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【創作】油彩画『カサノヴァの夜』を求めて 第5話

第5話 すれ違いの人生


※前回はこちら



私は思わず声をあげました。
 
「二つある? どういうことですか?」
 
「見たまえ」
 
カストルプ氏は、書斎の机に入っていた書簡の一つを私に見せました。それは、宛先不明で、書きなぐった文字が踊っています。それは、1789年の9月21日と日付がありました。

ロベールには大変な危険を背負わせてしまいました。でも、盗賊の濡れ衣を着るのは、私のみとなるはずです。私にとって、「オリジナル」と呼べるものは一つしかありません。「モナリザ」が、この世に二つとないのと同じ意味です。私も名声のために、幅広く受け入れられるような絵画を沢山作りました。しかし、この作品は、違います。私の人生そのものなのです。理解されようとは思っていません。 


「曖昧でぼかした書き方だが、盗む、とは何だ。彼にとっての人生そのものの作品とは? ロベール宛の手紙や、ハンナ宛の手紙を見れば、それは、彼が心血を注いだ『カサノヴァの夜』だと考えるのが自然ではないかね。

つまり、彼は『カサノヴァの夜』をすり替えて、盗んだのではないか」
 
「そんなことが?」
 
「よく考えてみたまえ。彼のドレスデンへの帰還は、革命後の混乱の最中ではない。7月14日のバスティーユの襲撃から、3か月経っている。とすれば、冷静に何を持ち出すか、吟味する時間があったはずだ。
 
彼自身が手紙で書いているように、クラウスにはもう、パリの更なる混乱が目に見えていた。だからこそ、ドレスデンへの帰還より前に、『カサノヴァの夜』をすり替えて、どこかに送っていたのではないか。
 
親友のロベールはルーブルの管理も行っていたから、そうしたことも決して不可能ではないはずだ。新しい絵画の整理とか何とか言ってね。
 
すり替えられるだけの絵はあるか? ある。そもそも、『カサノヴァの夜』は1773年、彼がアカデミー会員に推挙されたときに依頼された。

しかし、ハンナ=インゼル宛の手紙を見ると、1763年にヴェネツィアの絵を作成し、ハンナの元に送っている。1773年の依頼は結局果たせずに、1783年のサロンに出品されるまでに、延々と描き続けられた。
 
とすれば、その間に大量の下絵があり、「オリジナル」の別ヴァージョンもあっただろう。いや、そもそも、ハンナに送った1763年の絵こそ、すり替える対象だったかもしれない。
 
マリー・アントワネットも見た、クラウス自身が執着する『カサノヴァの夜』を、むざむざ混乱の渦中に置きたくはなかったはずだ。この手紙が表しているのはそういうことではないかね」
 
「フランスで燃えたものは、既にすり替えられていた、下絵だった?」
 
「そう。では、オリジナルはどこにある? ずっと、彼はずっとその存在を否定していた。当然だ、ルーブルから盗み出したとすればね。手元にあるはずもない。
 
とすれば、一番安全な場所、自分だけがそれを見られる場所に、保管しておいたのではないかね。彼自身が秘密にしている場所、最も愛する者がいる場所」
 
「つまり、ハンナ=インゼルの手元に?」
 
「そうだ。この新しい手紙の束をもっと解析したい。ハンナの手紙もあるようだしな。ところで、お嬢さん」
 
カストルプ氏は、マルガレーテに声をかけると、彼女はぴくりと身体を震わせました。
 
「はい」
 
「この納屋は、昔からあるのかね」
 
「はい、私の生まれる前から、代々伝わっていたそうで」
 
「この絵も昔から?」
 
カストルプ氏は、壁に飾ってある、クラウスが描いた、ハンナ=インゼルの肖像画を指しました。
 
「はい、そうです」
 
「この小屋自体の成り立ちを知りたい。ここは、ハンナ=インゼルの居住していた場所のように思える」
 
「とすれば、この小屋のどこかに、もしかすると?」
 
私の上ずった声に、カストルプ氏は、にやりと笑いました。
 
「隠されている可能性はある」
 
マルガレーテは、手をぱちんと合わせて、嬉しそうに微笑みました。
 
「なんだか、楽しそう! 父に聞いてみましょう」
 
そして、はずむように、小屋を出ていきます。私たちは、慌てて彼女を追いかけていきました。


 
ヴィルヘルム=インゼル氏に小屋のことを聞くと、渋々と、元々はハンナ=インゼルが住んでいた小屋だと教えてくれました。この村の出身のハンナは、成功すると、ここに戻って、自分の澄んでいた小屋を改築していたとのことです。
 
ヴィルヘルム=インゼル氏は、椅子に座って、ビールを傾けています。明らかに私たちに苛立ちを覚えていました。マルガレーテが、彼の背後に立って、促しました。
 
「ねえ、お父さん、この人たちに協力しましょうよ。おじさんが探していたものが見つかるかもしれないのよ」
 
「そんなものはないし、必要もない。カストルプさん、色々嗅ぎまわるのは、もう、これきりにしてください」
 
「お父さん、おじさんに言われたことを忘れたの?」
 
ヴィルヘルム=インゼル氏は、その言葉で、ぐっと何か言いたそうなことを、堪えて、こめかみに青筋が立っているのが見えました。私は、マルガレーテの全く物おじしない力強い眼差しに、驚きを覚えました。
 
カストルプ氏も、インゼル氏に全く臆することなく、手紙の束を指しました。
 
「この手紙を調べたいのですが。もし、可能であれば、それ相応の報酬はお支払いします」
 
「いりません。勝手に持っていってください」
 
ヴィルヘルム=インゼル氏は、苦虫を噛み潰したように、そう言うと、席を立ちました。


 
そろそろ日も暮れてきました。ヴィルヘルム=インゼル氏は、奥さんやマルガレーテが私たちを泊めるよう頼んでも、首を縦に振ろうとせず、私たちは村役場に戻ることになりました。
 
「まあいい、あの家には人が泊まれるような部屋もなさそうだったしな」
 
「しかし、役場にもないと思いますが」
 
役場の人たちは、私たちの姿を見ると、庁舎の二階の今は使われていない書類置き場の部屋を使っていいと言ってくれました。
 
親切な村長さんの奥さんが作ってくれたというサンドウィッチだけで、私たちは侘しい夕食を済ませました。木造の、裸電球が一つしかない部屋で、私は前日の快適なホテルの部屋との落差を感じていました。
 
「とんでもない場所ですね」
 
「なあに、楽しいものさ。私は若い頃会社を興した頃は、ボロボロの木造社屋で毎晩寝泊まりして働いていたものだ。懐かしいね」
 
意外にも、カストルプ氏は上機嫌でした。車から持ってきた毛布を、パイプ椅子を並べた上に敷いて簡易的なベッドを作りました。
 
「突然、絵を探しているとかいう訳の分からない男がベンツで訪ねて来たのだ。おまけに、傍らにはアジア系の男が立っとるからな。まあ警戒しておかしくない。我々はここにとっては異邦人だということを素直に認めないと、こんな冒険はやっておれん」
 
「しかし、であれば、このような村の公共物に泊めるのでしょうか」
 
「なあに、ここには盗まれて困るものはないということを示しているのさ。自分たちの家に泊めるよりはましだと」


 
簡易ベッドを作り上げると、カストルプ氏は、ぎしぎしいうデスク用の事務椅子に座って、新発見の手紙の束を取り上げます。そして、ふと遠くを見ました。
 
「しかし、あのマルガレーテという子だけは違ったな。君にも、外の世界にも興味を示していた」
 
「彼女の協力が必要ですね」
 
「ああ。あの小屋には、やはり何かあると思う。父親がああな以上、彼女に力を貸してもらわないと」


 
私たちが新しい手紙を読み込んで分かったことは、想像以上に、ハンナとクラウスの関係が深かったことでした。
 
ハンナ=インゼルとシュミット=クラウスは、同じドレスデンで生まれた幼馴染でした。幼少期から二人で森の中で一緒に遊んでいたことが何度も、二人の手紙のやりとりの中に出てきます。木こりの息子だったクラウスは、ハンナと深く愛し合っていました。
 
しかし、金持ちの商人だった父親は、木こりの家庭で貧しい画家だったクラウスとの結婚を認めませんでした。

失意のクラウスはパリに出て、ハンナは地元の菓子職人と結婚し、彼の一支店として自分の名義の店も開きます。しかし、その間も二人はずっと定期的に会っていたのでした。


 
「運命のようなものだな」
 
カストルプ氏は、ハンナからクラウスに宛てた情熱的な手紙を見ながら言いました。
 
「分かるかね、お互いがもう執着して離れられないのだ。一生に一度ある恋だな」
 
「どうして最後まで結婚しなかったのでしょうか」
 
「ボタンを一つ掛け違えてしまったのだ。クラウスにも愛する家族が出来て、それを捨てる理由がなくなった。

ハンナの方にも自分の家庭と居場所ができた。主人は早く亡くなったようだが、彼女の才覚であれば、子供を育てながら、商売を繁盛させるのは、苦ではなかったようだな。凄腕の実業家だ」
 
「ハンナは本心でこの関係をどう思っていたでしょうね」
 
「分からない。だが、ある面では、苦しく思いつつ、ある面では、それを壊す必要がないくらいに寄りかかっていたのだろう。それを壊してしまうのも、もう怖い。秘密の関係が何十年も続けば、最早人生の真実になっているのだ。
 
君のような若い人は欺瞞だと思うかね」
 
「いえ、そんなことは」
 
カストルプ氏は、眼鏡を少し直して、髭に手を当てて、考えこんでいます。
 
「ボタンの掛け違え、といえば、クルト=インゼル氏は少し早とちりしてしまったように思える。この『オリジナルは一つしかない』という文字と、燃えてしまったという文面をそのまま受け取りすぎたというか」
 
「確かにそうですね」
 
「予測ではあるが、1773年に、貴族から依頼されていたということや、何度も長年描き続けていたという、我々が持っている手紙に書いてある事実を、知らなかったのではないかな。その情報があれば、もう少し、別の可能性を考えられただろう」
 
私が頷くと、カストルプ氏は、ほうっと息をついて、薄汚れた窓ガラスの方を見つめました。
 
「少し、気の毒だな。一度会って話がしたかった」


 
それから、私たちはそれぞれのパイプ椅子のベッドに横になって電気を消しました。私がなかなか眠れないでいると、カストルプ氏が声をかけてきました。
 
「なあ、今思い出した。一つ、不思議に思うことがある」
 
「何でしょうか」
 
「彼が亡くなる前に貴族に宛てた、あの、ルーブルの絵はもう燃えてしまったと書いた手紙だ。あそこで、彼は燃えたという自作を『ミロのヴィーナス』や『サモトラケのニケ』に喩えていた。なぜだ?」
 
「翼をもぎ取られた芸術だと」
 
「そう。だが、二つとも、燃えておらず、残っているではないか」
 
確かにそうです。カストルプ氏は、天井を見つめて譫言のように呟きました。
 
「いったいこれは何を意味しているのだろう」

『ミロのヴィーナス』
ルーブル美術館蔵

 
次の日、私たちが起きて庁舎の一階に降りると、驚いたことに、マルガレーテが来ていて、村長さんと談笑していました。昨日と違い、汚れてもいいような、ボロボロの作業着姿ですが、とても素朴で、生き生きとした印象です。私たちを見ると、挨拶をして、うきうきした顔で立ち上がりました。
 
「さあ、あの小屋に行きましょう」
 
「お父さんはいいのかね」
 
「内緒です。でも、こんな面白いこと、絶対にそのままにしてはいけませんよ」


 
私たちは役場からそのまま、小屋まで行きました。マルガレーテは、鍵の束を懐から出します。
 
「二階だけでなく、地下室の鍵も持ってきました」
 
「素晴らしい、お嬢さんはスパイになれる素質がある」
 
「マタ・ハリですかね。おじさんが良く話をしていました」
 
マルガレーテは、カストルプ氏の言葉に嬉しそうに返して、鍵を使ってドアを開けました。


 
しかし、私たちが調べた結果は厳しいものでした。2階部分は、落ち着いた青色の家具を基調とした部屋でしたが、埃を被った家具にはめぼしいものはありません。
 
また、薄暗い地下室も、黒々とした壁に囲まれて、農具がいくつか散らばっているだけです。おそらくは、ヴィルヘルム=インゼル氏が物置として使っていたのでしょう。
 
私たちは3人でくまなく探してみましたが、新しい絵画どころか、手紙や手掛かりになりそうなものも見つかりませんでした。



私たちは再び1階の狭い部屋に戻りました。
 
「もしあったとしても、もうおじさんが全部発見している気がします」
 
マルガレーテがそう言うと、カストルプ氏は頷きました。そして、あごひげに手をあてて、思案しながら呟きました。
 
「何かがまだ欠けている。きっともう一つ、何かの鍵がある」


【次回】

※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。


<過去話の一覧>

【第1話】はじまり


【第2話】おとぎの国の熊

【第3話】しるしは至るところに

【第4話】森の中の少女




今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。



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