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『迷探偵 沖田』第4話:鏡像の復讐者

吹き荒れる夜風が、砕け散った窓ガラスの破片を応接室の床に撒き散らした。  絨毯の上に散らばる無数の透明な結晶は、雷光を反射して冷たく、鋭く瞬いている。破れたカーテンが、まるで巨大な蝙蝠(こうもり)の翼のように闇の中で羽ばたき、湿った外気を容赦なく室内に招き入れた。

「……お、お母様……なの……?」

梨花の震える声が、雨音に掻き消されそうになりながらも虚空を彷徨う。  彼女の視線の先、暗闇の中に佇む女は、額縁の中から抜け出してきたかのように、死んだはずの葛城美夜子の面影をその身に宿していた。  白磁のような肌、悲劇的な色を湛えた双眸、そして夜の闇を溶かし込んだような漆黒の長髪。

しかし、沖田は動じない。  彼は懐から取り出したばかりのタバコを、湿った風の中で敢えて点火しようとはせず、ただ口に咥えたまま、三つの鍵をポケットの奥で小さく鳴らした。  チリ、チリ……。  その音は、嵐の咆哮の中でも不思議と明晰に、そして冷徹に響く。

「志乃、ライトを彼女の足元へ」

「了解」

志乃が懐中電灯の光を女に向けた。  光の輪に浮かび上がったのは、泥に汚れた革靴と、雨を吸って重く垂れ下がった安物の漆黒のドレスだった。その不釣り合いな装いが、彼女がこの高貴な屋敷の住人ではないことを無言で告げている。

「梨花さん。鏡の中の自分を見つめる時、人は自分の見たいものだけを見る。……だが、鏡像には必ず『左右の反転』という嘘が混じるものだ」

沖田は一歩、女の方へ歩み寄った。  女の右手には、赤黒く変色した琥珀が握られていた。それは黄金色の『琥珀の瞳』とは対極にある、凝固した血塊のような不気味な輝きを放っている。

「君の正体を暴く前に、一つだけ『表面の真実』を言おう。正造さん、あなたが二十年前に売り払った本物の琥珀……それを買い取ったのは、誰でしたか?」

正造は、床に散らばるガラスの破片を見つめたまま、枯れ果てた声で答えた。 「……当時、取引を仲介した画商だ。その後の行方は……知らない」

「いいや、あなたは知っていたはずだ。その琥珀は、ある地方の旧家に渡った。そしてその家には、あなたが葛城家を継ぐために捨て去った、もう一つの血脈が流れていた」

沖田の言葉に、闇の中の女が、初めて喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。それは凍てつく冬の川面が割れるような、鋭く、痛々しい響きだった。

「さすがね、探偵さん。……この屋敷の人間が、何十年かけても隠し通せなかった『汚れ』を、あなたは一夜で見抜いてしまった」

女がゆっくりと顔を上げた。ライトの光の中で、彼女の瞳が赤黒い琥珀と同じ色に染まって見える。

「私の名前は、紗代(さよ)。……この屋敷で『聖女』として祀られている葛城美夜子が、かつて田舎の村で産み落とし、名誉のために捨て去った……彼女の鏡像よ」

梨花の息が止まる音がした。  静江は、ただ顔を覆い、何かに祈るように肩を震わせている。

「紗代さん。君がその『毒の琥珀』を持って現れたのは、母を捨て、君を捨て、偽りの繁栄を謳歌してきたこの屋敷を、永遠の沈黙へと誘うためだね?」

沖田は、ポケットから銀色の鍵を取り出した。 「だが、おかしな話だ。地下にいた偽造師、加納さんはこう言っていた。自分は美しさに取り憑かれただけだと。……でもね、彼は嘘をついていた。これが二つ目の真実。……加納さんは、美夜子さんの遠い親戚であり、君の協力者だ」

「……どうして、それを」  紗代の瞳に、初めて動揺の色が走る。

「加納さんの工房の壁に掛かっていた、切り裂かれた肖像画。あの裏に隠されていたのは、美夜子さんが死の間際に綴った、未投函の手紙だ。……そこには、正造さんへの愛ではなく、捨ててきた娘――君への、血を吐くような謝罪が記されていた。加納さんはその手紙を読み、美夜子さんの無念を晴らすために、二十年もの間、この地下で『復讐の種』を育てていたんだ」

沖田は、紗代の手にある赤黒い琥珀を指差した。 「その琥珀の中にあるのは、ただの樹脂じゃない。……加納さんが化学的に合成した、空気と触れることで急激に酸化し、高熱を発する特殊な発火剤だ。それを砕けば、この乾燥した古い洋館は一瞬で灰に帰る。……君たちの目的は、葛城家の歴史そのものを焼失させることだった」

紗代の指先に力がこもる。琥珀の表面が、みしり、と不穏な音を立てた。

「そうよ……! この家は、偽物で満ちている! 宝石も、家柄も、父親の愛情も! 全てが偽造師の造り物! だったら、本物の炎で焼き尽くすべきだわ!」

「待ちなさい!」  梨花が、叫びながら紗代と沖田の間に割って入った。 「そんな……そんな悲しいことのために、お母様は手紙を書いたんじゃないはずです! 私は……私は何も知らなかったけれど、でも、この琥珀の中に封じられているのがお母様の心だというのなら……!」

「どきなさい、梨花。……あなたは、何も失わずに育ってきた。私から全てを奪った女の鏡の中で、幸せそうに笑っていたのよ!」

紗代が琥珀を床に叩きつけようとした、その刹那。

ガチリ。  重厚な、しかしどこか優しさを孕んだ金属音が、張り詰めた空気を弛緩させた。  沖田が、三つ目の鍵――鉄の鍵を、自分の手のひらの中で力強く握りしめていた。

「真実は大体3つほどある。……だが、最後に残る事実は、往々にして僕たちの想像よりもずっと退屈で、そして温かいものだ」

沖田は、静かに紗代へと近づいた。彼女の持つ復讐の琥珀を、まるで壊れ物を扱うように、その長い指先で包み込む。

「三つ目の真実。……紗代さん。加納さんがこの琥珀を君に託した時、彼は何と言った? 『これで全てを焼き尽くせ』と言ったか? ……いいや、違うはずだ」

紗代の肩が、激しく上下する。

「彼は……加納さんは……『これを母の形見として持ち続けろ』と……」

「そうだ。この琥珀の中に封じられているのは、発火剤などではない。……見てごらん、志乃。ライトをもう一度、今度は透過させるように」

志乃が、慎重に光の角度を変えた。  赤黒く見えていた琥珀の深淵に、柔らかな、夕陽のような輝きが宿った。  そこには、一輪の小さな、押し花のような「忘れな草」が、二十年前の鮮やかさを保ったまま封じ込められていた。

「加納さんは偽造師だ。だが、彼は最後に『本物』を造りたかった。美夜子さんの想いを、永遠に朽ちない形にして君に届けたかった。……これは爆弾じゃない。……世界でたった一つの、君と母を繋ぐ『本物の瞳』なんだよ」

紗代の手から、力が抜けた。  赤黒いと思っていた琥珀は、沖田の手のひらの中で、ただただ美しく、慈しみに満ちた光を放っていた。

「……あ……あああ……」

紗代は、その場に膝をつき、子供のように声を上げて泣き始めた。  復讐のために、憎しみを糧に生きてきた彼女の心が、琥珀の中に封じられた一輪の花によって、音を立てて溶けていく。

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