『迷探偵 沖田』第7話:割れた鏡の記憶
爆縮。 その言葉が相応しい光景だった。 天井を飾っていた巨大な硝子の塊は、重力に従ったのではない。内側から何らかの力に押し弾かれるようにして、数千、数万の鋭利な結晶へと姿を変え、部屋全体を光の牢獄へと作り変えたのだ。
ガシャン、という。 鼓膜を直接蹂躙するような不快な金属音が止んだ後、世界を支配したのは、あまりにも濃密な静寂だった。 空中に舞った微細な硝子の粉が、窓から差し込む街灯を拾って、死者の魂のように白く明滅している。
「……瑞穂さん! 瑞穂さん、しっかりして!」
志乃の切迫した声が、沈黙を切り裂いた。 彼女は咄嗟に瑞穂を抱き抱え、作業机の強固な影へと滑り込んでいた。志乃の背中には、降り注いだ硝子の破片が幾つも突き刺さり、厚手のタクティカルジャケットを汚していたが、彼女は眉一つ動かさない。
一方、沖田は部屋の中央に立ったままだった。 彼の足元、数ミリの差で巨大な真鍮のフレームが床を貫いている。しかし、沖田はその致命的な凶器には目もくれず、ただ、無数に散らばった硝子の破片を、憮然(ぶぜん)とした表情で見つめていた。
「沖田さん! 何を突っ立っているんですか! 次が来ますよ!」
「……志乃。この破片、見てごらん」
沖田の声は、嵐の後とは思えないほど低く、凪いでいた。 彼は指先で、床に転がった一辺五センチほどの鋭利な破片を拾い上げた。その断面には、瑞穂の頬をかすめたのだろうか、一筋の紅い血が、まるで美しい装飾のようにこびり付いている。
「飛散の法則性が不自然だ。重力加速度と風速を計算に入れても、この広がり方は説明がつかない。……これは爆発じゃない。……『演出』だよ」
「演出……?」
志乃が瑞穂を支えながら、警戒を解かずに問い返す。 瑞穂は志乃の腕の中で、焦点の合わない瞳を泳がせていた。その薄い唇からは、断続的に、漏れ出すガスのような呟きが溢れている。
「……あの子が、逃げた。……もう一人の私が、鏡の裏側へ。……あ……三つ目が、笑ってる……」
沖田は、瑞穂の前に膝をついた。 彼のポケットの中で、三つの鍵が微かに触れ合い、チリ……と涼やかな、しかし拒絶のような音を立てる。
「瑞穂さん。君の中にいるのは、君だけじゃない。……そうだね?」
瑞穂の身体が、電流を通されたように跳ねた。彼女の白い指先が、志乃の腕を、皮膚が白濁するほどの力で握りしめる。
「……先生は言ったわ。……硝子は、溶けるたびに新しくなるって。……私は、透明なままでいられないの。……だって、あの人が、私の記憶を『三つに分けた』から……」
沖田の瞳の奥に、凍てつくような冷徹な火が灯った。 彼は真鍮の鍵ではなく、月の光を宿した銀の鍵を指先で弄ぶ。
「真実、その二。……瑞穂さん、君がここで造らされていた『硝子の心臓』は、単なる機密物資の運搬容器じゃない。……それは、人間の記憶、あるいは人格の断片を、流動体樹脂という形で定着させるための『外部メモリ』だ。……違いますか?」
瑞穂は答えなかった。ただ、カタカタと奥歯を鳴らし、自分の膝を抱きしめる。 志乃が、信じられないものを見る目で沖田を仰ぎ見た。
「記憶を定着させる……? そんなことが、本当に可能なんですか?」
「加納という男が琥珀の中に花を封じたように、組織は硝子の深層に『意識の影』を封じ込めようとした。……そして瑞穂さん。君はその実験台として、自分自身を三つの役割に分割された。……硝子を造る『職人』。……情報を蓄積する『器』。……そして、それら全てを冷徹に見つめる『観測者』。……今、僕と話しているのは、どの君かな?」
その瞬間、瑞穂の表情が、舞台の幕を切り替えるように一変した。 怯えた少女の震えが消え、そこには、数十年もの歳月を生き抜いた賢者のような、老獪(ろうかい)で空虚な微笑が浮かび上がった。
「……名探偵。……あまり深追いしないことだ。……硝子の迷宮は、踏み込むほどに己の姿を歪める」
その声は、先ほどまでの瑞穂のものとは明らかにトーンが異なっていた。低く、抑制され、そしてどこか機械的な響き。
「……あなたは、あの男を知っているはずだ。……三つの顔を持ち、真実を常に『三分割』して提供する、あの『調律師』を」
沖田の指先、銀の鍵を回すリズムが、一瞬だけ停止した。 彼の脳裏に、数年前の、雨に濡れた公園のベンチがフラッシュバックする。 そこには、三つの異なる遺書を残して消えた一人の男と、それを見送るしかなかった、若すぎた自分。
「……彼が、ここにいるのか?」
「いいえ。……彼はどこにでもいて、どこにもいない。……見て。……鏡が、あなたを見ているわ」
人格を変えた瑞穂が、部屋の隅にある、唯一割れずに残った巨大な姿見を指差した。 志乃が即座に懐中電灯の光をそちらへ向ける。
光の円が鏡面を捉えた瞬間、二人は息を呑んだ。 そこには、志乃と瑞穂、そして沖田の姿が映っている――はずだった。 しかし、鏡の中に映る沖田の顔は、現実の彼とは似ても似つかない、冷酷なまでの「無」を湛えた、三つの異なる表情を重ね合わせたような怪物へと変貌していた。
「沖田さん! 鏡を見ないで!」
志乃が叫び、懐中電灯の光を逸らす。 しかし、鏡の中の影は、光が消えてもそこに残り続けていた。 影が、ゆっくりと口を開く。音声はない。だが、唇の動きが明確な言葉を紡いでいた。
『――再会を楽しみにしているよ。……迷子(まいご)の、沖田君』
バリン!
姿見が自壊した。 まるで、鏡そのものがその像を映し続けることに耐えきれなくなったかのように、一千一万の破片となって弾け飛んだ。
「志乃! 出るぞ!」
沖田は、瑞穂人格の少女を無理やり抱き上げ、脱出口へと走り出した。 背後では、廃ホテルの骨組みが、巨大な生物の断末魔のような音を立てて軋(きし)み始めている。 組織は、証拠を隠滅するために、このビルそのものを「永遠の沈黙」へと葬ろうとしていた。
崩落するコンクリートの壁を避け、埃が渦巻く廊下を駆け抜ける。 志乃が先行し、迫り来る障害物を最小限の動きで排除していく。
「沖田さん、あと十秒で出口です!」
一階のロビーが見えたその時、沖田の腕の中で、瑞穂が再び人格を入れ替えた。 今度は、消え入りそうな、無垢な子供のような声。
「……ねえ、探偵さん。……教えて。……あの琥珀の中にあった『忘れな草』は、本当は何色だったの?」
沖田の足が、一瞬だけ止まりかけた。 第4話で彼が紗代に見せた、あの宝石の記憶。 瑞穂はそこにいなかったはずだ。それどころか、加納の工房の全容さえ、彼女は知らないはずなのに。
「……どうして、それを知っている?」
「……だって、私たちが造る『硝子の心臓』は……みんな、あのお花の匂いがするんだもの。……血と、涙が、混ざったような……」
瑞穂の目から、一筋の、濁りのない涙がこぼれ落ちた。 その涙が、彼女の手首にある古い傷跡を濡らす。
ドォォォン!
背後で、最上階が崩落した。 爆風が三人の背中を押し、新宿の冷たい夜気の中へと放り出す。 アスファルトに転がり、顔を上げた沖田の視界に入ったのは、崩れゆくホテルの骸と、その瓦礫の上に立つ、一人の男のシルエットだった。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
