『おおかみのうた』「第四話 挽歌」
寺川修一は、神城文を守れなかった。
いや、正確に言えば――
彼女を守ったのは、顧問である尺八郎だった。
寺川修一は、神城文の先に立つ、その男を見据えていた。
尺八郎。
それは寺川修一が、最も嫌悪する「保守」の象徴だった。
かつて反逆児だった者が、権威を手にした途端、守る側に回ってしまう。
制度を語り、秩序を説き、若い才能を囲い込む。
――祀り上げられた反逆者ほど、醜いものはない。
寺川修一は、今や一匹狼だった。
彷徨う荒野の狼。
目の前で、同志を奪われた男。
彼にとっては、自爆してでも壊したい壁が、確かに存在している。
だからこそ、寺川修一が先に詠んだのは、勝利の歌ではなく――挽歌だった。
それは神城文に向けたものではない。
むしろ、彼女を守れなかった自分自身への、そして――歌壇へ、制度へ、社会へ向けた挽歌だった。
この展開は、実況席にとっても完全な想定外だった。
「……これは、どういう歌なんでしょうか」
アナウンサーは困惑し、解説を柳棚国男に求めた。
だが、柳棚にも即答はできなかった。
ただ一つ確かなのは、
それが神城文への返歌ではない、ということだけだった。君へでも、他者へでもない。すべてへ向けられた挽歌――
そう思えた。
「寺川修一君は、今まで神城文さんの歌を、相聞歌として詠んできたと思うんです」
柳棚国男が、言葉を選びながら口を開く。
「でも、今回は違います。順番的には、次は神城文さんの歌から始まるべきでした。それなのに、寺川君はその“規制”を削いだ」
「それは焦りじゃないのかね」
頭塚和夫が眉をひそめる。
「ええ、焦りでもあると思います。でも同時に……神城文さんへの挽歌、顧問である尺八郎先生への挽歌、さらには、この歌壇そのものへの挽歌。こうしたコンテストへの挽歌であり、社会そのものへの挽歌だと思うんです」
「そこまで反逆的かな」
頭塚は苦笑した。
「敗北宣言ではあるかもしれないが、歌壇への挽歌だなんて、少し大げさじゃないか?そもそも、ここは小野さくらコンテストだ。そんな歌が許されるはずがない」
そして、問いかける。
「ねえ、この歌が社会への反逆に思えるかい?」
「……ええ」とアナウンサーは小さく頷く。
葛原けい子は、ほとんど囁くように言った。
「反逆かもしれません」
「私たちオールド世代には、分からないですね」と、アナウンサーが反応する。
頭塚は肩をすくめた。
「最近の高校生が、何を考えているのか。正直に言えば、私は短歌そのものにも不安を感じていますよ」
「――次に、神城文さんの歌が詠まれました」
アナウンサーが、流れを戻す。
「これは……誰が詠んでも、美しい相聞歌ですね」
「つまり」
頭塚が続ける。
「神城文さんは、寺川修一君の挽歌に対して、相聞歌で返した、ということか」
「はい」、葛原けい子はうなずいた。
「この歌も、さっきの寺川君の歌も、用意されたものではないと思います。即興です」
「即興?」
「はい。会場の空気を読んで、言葉を立ち上げる。私たちは、そういう訓練を普段からしています」
「そんな馬鹿な」、頭塚は即座に否定した。
「高校生ごときが即興で短歌を詠むなんて、我々プロでも難しい」
「だからこそ、なんです」
葛原けい子は静かに言った。
「これは、彼ら二人だけの世界で成立している歌です。私たちは、最初から除外されている」
「……それは、あるな」、柳棚国男が、ぽつりと口を開いた。それは彼岸の異空間の戦いだ!
「寺川修一は寺山修司に憧れ、自分をその生まれ変わりだと信じている。神城文もまた、中城ふみ子の生まれ変わりとして歌っている。世代や時空を越えた、異世界の短歌だ」
その瞬間――そこで、柳棚国男の言葉は突然途切れた。
彼は「それは彼岸の戦いだ」と言おうとした。その瞬間だった。
会場のスクリーンに表示される判定――すべての旗が、神城文に上がっていた。
ざわめきが、遅れて押し寄せる。
「――予想通りですね。勝負にならなかった」
実況席で、頭塚和夫が淡々と言った。
「まあ、次の決勝戦は小野まちこの優勝でしょう。明らかにこの準決勝は、その前の試合と落差がある。事実上、先ほどの準決勝――小野まちこ対俵田まちこのマッチング対決こそが決勝戦でしたね」
言い切る声。自信に揺らぎはない。
「そんなことないです!」
そのとき、割って入る声があった。
「神城文さんは……どんどん大きくなっています」
葛原けい子は、静かに、しかしはっきりとそう言った。
会場が、もう一度ざわめく。
――ここからが、クライマックスだった。
場内の熱が冷めきらないまま、実況席では次の言葉が用意されていた。
「さて、これで決勝進出は神城文。率直に言いましょう、頭塚さん。これは波乱ではありませんか」
頭塚の声には、抑え用とする。
「波乱というほどでもないでしょう」
頭塚は即座に切り返した。
手元の資料をめくる指先に、迷いはない。
「神城文は確かに勢いがあります。しかし決勝は別物です。相手は小野まちこ。完成度、安定感、読みの深さ――どれを取っても、現時点では一枚も二枚も上。これは経験の差ですよ」
「経験、ですか」
柳棚は、わずかに笑った。
「経験という言葉は便利ですね。いつも若い芽を刈るときに使われる」
「私は事実を言っているだけです」
「事実、という言葉もまた便利だ」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、葛原けい子だった。
「でも……」
マイクにかからないほどの声。それでも、確かに言葉はそこにあった。
「神城文さん、さっきの歌で“勝とう”としていませんでした」
頭塚が眉をひそめる。
「どういう意味かな」
「寺川君に勝つ、というより……自分がどこまで行けるのかを、確かめているように見えました」
その言葉に、柳棚国男が大きくうなずく。
「そう。それだ」
彼は続けた。
「旧世代の短歌は、どうしても“勝つための言葉”を磨いてきた。技巧、引用、重み、歴史への敬意。しかし――神城文は違う。彼女は言葉に、自分自身を賭けている」
「賭けている、ね」
頭塚は小さく鼻で笑う。
「賭けは博打です。競技ではない」
「競技だからこそ、賭けが必要なんですよ」
柳棚の声が、わずかに強くなる。
「完成された歌は美しい。しかし、完成されていない歌が、時代を動かすこともある。私は今日、その瞬間を見ている気がします」
頭塚は腕を組み、観客席を見下ろした。
「観客は感動している。しかし審査は感動ではない。決勝は、神城文にとってまだ早い」
「早いかどうかは、本人が決める」
柳棚はそう言って、モニターに映る神城文の姿を見つめた。
ステージ袖で、水を一口飲み、深く息を吸うその横顔。
それは勝者の顔でも、挑戦者の顔でもなかった。
ただ――これから先へ行く者の顔だった。
「予想を言いましょう」
頭塚が締めに入る。
「決勝戦、小野まちこ優勝。これは動きません」
「私は――」
柳棚は一拍置いた。
「勝敗は分かりません。ただ一つ言えるのは、今日ここで“新しい短歌の時間”が始まったということです」
葛原けい子と、隣に座る高校生の実況補助の少年は、顔を見合わせた。
彼らにはもう、勝ち負け以上のものが、はっきりと見えていた。
――神城文は、もはや“準決勝の人”ではない。
決勝戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
