以前なし得なかったことって
なんだろう。
         ソレハヒミツヨ、キカナイホウガイイ
え?
今、誰か居た?
                 イルワ
誰?
           イラッシャイ、マドベヘ

ノートと辞書を閉じて立ち上がり、風通しのための窓辺に向かった。
キラキラ光る太陽の向こうから、涼やかな風と前にスクールバスの中で感じた爽やかな匂いが開いた窓からふわりと入って来て陸を包んだ。
                コンニチハ
小さな声がした。
            ヤットキヅイテクレタノネ
窓の桟にたんぽぽの綿毛が1本ぽわぽわと風に揺れている。
           ワタシガナンダカワカル?
            ナカマガタクサンイルノ
          ツギカラツギヘトヤッテクルワ
               アナタノモトニ
誰?
             イマハワカラナクテイイ
               マッテイルワ
なんで?
            アナタガヒツヨウダカラ
          アナタニハワタシタチガヒツヨウ
          ワタシタチニハアナタガヒツヨウ
                 ネ?
いいにおい。
               カンジルノネ
       ア,ムリダワ。キガツカレタ。サヨナラ。

「半井くん?」
座席にいないのを心配して、司書さんが陸の様子を見に来た。
「あら?この匂い。」

「先生この匂い、
 なんの匂いか知ってるの?」

「ええ、わかるわ。「楠」よ。」

陸は一瞬固まった。「楠」。
司書さんは植物図鑑のある本棚に行くと何冊か調べ、すぐに陸に見せてくれた。


「楠」「樟」

クスノキ科、ニッケイ属 常緑高木樹

生育は早く日本では関東以南
台湾、中国南部、ベトナムなど暖地でみられる。
高さ:8m~25m
太さ:2m~8m
葉は1.5~3.5センチ。先は尖り付け根は円形に近く縁は波状、深緑で光沢がある。
葉や茎には防虫効果のある匂いがある。
カンファー、カンフル、などと呼ばれ日本では衣類の防虫「樟脳」の原料とされている。
爽やかで、きりっとした香りがする。
材は丈夫で、家具、建築資材にはもちろん仏壇、仏具などにも用いられ、寺社仏閣に於いてはしばしば神木とされている。
材となってもその香りは消えない。

「楠、の匂いなの?」

「そうよ、アロマテラピーを勉強したことがあるの。クスノキには人の心をコントロールする効果があるの。」

「コントロール?」

「そう。落ち込んだ時に匂いを嗅ぐとその爽やかさで心が弾む。
反対にハイになって落ち着かないときには、脳が静まるのを感じる。」

陸は外を眺めた。

「なんでかしら。
 なんでクスノキが香ったのかしら。」

あれだけ窓のそばが楠の香りで満たされていたのに、いつの間にかその香りはなくなっていた。窓の桟にひとつ静かに揺れていたたんぽぽの綿毛もすでになく、植物図鑑の大きな楠の写真が陸の心に刻まれた。
大きな、大きな樹だった。
青い空に緑の葉を繁らせた大きな樹。
緑の野原にその影が大きく広がり、明るい空との対比が美しかった。

「勉強は終わったの?」

「終わったっていうか、持って来るの忘れちゃって。持って来たのは終わりました。」

うふふ、
「半井くんでもそんなドジをするのね。」
司書さんが笑った。

「時間まで、ぼく本を読んでます。」

「そうね。それがいいわ。」

4時に高等部の昇降口前から出るスクールバスで帰れば5時過ぎに家に着く。
あの、人形の家のように無機質で感情のない冷たい家に。


「ただいま。」
小さく言うと、靴を揃えそのまま何もしゃべることなく由紀子の前を通りすぎ洗面所で手を洗い、うがいをした。
キッチンに戻って冷蔵庫から水を取り出しグラスについで、ごくごくと音を立てて飲み干すと流しにグラスを置いて何も言うことなく自室に入った。
途中、由紀子が話しかけようと口を開きかけたがとりつく島も与えずに、顔を見ようともしなかった。
机の上に置かれた、黒い表紙の美しい本とその脇に分度器が置いてあり、陸は手に分度器を握りしめた。

空から
大王が降りてきて
以前達成し得なかったことを
成し遂げるだろう。
そして
七月最後の雨の夕方
私を求めるおまえの隣に
私は必ず行くだろう。

あの詩を声に出して読んだ。

ドアの外で由紀子が呼んでいる。
「陸!出てきて。話をして。」

「話すことなんかない。」

「ねえ、楠に行くのが嫌ならばお母さんちゃんとお父さんに説明するから。」

そんな単純なことじゃないよ。
お母さん。
ぼくはお母さんとお父さんの子供だけど、そうじゃない。
そもそも、他の家と土台が違う。
今日、わかったんだ。穂積おばあちゃんの家で感じたのはきっと
安心感。
ニンゲンがニンゲンであるための
ニンゲンがニンゲンで居られるための
ニンゲンがニンゲンのままでいられる、居ていいんだっていう
安心感。
あの家はニンゲンの家。
ぼくのうちは違う。
最初から。
土台が違う。
お父さんはぼくたちを飼っている。
お母さんは飼い慣らされて、
ぼくはそれを知らないまま、押し付けられたんだ。
この家は人形の家。
魂のない無機質な人形の家。

「ぼくは、人形じゃないよ。」

ドアの向こうにいる由紀子に静かに言った。

「人形って。」

「ぼくは知ってる。」

陸?と由紀子は呼んだ。
ドアの向こうに、たった一枚のドアの向こうにいる、あの可愛かった陸はなんでこんなに変わってしまったのか。
なんで自分を人形なんかに例えるのか。

「ずっと黙ってた。」

「陸。」

「お父さんはお父さんだけど、よその家のお父さんとは性質が違うって。
うちにはうちの事情があるんだって。」

分度器をこれでもかというほど握りしめ、声を圧し殺しドアの向こうにいる由紀子に話した。

「それでもお母さんが大好きだったよ。」

え?
だった?

「お母さんが大好きだった。」

由紀子は陸の言葉が急に過去系になり、背筋が寒くなった。

「それでもまだ、ぼくは子どもだ。
外へ出ても学校と家しか行くところがない。友だちもいない。
一人じゃご飯も食べられない。
ちゃんと布団で寝たいし、
お風呂にだって入りたい。
心行くまで、お水を飲みたい。
お母さん。楠なんか行きたくない。
わがままを言えば許してくれるの?
お父さんも、ヨシヨシソレジャアシカタナイ。と笑って許してくれるの?」

「話すわ、陸がそれを望むなら。」

陸は、静かにドアを開けた。
由紀子は陸の腕をつかみ「陸っ!」と呼んだ。
自分の腕をつかむ由紀子の手を反対の手でそっと払うと、陸は静かに言い放った。

「止めて。もう、さわらないで。
ぼくを子どものままでいさせたいなら、
ぼくにかまうのは止めて。
楠に行く、条件。」

本当は行きたくない。
でも行かなければならない。
お父さんがそれを許すわけがないし、ぼくがそのために生まれた人形ならばそれらしくしなくては。
でも、もう無理。
お父さんはどこかのおじさんだし、
お母さんはもう篠津先生の恋人だから。


            終末夜話 25
               つづく

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