【創作】油彩画『カサノヴァの夜』を求めて 第6話
第6話 大地、そして栄光と死
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ハンナ=インゼルの居住していた家にして、今は物置小屋。私たちはくまなく探したものの、絵が隠されている様子も、秘密の扉もありません。既に昼近くになっており、私たちは、一旦小屋を離れて昼食を摂ることにしました。
私とカストルプ氏が役場に戻る途中、私は自分の手に腕時計がないのに気付きました。棚のものやテーブルを動かして探す際、傷つかないよう、外して窓際に置いておいたのです。父の形見でもあったので、万が一のことも考えて、私はカストルプ氏にことわって、一人で戻りました。
腕時計はちゃんとありました。ほっとして、元の役場への道を戻ろうとしましたが、いったい、私は非常に方向音痴で、道を覚えるというのが苦手なのです。案の定、いくつかの分かれ道を間違えたらしく、明らかに来た時とは違う森の道に迷い込んでしまいました。

黒い森の中は、静寂が支配しています。鈍い光が木の葉の隙間から洩れて、緑色の草を影から仄かに浮かび上がらせます。この世ならぬ異界に迷い込んだような気がして、私は焦りました。
ふと、森の奥の方から、かーんかーんと何か甲高い音が響いてきます。私は前日読んだ、ハンナ宛のクラウスの手紙の文面を思い出していました。
僕たちの小屋はあの時のままだろうか
僕が木を切る間、
君はその音に耳を傾けていた
森は僕たちを包み、
僕は、このような日々が永遠に続けばいいと
願っていた
私はその音に引っ張られるように、森の奥に進みました。
音が広がり、視界が開けました。すると、そこには、ヴィルヘルム=インゼル氏が立っていました。あの熊のままだ。私は、クラウスの手紙に書かれていた、熊のスケッチを思い出しました。インゼル氏は手を止めると私の方を振り返り、斧を木の切り株に刺して置きました。
「あんたかね。あの小屋を探しておったんだろう」
「すみません」
「あそこに金になるものはないよ」
「・・・新しく畑を作るのですか」
「それもあるが、こうやって定期的に木を切って手入れしないと、この森はうまく生きないからな」
インゼル氏は足元の切り株に腰掛けると、額の汗を拭いて、辺りを見回しました。家で会った時と違い、丁寧な言葉遣いでない分、私に対する警戒心のようなものがないのは、とても意外に感じました。
「あんたはなんで、日本からこんなところまで来たんだね」
何とも困る質問です。私は、思いつくままに口を開きました。
「理由は分かりません。運命に導かれて、かもしれません」
「運命が導く、か。兄もそんなことを言っていたな。運命が自分を導くのだから、自分を縛る必要はないと」
インゼル氏の私を見る目が優しくなりました。私は、彼は本当は、実業家の兄を嫌っていなかったのだろうと直感しました。インゼル氏は笑って続けました。
「若い頃から、親の金で世界を旅行して回って、派手に実業家連中と遊んでいた。私は、この先祖代々の森を手入れすることに追われた。
その挙句、今となっては、私の方が生き延びて、森の中に籠ったまま人生を終えようとしておる。皮肉なものだ。臆病者は長生きするのだな」
「お兄さまにも、そういわれていたのですか」
「ああ、昨日のマルガレーテの言葉かね。そうだね。もっと世界に心を開くべきと言われたよ。世界を旅しなくていいから、本や、音楽や絵画を見て、自分の世界を開くのだと。でも、この年になるまで、こうやって生きていたからもう、その方法が分からない。婆さんも苦労を掛けてしまったし、あの子がここを出て行きたがっているのも知っておる。
だがな、全て私が死んでからにしておくれ、と言っている。私は戦争が終わって50年、ここを守ってきた。大したことはしていないが、ほんの少しでも私の意志を尊重しておくれとな」
「それは尊重されるべき意志だと思いますよ」
不意にバリトンの声が響いて後ろを振り向くと、カストルプ氏が立っていました。彼の姿を見ると、インゼル氏は、苦虫を嚙み潰したような顔になりました。カストルプ氏は、速足でインゼル氏の横に行きました。
「手伝いましょうかな」
「服が汚れますな。それに、金持ちが腰を悪くされたら困りますよ」
「私は農民の出でね。小さい頃、ロートリンゲンの小さな麦畑を、父と一緒に耕していた。ミレイの農夫のようにね。今の姿は仮の姿で、やがて生まれた時の農民に戻って、土に還る予定だ」
カストルプ氏は、そう言って上着を脱ぎ捨てると、さっと、斧を取り上げました。鮮やかに振り下ろして、樹に切り込みを入れていきます。そのどっしりとした構えに、私は確かに彼の出自を見た気がしました。
最初疑いの目で見ていたインゼル氏も、少し感心したように見て、鎌で周囲の草を刈ります。私も慌ててインゼル氏の横に行って、草をむしる手伝いをしました。

ボストン美術館蔵
小一時間ほど、森を整えていると、そこは、ささやかな広場のようになっていきました。私たちは、汗と土塗れになって、一休みしました。ひんやりとした空気が心地よく全身を包みます。インゼル氏と、カストルプ氏も、どこか打ち解けたような眼差しを交わしています。
すると、呼吸を整えていたインゼル氏が呟きました。
「兄は本当は画家になりたかったんだと思う」
「才能がおありでしたのですな」
カストルプ氏が問いかけると、インゼル氏は頷いて、今までの慇懃な調子のない、ざっくばらんな口調で話しました。
「そう思う。あんたは血を信じますかね。おそらく、うちには代々、菓子職人や商人だけでなく、芸術家の血が混じっていたように思う。あの、画家の」
「クラウスとハンナ=インゼルの間に子供がいたと」
「今となっては分からないがね。でも、時折、うちの家系から、変な芸術肌の人間が生まれる。兄は何でもできて、私は何もできなかった。兄の絵はとてもうまかった。でも、父は兄の商売の才能の方を伸ばすようにした。兄は、それについて何も不平を言わなかった。
だから、晩年に絵の売買にのめり込んで、経営がなおざりになっていくのを見て、私は止めることはできなかった。彼が今まで、散々自分を抑えていたのを感じていたから。そんな兄も、後ろめたさを感じていたんだと思う。だから、『幻の絵画』であてようと、焦っていたように思える」
「もしかしたら、お兄様がクラウスの絵を求めていたのは、お金だけでなく、ご自身のルーツを求めたかったからかもしれませんよ。自分の中にクラウスの血が流れていることを感じていたから」
「それは思いもしなかった。ああ、もしかしたら、そうなのかもしれない。私にとって、あの人は、とうとう謎の人間のまま終わってしまったような気がする。兄は詩も好きだった。私に一度自作を教えてくれた」
「どんな詩ですかな」
「なんだったか。でもとても美しい詩で、美しい旋律をつけて歌っていた。少しだけ覚えている。『死か栄光か』という言葉が印象的だった」
「『死か栄光か』ですか、美しい言葉ですな」
すると、カストルプ氏は、急に私に話しかけてきました。
「なあ、これは革命に関係がないかね。そんな名言がなかったか」
「『自由か死か』ですか。アメリカ独立戦争のパトリック=ヘンリーです」
「そう、それだ。アメリカ独立戦争はフランス革命に関係している。クラウスだって関係があるしれない。もしかすると、クルト=インゼル氏は何かを握っていたのかも」
「いや、それはどうでしょうか・・・その詩は残っていますか」
「私には分からない。きっとマルガレーテが知っているのでは」
それで、私たちは、昼食を摂りに、インゼル氏の家に戻ることにしました。

途中で、牛乳の瓶を持ったマルガレーテと出会いました。彼女は私たちを見て驚いた顔をしましたが、私たちとインゼル氏が打ち解けた様子で四方山話をしているのを見ると、嬉しそうにほおを緩めました。
インゼル氏とカストルプ氏が先に家の中に入ると、彼女は私の袖を引っ張って尋ねました。
「どんな魔法を使ったんですか。あんなに上機嫌な父は、初めて見た気がします」
「カストルプさんは、誰とでも打ち解けられるんですよ」
私は森での出来事を手短に説明しました。
「父はそんなことを思っていたんですね。私も父を誤解していたのかもしれません」
マルガレーテは、そう言うと、少しうなだれました。そして、勢い良く身を乗り出して、私に話しかけました。
「あなた方は本当に楽しそうですね。色々な場所を旅するとそうなるのかしら」
「私はそれ程旅していませんが、でもそうですね、カストルプ氏は、本当に旺盛に色々な場所を飛び回っているようです。そして、何かを拒絶するということがない。それが、あの人の魅力になっているのでしょう」
「ええ、知り合って一日しか経っていないけど、私もそう感じます」
マルガレーテは、そう言って、ドアを開けると、小さく呟きました。
「いいなあ」
私たちは、食卓に着いて、ソーセージと、ジャガイモのソテーを頂くことにしました。穏やかな昼の食卓で、カストルプ氏は、マルガレーテに尋ねます。
「おじさんの詩ですか?」
「そう、『死か栄光か』という詩です。何でもメロディを着けて歌にしていたという」
「・・・ああ、思い出しました。確かこんな歌です」
マルガレーテは、フォークを置いて、すっと息を吸いました。
菫色の空と夜の海風
僕らは森に逃れる
炎が広がり、全てを燃やし尽くしても
彼らは騒ぐのを辞めないだろう
僕らは別の道を歩き続ける
やがて黄金の小屋を見つけるだろう
死か栄光か
それは全く別の人生
死か栄光か
僕らはどちらかを掴む
死か栄光か
全てはそれだけ
澄んだソプラノの声でゆったりとした美しいメロディが歌われます。私たちは彼女の歌に耳を傾けました。歌い終わるとマルガレーテは、照れくさそうに笑いました。
「ずっと忘れていました。私が小さいときに、よく歌ってくれたんですよ。誰の歌かは教えてくれませんでしたけど、これは自由と革命の歌って言っていましたね」
「なるほど。まさにこれは、フランス革命から逃れた人の真情を歌った歌でしょう。もしかすると、クラウスの書いた何かをおじさんは・・・」
「ちょっと待ってください。これは、フランス革命ではないと思います」
私は横から口を挟みました。カストルプ氏は困惑した顔を向けます。
「どういうことだね」
「これは、クラッシュというイギリスのパンクバンドの歌です。少なくともサビとメロディは」
私も、ようやくこの歌が何なのか思い出しました。私は音楽については雑駁に色々なものを聞いていたので、どこか聞き覚えがあったのです。うろ覚えではありますが、私は英語で原曲を歌いました。
カストルプ氏は、目を丸くしていましたが、私が覚えているところまで歌って、口を噤むと、神妙な顔で話しかけました。
「君が『パンク・キッズ』だと知っていたら、こんなところに連れてこなかったよ」
「いや、そんなことを言われても困るのですが」
その言葉で、インゼル氏がぷっと噴き出して、愉快そうに笑いました。インゼル氏の奥さんは目を丸くして、旦那さんを見つめています。カストルプ氏も、特にプライドを傷つけられた風でもなく、自分でも楽しそうに笑いだしました。それを見て、マルガレーテも、彼女の母親も笑い、皆が笑顔になりました。
笑いが収まると、私は急いで付け加えました。
「しかし、歌詞は確かにサビ以外は、別物です。原曲は、もっと殺伐としたストリートの歌なので」
「まあ、そうすると、クルト=インゼル氏がパンクカルチャーに興味があったことと、詩の才能があったということだけは分かる。何を頭の中で繋ぎ合わせて、彼がそのような歌を作ったかは、永遠に分からないが、クラウスと結びつけるのは早計だな。愚かだった。私の妄想だ」
カストルプ氏がそう言うと、ヴィルヘルム=インゼル氏が、カイゼルひげに指をあてながら、夢想するように呟きました。
「黄金の小屋というのは、少なくとも、クルト自身の言葉だな。私たちが幼い頃、あの小屋で遊んだ時の合言葉みたいなものだ。思い出したよ」
「あの小屋は、黄金の小屋と呼ばれていたのですか」
「少し説明が難しい。後であそこに行こう」
私たちは昼食を済ませると、ハンナ=インゼルの小屋に行きました。インゼル氏は1階の、クルト=インゼル氏が使っていた部屋に入り、ハンナの肖像画の横に飾ってある、金色の額縁で飾られた風景画を指しました。
それは、暗い夜のヴェネツィアの風景のようです。もっとも、かなり劣化しており、色褪せた藍色の夜の中、当時の服を着た侍女のような女性が、お盆を持って歩いているのが微かに見えるだけです。ふと、そのポーズが、以前ドレスデン美術館で見た新発見のスケッチと同じことに、気付きました。
「この絵だ。ちょっと待ってくれ」
インゼル氏はそう言うと、絵を壁から外し、額縁を外しました。
そして、私たちの方に絵を見せて指さしました。今まで額縁があった箇所が、濃い藍色になっています。そこに、赤い色で文字が書かれていました。
黄金の小屋
「私とクルトは、小さい頃よくここで遊んでいた。この絵は、その時、額縁に入っていなくて、この文字を見て、私たちはよく笑っていた。全然黄金じゃないじゃないか、ただの女性の絵じゃないか、ってね。クルトは言っていた、これはシュル何とかといって、芸術表現だと。懐かしい。私たちにもそんな時期があったんだ」
インゼル氏はしみじみとそう語りました。
私たちが先程小屋を探した時、絵の裏や架かっていた場所を調べても、この額縁を外すことまではしませんでした。私はその赤々とした文字を見つめました。
すると、急に私の肩が力強く掴まれました。私が驚いて振り向くと、カストルプ氏がらんらんと目を輝かせています。
「みつけた、とうとう」
「ここが『黄金の小屋』だということが、重要なのですか」
「違う」
カストルプ氏が絵を指さします。そこには「黄金の小屋」の右に、やはり赤い文字で
3NZ
という文字が書かれていました。
私が困惑していると、カストルプ氏は、弾んだ声で告げます。
「確かにあるのだ、きっとそうに違いない」
そして、ゆっくりと、部屋を見回しました。
【次回(最終回)】
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
<過去話の一覧>
【第1話】はじまり
【第2話】おとぎの国の熊
【第3話】しるしは至るところに
【第4話】森の中の少女
第5話 すれ違いの人生
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
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