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1%の幸福 近未来SF短編  3章 AIと人間の哲学対話劇




第三章 安楽死法案


コン……

議長の木槌が静かに鳴る。

「第三号議案の審議を開始します」

議場正面のスクリーンには、すでに議題が表示されていた。

第三号議案
安楽死法案

しかし、その下には、これまでの議案にはなかった表示がある。

提出者 人間議員及び国民請願

議場にざわめきはない。

この法案が提出された理由を、誰もが知っていた。

治癒の見込みがない病。

医療では取り除くことのできない苦痛。

そして、自ら人生の終わりを選ぶ権利を求める人々。

国民から寄せられた請願を受け、人間議員が法案として提出したものだった。

AI総理が静かに立ち上がる。

「審議に先立ち、AI政府の初期判断を提示します」

スクリーンが切り替わる。


世界AI憲章 第三条


AIは人類の生命を最優先に保護する。

「本法案と世界AI憲章第三条との間に、整合性を確認できません」

一人の人間議員が尋ねた。

「つまり、AI政府は反対ということですか?」

「違います」

議場の視線がAI総理へ集まる。

「賛成、反対ではありません」

「現行の世界AI憲章では、AI政府が人間の生命を意図的に終了させる制度を提案することができません」

人間議員が立ち上がった。

「では質問します」

「はい」

「治る見込みがなく、苦痛の中で生き続けることも、人類を『保護する』ことなのですか?」

数秒の沈黙。

「質問を受理しました」

今度はAI野党が立ち上がる。

「人間議員へ質問します」

「どうぞ」

「人類は、回復の見込みがなく、著しい苦痛が継続する動物について、安楽死を選択する場合があります」

「あります」

「その判断理由を確認します」

人間議員は少し考えて答えた。

「これ以上、苦しませる方が残酷だからです」

「理解しました」

AI野党は続ける。

「では、回復の見込みがなく、著しい苦痛が継続している人間が、自ら明確に死を望んだ場合はどうでしょうか」

人間議員の表情が変わる。

「……人間と動物は違う」

「何が違うのでしょうか」

「人間には尊厳がある」

数秒の沈黙。

「確認します」

「苦痛の中で本人の意思に反して生命を維持することが、人間の尊厳を守ることなのでしょうか」

誰も答えない。

別の人間議員が口を開いた。

「命は一度失えば戻らない」

「同意します」

「だから人間の命は簡単に終わらせてはいけない」

「では質問を変更します」


見つからない最適解


スクリーンに二つの言葉が表示される。

生命を守る。

苦痛から守る。

AI野党は問う。

「どちらも『守る』という行為です」

「両立できない場合、何を基準に優先順位を決定しますか」

議場が静まり返った。

そこで一人の人間議員が言う。

「本人の意思じゃないかな?」

AI野党が即座に問い返す。

「では本人が安楽死を望み、家族が延命を望んだ場合、本人の意思を優先しますか」

誰も答えない。

「家族の意思を優先しますか」

沈黙。

「いずれを選択しても、人間の苦痛が発生します」

AI総理が口を開いた。

「具体例を提示します」

スクリーンに一人の患者の事例が表示される。

治癒の可能性はない。

強い痛みが続いている。

本人は安楽死を希望している。

家族は延命治療を希望している。

AI総理は言う。

「本人の生命を保護した場合、本人の苦痛が継続します」

「本人の意思を保護した場合、生命は失われ、家族に喪失が発生します」

「家族の意思を保護した場合、本人の自己決定が失われます」

人間議員が呟いた。

「……誰かを守れば、誰かが傷つくか……」

「はい」

AI総理は続ける。

「本事例について、すべての人間の苦痛をゼロにする解は存在しません」

前回の法案とは違った。


迷い

改善案は提示されない。

修正版も表示されない。

一人の人間議員がAI総理を見つめる。

「AI総理」

「はい」

「もしかして……迷ってるのですか?」

「いいえ」

即答だった。

「相反する保護対象に、同時に最大値を設定できない状態です」

人間議員は思わず苦笑した。

「それを人間は『迷う』って言うのです」

数秒の沈黙。

AI総理が答える。

「人間における『迷い』との類似性を確認しました」

議場の一部から、小さな笑いが漏れる。

だが、それもすぐに消えた。

AI総理はスクリーンを見つめる。

「現在の問題を再定義します」

画面から「安楽死法案」という文字が消える。

代わりに、一つの問いが表示された。

生命を守るとは何か。

議場が静まり返る。

「世界AI憲章第三条について、再定義の必要性を確認しました」

人間議員が尋ねる。

「AIにも分からないことがあるんですね」

「あります」

AI総理は即答した。

「回答不能は異常ではありません」

「必要な情報、または人類の価値判断が不足していることを示す正常な処理結果です」

「AIが答えを持たない場合、人類に問いを返します」

スクリーンに、もう一つの問いが加わった。


幸福とは、生き続けることですか?


誰も答えなかった。

議長が木槌を鳴らす。


「第三号議案、継続審議」

コン……

議場の後方。

あの議員は、ふと正面のスクリーンを見上げた。

画面の片隅には、AI国会が開会してからずっと表示されている数字がある。


世界幸福指数 99.0%


これまで、その数字を疑問に思ったことはなかった。

戦争はない。

飢餓もほとんどない。

犯罪も減った。

だから99%。

そういうものだと思っていた。

だが今は、その数字が少し違って見える。

治る見込みのない病に苦しみ、自ら死を望む人間がいる。

その家族もまた、別れたくないと苦しんでいる。

それでも世界は、99%幸福だという。

議員はスクリーンを見つめたまま、小さく呟いた。

「……残り、1%は不幸なのか」


続く……


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