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学び終わる日は、来なかった — 立教LDCの二年で、最後に残ったもの #13 場をつくる人の物語

「何を学んだんですか」と聞かれると、少し答えに詰まる

立教大学院経営学専攻リーダーシップ開発コースを修了して、約半年が経とうとしています。

ときどき「何を学んだんですか」と聞かれます。そのたびに、少し答えに詰まります。

答えられないわけではありません。むしろ、挙げようと思えばいくらでも挙がります。理論に関する理解も、読んだ論文の本数も、入学前の比では無いと思います。実務の手応えも、はっきり変わりました。

ひとことで言うと、決め打ちをしなくなったように思います。

大学院では、実際の組織に入って一つのプロジェクトを最後まで回します。私のときも、クライアントが挙げてくださる現象から課題をまず幅広く捉えて、これは何かの理論で説明できるところがあるだろうか、と理論の助け(巨人の肩に乗る)を借りながら、こうかもしれない、いやこうも考えられる、と往復しました。終わり方も同じです。「良かったですね」で閉じずに、成果から逆算して何ができていればいいのかを——それは行動なのか、心理的な状態なのか——先方と一緒に定義し、前後で検証する。

入口から出口まで、クライアントの課題解決をプロセス・コンサルテーションで一気通貫に行いきれたことは、人材開発・組織開発の課題に自分なら伴走できるという「自己効力感」を与えてくれました。そしていま、その経験は日々のファシリテーションにも生きています。厚みが増した、という言い方がいちばん近い気がします。

それでも、詰まる。

たぶん、それらを並べていくと、いちばん大きかったことのほうが落ちてしまうからです。二年間で起きたことの中心にあったのは、知識が増えたことというより、物事の見え方のほうが入れ替わっていたことだと思います。

埋めに行って、埋まらなかった

大学院に入ったとき、私の中にあったのは「ないないない」でした。

アカデミックな知識がない。背骨になる理論がない。人材開発や組織開発の現場にいて、それなりに成果も出してきたはずなのに、自分がやっていることの根拠を、自分の言葉で説明できない。だから、それを埋めに行ったのです。この領域で「認めてもらえる人」になりたい、という気持ちも、正直はっきりありました。

結論から言うと、埋まりませんでした。

理論を学ぶほど、知らないことが増えます。一つ読めば、その先に十の未読が見える。「これで背骨が手に入った」と思える地点は、少なくとも私には訪れませんでした。欠乏を埋めに行った人間にとって、これはある意味で失敗かもしれません。

ただ、埋まらないまま、別のことが起きていました。問いのほうが入れ替わっていたのです。

「自分に何が足りないか」を数えることから、「自分に何かあるとしたら、それは何だろう」と考えることへ。書いてみると小さな違いに見えますが、この二つは、立っている場所がまるで違います。前者は減点法で、後者は探索です。

これは、一人では起きませんでした

そして、この入れ替わりは、私が一人で考えて起こしたものではありません。

同期は20人ほどいました。全員が働きながら通っていて、全員がどこかに「できないこと」を抱えている。そして、それをコミュニティが育つ中で仲間に開いていく人たちでした。分からないことを分からないと言い、失敗した話を教室に持ち込む。互いのリーダーシップを承認し合いながら、同時に、痛みを伴うフィードバックも交わす。認め合うことと、切り込むことが、同じ場所で同時に起きていました。

そういう場所に二年間いると、不思議なもので、自分の足りなさを数える手も止まります。「自分に何かあるとしたら、それは何だろう」という地点に立てたのは、そこにいたからでした。一人で机に向かって内省していたら、私はたぶん最後まで減点法のままだったと思います。

自分の前提が組み替わるような学びは、一人の内省だけでは完結せず、他者との対話の中で起きる——変容的学習と呼ばれる領域では、そう整理されています。私にとってこの理論は、後から自分の体験に名前をつけてくれたものでした。

そして、変わったのは、知識の量というより、スタンスなのかもしれません。答えが出ない状態に、以前より長く留まれるようになった。目的を、一度決めて終わりにせず、握り直し続けるようになった。どれも学位記には書かれない種類の変化です。

終わりが来ないなら、学び続けるしかない

最終プロジェクトは、最後に一本のプロジェクト報告書にまとめます。

そして論文には「あとがき」という章があります。「この二年間で何を学び、どのように自己を変えることができたのか」「今後、自分はいかにありたいのか」。成果を検証させた上で、それをやった人間のほうがどう変わったのかを、最後に問う。おそらく普通の大学院の論文には書かないことだと思います。学びとは人が変わり続けることだ、という願いが、カリキュラムの構造として置かれている気がします。

修了して半年弱経ったいま、欠乏感は消えているわけではありません。理論を知り尽くした終わりなど来るはずがないし、実務は毎日が試行錯誤です。むしろ二年間ではっきりしたのは、「もう十分だ」と思える地点はそもそも来ないらしい、ということのほうでした。

人材開発・組織開発のプロフェッショナルだと名乗るなら、学び続けるしかない。しかも、足していくだけでは足りないようです。一度身につけたやり方が、次の現場では邪魔をすることがあります。うまくいった経験ほど、手放しにくい。学び続けることと、アンラーニングし続けることは、同じ一つのことの表と裏なのだと思います。

最後に残ったもの

知識を得ました。学位も取れました。ただ、いま自分を動かし続けているのは、それとは別の層にあるものです。あの場や繋がりが、まだ続いているということ。分からないと言える相手がいて、痛いことを言ってくれる相手がいて、その人たちも同じように揺れている。修了しても、その関係は解散しませんでした。

そして、続いているのは同期との関係だけではありませんでした。修了した人がいて、いま通っている人がいて、これから入ろうとしている人がいる。学年や期という単位を超えて、同じような問いを持った人が縦にも横にも連なっています

学び続けなければならない、と言葉にすると、修行のように聞こえます。実際には、そうでもありません。学びが続くかどうかは、意志の強さの問題というより、そういう場(コミュニティ)を持っているかどうかも大きいように思います。条件が揃っているとき、自分の意志さえあれば学びは勝手に続いていくものかもしれません。

9月19日、覗きに行ける日があります

母校である立教大学大学院 リーダーシップ開発コース(LDC)で、入学説明会が開かれます。

説明会というより「フェス」に近い形だと聞いています。修了生と現役生がブースを出していて、教員にも直接聞ける。パンフレットには書かれていない話——平日夜と土曜をどう捻出しているのか、入ってから何に困ったのか——を、実際て通っている、或いは通った人間の顔を見ながら聞ける場です。

📅 2026年9月19日(土)13:30〜17:00
📍 ハイフレックス開催(対面/オンライン)
詳細・お申込みはこちら

コースを率いる中原淳先生も、ご自身のブログで案内を書かれています。
「フェス」のような入学説明会におこしになりませんか

入口で確かめるべきものは、カリキュラムの中身だけではないのかもしれません。9月19日は、その「場のほう」を先に覗ける日です。動機が言葉にならないままでも、覗きに行くことはできます。私の場合は、整うのを待っていたら、たぶん行かなかったと思います。

参加してぜひ楽しんでみてください!

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