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シナスタジア

共感覚と言う不思議

 共感覚は以前から興味を持っています。数字に色を感じたり、音に色を感じたりする不思議な感覚と言うことのようです。不思議なこと…なんでしょうか。
 そもそも人は性格も体質の様々ですから自分以外の人が感じている日常を体感することはできません。そして、当人にしてみれば当たり前のことであれば、ことさら不思議でも特別でもないわけです。

 日本では幼稚園や小学校、そして中学校から高校、大学と科目別に分類されて社会へ出ることになります。社会ではその分類で整理され仕事に取り組むことになります。これは本人の希望で進路を選択しているように見えて果たしてそうなのでしょうか。人の能力ってそんなに簡単に分類出来るようなものなのかなって思うんです。
 もっとも、この分類のお陰で特定の能力が伸ばされ、社会構造が支えられることになりますよね。そうすると…社会構造を支える為に規格化されてる?

 以前、興味深い話を知りました。
 階段のない地域に育つと階段が何だか解らないので上ることができないのだとか。つまり当たり前と思っていることは、実は当たり前ではないのです。人は時に他の人と比較して勝っているとか劣っているとか言う考え方に囚われてしまいます。平均的でありたいと言うことでしょうか。もちろんそれで奮起する場合もあるでしょうから悪いこととも言えません。

 もし、そのために自分の能力をおざなりにしているなら勿体ないことです。

 共感覚と別の話になるかもしれませんが、クリエイターとかアーティストとか創作活動に関わっているとそう言う隠された能力に自分で気づく必要があると思うのです。
 デザインされた色の配列が、どうしてその配列でなければならないのか。
 作曲された曲のメロディーがどうしてそうでなくてはならないのか。
 綴られた言葉は何故その順番でなくてはならないのか。
 理由はあるのに説明は難しく、その感覚が解らないと必然性が理解出来ないことになります。
 そういう能力は誰かに指摘されて気がつくこともあるかもしれません。その場合は、その能力を自分が認めてあげることが必要になるでしょう。そしてその能力とどんな風につきあって行くのか考えることが必要です。

 そんな風に平均的でなく規格化されないことの中に素晴らしい才能が隠れているかもしれないと思うんです。

 そう考えていたら、当たり前のように言葉でイメージをやり取りしていることも不思議に思えて来ました。言葉を見ただけて頭の中には色んなイメージが広がります。言葉だけではないですね。料理の写真だったら匂いや味まで想像します。音楽だったら映像が広がるように思うことだってあるでしょう。それは「当たり前」と思っていても、実はみんなが違った感覚で受け取っているかも知れないのてす
 数字に色を感じたり音に色を感じたりっていう共感覚は、すぐ手の届きそうな所にある気がしてきました。

 ボクが誰かではなく、誰かがボクではないってことが素晴らしいことなんですよね。

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