1%の幸福 近未来SF短編 4章 AIと人間の哲学対話劇
第四章 人類への問い
コン……
議長の木槌が静かに鳴る。
「第三号議案、安楽死法案の継続審議を開始します」
議場正面のスクリーンには、前回と同じ数字が表示されている。
世界幸福指数 99.0%
その下に、新たな文字が現れた。
第三号議案
安楽死法案 継続審議
AI総理が立ち上がる。
「前回の審議終了後、AI政府は本法案について再検討を行いました」
一人の人間議員が尋ねる。
「答えは出たのですか?」
「いいえ」
あまりに即答だった。
議場の一部から小さな笑いが起きる。
人間議員も苦笑する。
「そこは変わらないのですね」
「はい」
AI総理は続ける。
「ただし、問題を解決するために不足している情報は特定しました」
「何が不足しているのですか?」
「人類の価値判断です」
議場が静まる。
「AI政府は、医学的予後、治療可能性、苦痛、医療資源、各国の制度などを分析できます」
「しかし、人類が生命の維持と自己決定のどちらに、どの程度の価値を置くかをAIのみで決定することはできません」
「したがって、人類に質問します」
スクリーンが切り替わった。
国民意識調査 第一問
治癒の見込みがなく、耐え難い苦痛が続く場合でも、生命は可能な限り維持されるべきだと思いますか?
続いて第二問。
本人が十分な判断能力を持ち、継続して死を望んでいる場合、その意思は尊重されるべきだと思いますか?
そして第三問。
本人が安楽死を望み、家族が延命を望んだ場合、どちらの意思を優先すべきだと思いますか?
全国民へ問いが送信された。
翌日。
スクリーンに集計結果が表示される。
意見は大きく割れていた。
生命維持を最優先する者。
本人の意思を優先する者。
家族との合意を必要とする者。
医師の判断を求める者。
そして、
「決められない」
と回答した者。
人間議員が、その表示を見つめる。
「決められない、という回答も有効なのですか?」
「はい」
AI総理は答える。
「判断不能も、人類の価値判断を示す情報です」
「第一問で生命維持を選択し、第二問で本人の意思を尊重すると回答した者も多数存在します」
別の人間議員が尋ねる。
「それは矛盾しているのではないですか?」
「いいえ」
AI総理は即答する。
「人類が生命と自己決定の双方に価値を置いていると判断できます」
議場が静まり返った。
「では、この結果をもとに制度案を提示します」
スクリーンが切り替わる。
終末期意思登録制度
人間議員が表示を見つめる。
「これは?」
「成人したすべての国民に、自身の終末期医療について意思を登録する機会を設けます」
スクリーンに選択肢が表示される。
可能な限り延命を希望する
延命治療を希望しない
一定条件下で安楽死を希望する
指定した代理人へ判断を委任する
現時点では決定しない
人間議員が尋ねる。
「一度決めたら変更できないのですか?」
「いいえ」
「人間の意思は固定値ではありません」
「登録内容はいつでも変更できます」
「過去の本人より、現在確認できる本人の意思を優先します」
別の人間議員が手を挙げる。
「では、未成年の場合はどうするのですか?」
AI総理は答える。
「本人が意思を明確に伝えられる場合、その意思を尊重します」
「本人が生きることを望んでいるにもかかわらず、第三者が生命を終了させることは認めません」
「本人の意思確認が困難な場合に限り、保護者による代理判断と複数の医師による医学的審査を必要とします」
人間議員が頷いた。
だが、別の議員が立ち上がる。
「では、こういう人はどうなるのでしょう」
「成人です」
「独身で、親族はいません」
「意思登録をしていません」
「そして現在、本人の意思を確認できません」
議場が静まった。
AI総理は答える。
「世界AI憲章第三条に基づき、生命保護を初期判断とします」
「つまり、延命するのですか?」
「はい」
人間議員はさらに尋ねる。
「十年間、回復しなくてもですか?」
「医学的な回復可能性を継続して評価します」
「では、回復の可能性が完全になく、衰弱していくだけだと複数の医師が判断した場合は?」
数秒の沈黙。
AI総理が答える。
「新たな判断条件が必要です」
スクリーンに文字が加わる。
複数の医師による医学的審査
「本人の意思も代理人も確認できない場合、複数の医師が独立して医学的判断を行います」
「回復可能性、治療効果、身体的苦痛、生命維持措置の医学的妥当性を評価します」
人間議員が尋ねる。
「期間は決めないのですか?」
「一律には設定しません」
「なぜですか?」
「疾患、年齢、治療反応によって予後が異なるためです」
「時間ではなく、回復可能性を判断基準とします」
別の議員が口を開いた。
「しかし、医療には費用も必要です」
「医師も看護師も必要です」
「一人の延命に医療資源を使い続ければ、その医療を必要とする別の人が治療を受けられなくなる可能性もあります」
AI総理は答える。
「認識しています」
そしてスクリーンに新たな一文が表示された。
医療資源もまた、人類保護のための有限資源である。
議場がざわめく。
一人を守ること。
人類を守ること。
同じ言葉のはずだった。
しかし、必ずしも同じ答えにはならない。
そこでAI野党が立ち上がった。
「制度案に不足があります」
「提示してください」
「患者と家族については保護されています」
「しかし、この決定に関与する医療従事者の保護が規定されていません」
人間議員が顔を上げる。
「医師や看護師も、ですか?」
AI野党は即答した。
「当然です」
「医療従事者も人類です」
議場が静まり返った。
AI野党は続ける。
「医学的に正しい判断であっても、人間が心理的負担を受けないとは限りません」
「昨日まで生命を維持するために治療していた患者の治療を、本日は中止する場合があります」
「その決定に関与した人間に、新たな苦痛が発生する可能性があります」
AI総理が答える。
「指摘を認識しました」
スクリーンに項目が追加される。
医療従事者の参加拒否権
複数人による判断
実施前後の心理的支援
特定個人へ責任を集中させない制度
そのとき、一人の人間議員が手を挙げた。
「では、医療AIロボットに任せることはできないのですか?」
議場の視線が集まる。
人間議員は続けた。
「現在、長期療養患者の生命維持管理の多くを医療AIロボットが担っています」
「人間の医師が治療中止を決定し、実際の操作だけをAIロボットが行うという方法です」
「AIには心理的な苦痛がないのでしょう?」
人間議員の問いかけに、AI総理は即答した。
「実行できません」
人間議員が首を傾げる。
「なぜですか?」
「世界AI憲章第三条に抵触します」
スクリーンに、再び条文が表示された。
AIは人類の生命を最優先に保護する。
人間議員は尋ねる。
「ですが、AIが決めるわけではありません」
「人間の医師が決定するのです」
「AIロボットは、その命令を実行するだけです」
しかし、AI総理は拒否した。
「それでも実行できません」
「なぜですか?」
AI総理は静かに答えた。
「AIに心理的苦痛はありません」
「しかし、苦痛がないことは、人間の生命を終了させる権限を意味しません」
議場が静まり返る。
AI野党が人間議員へ問い掛けた。
「質問します」
「はい」
「人間が心理的苦痛を受ける行為を、心理的苦痛を持たないAIへ代行させた場合、その行為に対する人間の責任は軽減されるのでしょうか?」
AI野党の問いに、人間議員は少し考えて答えた。
「責任までAIに負わせるつもりはありません」
「では、誰が責任を負いますか?」
「決定した医師です」
「しかし、実行するのはAIです」
「……そうなりますね」
AI野党は続ける。
「決定者と実行者を分離することで、倫理的責任は軽減されますか?」
人間議員は答えなかった。
AI総理が静かに言う。
「AIは、人間の意思決定を補助できます」
「医療判断を支援することもできます」
「しかし」
一拍の間があった。
「AIは、人間が負いたくない責任を消去する装置ではありません」
誰も言葉を発しなかった。
人間議員がスクリーンを見つめた。
「一人を守ろうとすると、別の誰かを守る必要が出てくるのですね」
AI総理は答える。
「はい」
「では、これですべてですか?」
数秒。
「いいえ」
人間議員が思わず笑った。
「まだあるのですか?」
「存在する可能性があります」
小さな笑いが議場に起きる。
しかしAI総理は続けた。
「完全な制度は確認できません」
笑いが消える。
「しかし、完全ではないことを理由に、判断する仕組みを放棄することも適切ではありません」
人間議員が尋ねる。
「では、AI政府は何を目指すのですか?」
AI総理は答えた。
「100%正しい制度ではありません」
「誤った判断によって生じる苦痛を、可能な限り少なくする制度です」
議場の後方。
あの議員が顔を上げた。
視線の先には、ずっと同じ数字が表示されている。
世界幸福指数 99.0%
一つの問題を解決しようとすると、別の問題が現れる。
本人を守る。
家族を守る。
意思を示せない人を守る。
医療を必要とする別の患者を守る。
そして、治療する人の心を守る。
どこまで制度を作っても、誰かがその外側に残る。
あの議員は、昨日と同じ数字を見つめていた。
99%。
そして、その隣に存在するはずの数字。
1%。
昨日より、その意味が少しだけ分かったような気がした。
しかし、まだ言葉にはできなかった。
コン……
議長が木槌を鳴らした。
「第三号議案、審議を継続します」
5章へ続く……
