「俊寛」シロクマ文芸部参加作品
俊寛
砂浜で俊寛が見たものはおびただしい数の卒塔婆が打ち上げられている光景だった。成経と康頼は千本の卒塔婆を海に流して霊験あらたか熊野権現の力によって清盛の元へ届けられて恩赦を受けたというのだ。ええい、なんでぼんくら二人が都に戻れてこの高僧であるわしが戻れんのじゃ。卒塔婆だって面倒なのを、こうして拾い上げ砂浜を綺麗にし、滲んだ言葉を洗い流して再利用しているのに、浜辺は卒塔婆のゴミの集積所となってしまった。
この卒塔婆はまるで投壜通信のようじゃ。都の殿上人まで届かぬか?せめて有王が拾ってくれたらわしの事情もわかろうというもの。この世はぼんくらしかおらんのか?今頃都ではあらぬ噂の種となっているのか。今日も一句卒塔婆を書こうかのぉ………..
卒塔婆や白波運べ夏の果 俊寛
そこへやって来たのが弟子の有王だった。彼の想像では鬼界ヶ島に流された俊寛は親鸞僧都のような名僧となる人だったのである。その俊寛が餓鬼道に堕ちているような気がした。
「先生は、いつも仰せられました。『わしは高僧である』と。されど、先生のお心は、いつも都の方角を向いておりました。島の人々の苦しみよりも、都の噂話の方が大事だったのでしょうか。」
「お前は何もわかってない。わたしが都の方を向いているのは彼らの奢りを正したいからに決まっているではないか?島の人々の苦しみはこうしてわたしが餓鬼道に墜ちることで体現しているのだ。それがわからない弟子とはのう。親鸞のもとには唯円という優れた弟子がいたのだ。彼は親鸞の教えを『歎異抄』にまとめたというがのう」
「先生は、成経様や康頼様が恩赦を得て都に戻られたことを、それはそれは妬んでおられました。『ぼんくら二人が』と、何度も何度も。先生は、ご自分のことを「高僧」とおっしゃいますが、そのお心は、まるで子供のようではありませんか。」
「お前に一つ教えておこう。わしは成経や康頼を憐れんでいるのだ。「ぼんくら」とは盆=魂が昏いということだぞ。わしが「高僧」なのは事実なのじゃ。そなたが『歎異抄』のような本をこれから書くのだぞ」
「先生は、卒塔婆を再利用されました。『もったいない』と仰せられましたが、それは本当に、もったいないからでしょうか? それとも、少しでも都に繋がるものを手放したくなかったからでしょうか? 私には、よくわかりません。」
「自然を再利用しないでどうする!この世の資源は有限と申すではないか?これも最新のエコロジーという思考だよ。わしはエロジジイでもあるがのう。それにお前が卒塔婆で文字を覚えなければわしの『歎異抄』は永遠にこの世に失われたままではないか」
「先生は、いつも難しいお経を唱えられます。されど、先生のお顔は、いつも曇っておられます。お経を唱えることで、心が晴れることはないのでしょうか? 私には、よくわかりません。」
「それは言葉というものは理解不能なものだ。だから翻訳者としてそなたが必要なんだろう。これも修行の一つだぞ」
「先生は、親鸞様のようにはなれませんでした。親鸞様は、阿弥陀様を信じて、ただひたすらに念仏を唱えられたと聞きます。先生は、ご自分の才覚を信じて、都に戻ることを夢見ておられました。その違いが、お二人の運命を分けたのかもしれません。」
「じゃかましいわい。わしが親鸞のようにいつなると言った。わしはすでに親鸞を超えているのだぞ。それを後世に伝えるのが弟子の役目ではないか。お前は考えが浅すぎぞ」
「私は、文字を書けません。だから、先生の言葉を書き残すことはできません。しかし、先生の言葉は、私の心に深く刻まれています。先生は、私にとって、偉大な先生であると同時に、どこか寂しいお方でもありました。」
「だからこの卒塔婆で文字を習えといっているのだ。偉大な師には出来た弟子がいるもんだぞ。孔子しかり、キリストしかり。わしが彼らを超える存在になるには有王お前の力も必要なのじゃ」
有王は卒塔婆を拾い上げた俊寛をあわれんだ。都ではあまりの仕打ちに俊寛は気が触れたという噂でもちきりだった。その噂を流すのが、成経や康頼であるのだが。
その卒塔婆を拾う俊寛の姿は夕陽に染まり後光がさしているのかと思ったほどだ。卒塔婆の打ち寄せる波音が永遠にお経のように聴こえてくるのだろうか?
