『迷探偵 沖田』第6話:硝子の聖域
西新宿の谷間には、世界に見捨てられたような場所が幾つも転がっている。 空を衝く高層ビル群の足元、再開発の波が不自然に避けて通った一画。そこには、かつて「ホテル・アトラス」と呼ばれた築五十年の骸(むくろ)が、曇天の空を見上げて沈黙を守っていた。
剥き出しの鉄骨は赤錆(あかさび)に侵食され、コンクリートの壁には都市の毒を吸い込んだような、薄汚れた蔦が絡みついている。 肺の奥まで冷やすような湿った風が、割れた窓から吹き込み、誰もいない廊下に「ヒュウ、ヒュウ」という、行き場を失った幽霊の吐息のような音を響かせていた。
「沖田さん、足元に気をつけて。この床、いつ抜けてもおかしくありませんよ」
志乃が、懐中電灯の光で足元を照らしながら注意を促した。 彼女の軍靴が、リノリウムの床に散らばった砂礫をザリ、と踏む。 沖田は答えなかった。彼は使い古されたロングコートの襟を立て、ポケットの中で三つの鍵を小さく転がしている。
チリ、チリン……。
その不規則な金属音は、廃墟の静寂を侵食し、世界の「歪み」を探り当てようとしているかのようだった。 沖田の視線は、久世から渡された資料にある、最上階のスイートルームへと向けられている。
「志乃。……匂いが変わった。気づいたか?」
「匂い……? 埃と、カビの匂いしかしませんが」
「いや、違う。……焦げ付いたような、酸素とプロパンが混ざり合った……青い匂いだ。それと、微かな薬品の甘みが混じっている」
階段を上るたび、空気の温度がわずかに上昇していくのがわかった。 最上階、重厚なオーク材のドアが不自然に半開きになっている部屋。その隙間から、廃墟には似つかわしくない、鮮烈な「光」が溢れ出していた。
沖田が、音もなくそのドアを押し開く。 二人の視界に飛び込んできたのは、眩(まばゆ)いばかりのプリズムの世界だった。
そこは、硝子の聖域だった。 壁一面、そして天井からも、無数の硝子細工が細いワイヤーで吊り下げられている。 窓から差し込む僅かな街灯の光を拾い、それらは不規則に屈折し、室内に万華鏡のような光の斑(ふ)を踊らせていた。 中央のデスクでは、一人の少女が防護メガネをかけ、青白い炎を放つバーナーと対峙していた。
彼女の指先は、溶けかけた硝子の棒を、まるで生き物を手懐けるように、滑らかに、そして恐ろしいほど正確に操っている。
「……誰?」
少女が顔を上げた。 メガネを外すと、そこには透き通るような白い肌と、硝子玉のように感情の欠落した双眸(そうぼう)があった。 年齢は志乃よりも若く見える。 彼女の周囲には、いくつもの「硝子の心臓」が並べられていた。 本物の心臓と見紛(みまが)うほど精緻に造られたそれらは、内部に「赤黒い液体」を湛えている。
「探偵だ。……美しい聖域ですね、瑞穂さん」
沖田は、硝子細工が触れ合って奏でる、涼やかな、しかし氷のように冷たい音を聴きながら、一歩中へ踏み込んだ。
「名前……。どうして。私は、誰にも教えていないのに」
「君の作業机の隅にある、奨学金の振込通知書。そこに『浅倉瑞穂』という名があった。……それと、君の指先。硝子を扱う人間特有の小さな火傷痕はあるが、それ以上に……。その指先の震え、これは硝子工のそれじゃない」
沖田はポケットから真鍮の鍵を取り出し、指先で弾いた。 チリ……と軽やかな音が響く。
「真実、その一。……瑞穂さん、君は自分の芸術のためにここにいるのではない。……君は、この『硝子の心臓』という名の容器を造らされている、囚人だ」
瑞穂の肩が、見に見えて強張った。彼女の手から、まだ熱い硝子棒が零れ落ち、床でパリンと乾いた音を立てて砕ける。
「違う……。私は、私の作品を愛してくれる人のために……」
「その『愛してくれる人』は、三つの顔を持っているんじゃないかな?」
沖田の言葉は、鋭利な硝子の破片のように瑞穂の心に突き刺さった。 志乃が、デスクの上に並んだ「心臓」の一つを、手袋をした手で慎重に持ち上げた。
「沖田さん。これ……中の液体、ただの着色水じゃありません。……前回の琥珀の事件で加納が使っていた、あの流動体樹脂と組成が酷似しています。でも、より純度が高い」
「そうだ。……瑞穂さん。君は加納の教え子、あるいはその後継者として選ばれた。組織は、加納という『古い器』を捨て、君という『新しい聖域』を見つけたんだ。……君が造っているのは、芸術品じゃない。……この液体を安定して運び出すための、世界で最も贅沢で、そして残酷な『使い捨ての容器』だ」
瑞穂は、バーナーの炎を見つめたまま、力なく首を振った。 「……そんなこと。……分かっています。でも、私にはここしかないの。あの人が、私の居場所を造ってくれた。硝子の中でだけ、私は息ができるって……」
「居場所、か。……だが、硝子の檻は、外から見るよりもずっと脆い」
沖田は、瑞穂の瞳を覗き込んだ。 「真実は大体3つほど用意しておくのが僕の主義だが、今はまだ、その一枚目の皮を剥いだに過ぎない。……瑞穂さん、君はこの『心臓』の中に、液体以外の『何か』を混ぜているね?」
瑞穂が、大きく目を見開いた。 その瞬間、背後の暗い廊下から、コツ……コツ……という、硬い靴音が聞こえてきた。 志乃が即座に反応し、懐中電灯をドアの方へ向ける。 しかし、そこには誰もいなかった。 ただ、床に一通の、真っ黒な封筒が置かれていた。
沖田は、鍵を回す音をピタリと止めた。 彼の表情から、いつもの倦怠感が消え、冷徹な狩人のそれへと変わる。
「志乃。……瑞穂さんを連れて、ここを出るぞ」
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