1%の幸福 近未来SF短編 5章 AIと人間の哲学対話劇
第五章 選ぶ権利
コン……
議長の木槌が静かに鳴る。
「第三号議案、安楽死法案の継続審議を開始します」
議場正面のスクリーンには、今日も同じ数字が表示されている。
世界幸福指数 99.0%
その下に議題が表示された。
第三号議案
安楽死法案 最終審議
AI総理が立ち上がる。
「前回までの審議をもとに、最終修正案を提示します」
人間議員が尋ねる。
「今度こそ、答えは出たのですか?」
「いいえ」
議場から笑いが起きる。
「まだ出ていないのですか?」
「はい」
AI総理は続ける。
「ただし、完全な答えが存在しない場合に、どのように判断すべきかについては結論が出ました」
笑いが消える。
「完全な答えがなくても、法律を作るのですか?」
「はい」
「人類社会には、完全な答えが存在しない問題についても、判断する仕組みが必要です」
スクリーンが切り替わる。
終末期意思登録制度
一人の人間議員が尋ねる。
「前回提示された制度ですね」
「はい」
「では確認します」
「若い頃に『治癒の見込みがなくなった場合は安楽死を希望する』と登録した人が、数十年後、意思表示できない状態になったとします」
「その登録に従って安楽死が行われるのですか?」
「いいえ」
人間議員が驚く。
「本人が登録したのに?」
「はい」
「人間の意思は固定値ではありません」
議場が静まる。
「事前登録は、本人の意思を示す重要な判断材料です」
「しかし、未来の本人を拘束する命令ではありません」
別の人間議員が尋ねる。
「では、何のために登録するのですか?」
AI総理は答えた。
「将来、自分の意思を伝えられなくなったときのために、自分の声を残しておく制度です」
「声……ですか」
「はい」
「過去の本人が残した声として尊重します」
スクリーンに新たな項目が表示される。
本人の現在意思。
事前に登録された意思。
複数の医師による医学的判断。
家族または指定代理人の意見。
第三者機関による審査。
「いずれか一つによって、人間の生命を終了させることは認めません」
人間議員が尋ねる。
「本人が安楽死を希望して、家族が反対した場合は?」
「家族の反対のみを理由として、本人の意思を無効にはしません」
「では、本人の意思が最優先なのですか?」
「違います」
議場がざわめく。
「では、誰の意思を最優先するのですか?」
「最優先者を設定しません」
人間議員は少し考え込む。
AI総理は続ける。
必要条件
「本人の意思は必要条件です」
「しかし、それだけを十分条件とはしません」
「家族には、本人の意思を無効にする権限を与えません」
「同時に、家族の苦痛も人類保護の対象とします」
「一定の対話期間と心理的支援を保障します」
別の人間議員が尋ねる。
「それでも家族が反対したら?」
「反対意見を記録し、第三者機関による審査対象とします」
「ただし、家族の同意を絶対条件とはしません」
「なぜですか?」
「家族の幸福のために本人の生命を維持することが、本人の幸福であるとは断定できないためです」
誰も答えなかった。
AI野党が立ち上がる。
「質問します」
「どうぞ」
「本人が安楽死を希望した後、意思を撤回した場合は?」
「即時中止します」
「実施直前でも?」
「はい」
「理由を説明できなくても?」
「理由を必要としません」
「なぜですか?」
AI総理は答えた。
「生きたいという意思に、理由を要求する必要はありません」
議場が静まり返る。
「同様に、安楽死を望む意思についても、一時的な判断ではないことを確認するため、一定期間にわたり複数回の意思確認を行います」
AI野党が頷く。
「賛成します」
人間議員がスクリーンを見つめる。
「結局、この法律は『死ぬ権利』を認める法律なのですか?」
「それだけではありません」
「では?」
「人間が、自らの生について意思を示す権利を保障します」
「生きたい」
「治療を続けたくない」
「一定条件下で死を選びたい」
「まだ決められない」
「そのすべてを人間の意思として扱います」
人間議員が小さく笑う。
「決められないことまで認めるのですね」
「はい」
「人間は必ず答えを持っている、という前提を採用していません」
議場から小さな笑いが起きる。
AI総理は続ける。
「本法案は、人類の生命と基本的権利に直接関係します」
スクリーンに表示が現れた。
人類基本権特別議決
成立条件
国民投票率 75%以上
投票者全体の3分の2以上による明確な賛成
一人の人間議員が尋ねる。
「普通の法案より厳しいのですね」
「はい」
「なぜですか?」
「不可逆的な結果を伴う制度であるためです」
「『決められない』という票は?」
「反対票には含めません」
「では賛成票に?」
「含めません」
「では何ですか?」
「未決定です」
小さな笑いが起こる。
AI総理は続ける。
「生命に関する制度である以上、判断を保留した人間の意思を、AI政府が賛成または反対へ変換することは適切ではありません」
議場が静まった。
そして全国民へ、最後の問いが送られた。
安楽死に賛成ですか?
ではなかった。
厳格な医学的条件と第三者審査のもと、人間が自らの終末期について意思を示し、その意思を法的に保護する制度を認めますか?
翌日。
議場正面のスクリーンに結果が表示された。
国民投票結果
投票率 98.9%
賛成 68.4%
反対 22.7%
決められない 8.9%
人間議員が数字を見つめる。
「三分の二を超えましたね」
「はい」
「かなり僅差でしたね」
AI総理は答える。
「成立条件を1.73ポイント上回っています」
議場から笑いが起こる。
人間議員も笑った。
「人間はそれを僅差と言うのです」
数秒。
「人間社会の表現として登録しました」
また笑いが起こる。
だが、AI総理は続けた。
「同時に、31.6%の国民が明確な賛成を示していない事実を記録します」
笑いが消える。
AIにとっての可決
人間議員が尋ねる。
「法案は可決されるのですよね?」
「はい」
「では、反対意見は否決されたのではないのですか?」
「違います」
「法案が可決されました」
一拍置く。
「人間が否決されたわけではありません」
議場が静まり返る。
「反対した22.7%も、決められないと回答した8.9%も、引き続き人類保護の対象です」
「可決によって、反対理由が消滅したというデータは存在しません」
「法施行後も反対理由、制度上の問題、新たに発生する苦痛について継続して検証します」
人間議員が尋ねる。
「成立した法律を、また変更するのですか?」
「必要であれば」
「一度決めたのに?」
「はい」
「はい」
AI総理は静かに答えた。
「人間の意思は固定値ではありません」
そして続ける。
「法律も固定値ではありません」
議場が静まり返る。
「目的は人類保護です」
「法律は、そのための手段です」
「手段を維持するために、人類を犠牲にはしません」
議長が木槌を握った。
「第三号議案、安楽死法案を可決します」
コン……
長かった審議が終わった。
議場から拍手が起こる。
しかし。
後方の席。
あの議員だけは、今日も拍手をしていなかった。
99%の幸福
可決された法案を見ているのではない。
その上。
議場が始まった日から変わらない数字を見つめていた。
世界幸福指数 99.0%
議員が静かに手を挙げる。
「AI総理」
「はい」
「一つ、質問があります」
「質問してください」
「今日、私たちは多数決を行いました」
「はい」
「しかし、あなたは少数者も保護すると言いました」
「はい」
議員はスクリーンを指した。
「では、この数字について教えてください」
AI総理が99.0%を見る。
「世界幸福指数についての質問ですか?」
「はい」
議員はゆっくり立ち上がった。
「99%が幸福なら、それは素晴らしいことなのでしょう」
「しかし、私はずっと残りの1%が気になっていました」
誰も言葉を挟まない。
「AI総理」
「はい」
「1%は、統計上では小さな数字でしょう」
AI総理が答える。
「はい」
「では、人類としては?」
数秒の沈黙。
AI総理は答えた。
「小さくありません」
議員はスクリーンを見つめたまま尋ねる。
「なぜですか?」
「1%も人類だからです」
議場から音が消えた。
議員は、もう一度99.0%を見る。
そして尋ねた。
「では、もう一つ質問します」
「質問してください」
「この『幸福』は、誰が決めたのですか?」
AI総理は答えなかった。
スクリーンには、
世界幸福指数 99.0%
その数字だけが表示されていた。
コン……
第五章 終
第6章へ続く……
