『迷探偵 沖田』第5話:雨上がりのカノン
夜を徹して世界を叩き続けた雨は、明け方には嘘のように引き、代わりに眩(まばゆ)いばかりの陽光が新宿の谷間に降り注いでいた。 洗われたアスファルトが反射する光は、視神経を刺すほどに鋭く、そして残酷なほどに清らかだ。 築四十年の雑居ビル、その屋上に位置する「沖田探偵事務所」のプレハブ小屋にも、窓硝子(まどがらす)を透過した光の帯がいくつも伸びていた。
チリン……。
いつもの、乾いた金属音。 沖田はデスクに足を投げ出し、指先で三つの鍵を滑らせていた。 真鍮、銀、鉄。 それぞれの金属が光を跳ね返し、壁や天井に不規則な光の斑(ふ)を踊らせる。そのリズムは、昨夜の不協和音とは異なり、どこか一定の規則性――まるでカノンのように、重なり合いながら前へと進む響きを持っていた。
「沖田さん。いつまでそうしているつもりですか。床に散らばった吸い殻は、私が昨日掃除したばかりなんですよ」
志乃が、手際よく資料をバインダーに綴じながら言った。彼女の横顔には、まだ一睡もしていないはずの疲労は見当たらない。ただ、わずかに尖(とが)らせた唇が、彼女なりの苛立ちを示していた。
「世界の解像度が上がりすぎると、少しだけ頭が痛くなるんだよ、志乃。……雨上がりの光は、隠しておきたいものまで暴き出すからね」
沖田は、昨夜の惨劇の中心にあった「本物の琥珀」――忘れな草が封じられたそれを、再び窓の光に透かした。 赤黒い血塊のように見えていたそれは、今では温かみのあるオレンジ色の、まるで小さな夕陽のように輝いている。
「葛城邸の件、梨花さんから連絡がありました。紗代さんとお父様……正造さんは、今日から一緒に暮らす準備を始めるそうです」
「そうか。……壊れた器を接着剤で繋ぎ合わせるようなものだ。強度は以前よりも落ちるし、継ぎ目は一生消えない。だが、それでも器としての形は残る。……人間っていうのは、そういう不格好なものを愛でる生き物なんだろうな」
沖田は、咥(くわ)えたまま火を付けていなかったタバコを灰皿に戻した。 彼の視線は、整理された資料の山の一番上に置かれた、一枚の古い写真に向けられている。 それは、偽造師・加納の工房から回収された、美夜子――梨花の母であり、紗代の母でもある女性が、まだ若かった頃の笑顔の写真だった。
「……沖田さん。加納さんは、自ら幕を引いたのですね」
志乃の声が、微かに沈んだ。 加納(クロノス)。二十年もの間、地下で「偽物」を造り続けた老人は、警察が踏み込んだ時には、自らが磨き上げた琥珀の山に囲まれ、安らかな表情で永遠の眠りに就いていた。そこには争った形跡も、絶望の影もなかった。
「彼にとって、あの琥珀の中に忘れな草を封じた瞬間、世界は完成したんだ。……偽物を造り続けることでしか『本物』を愛せなかった、悲しい職人の終焉だよ」
その時、プレハブのドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた。 湿った空気と共に飛び込んできたのは、サイズの合わないコートを翻した、警視庁の久世警部補だった。
「……相変わらず、ここはヤニ臭くていかんな。窓くらい開けたらどうだ、沖田」
久世は、鼻を鳴らしながら沖田のデスクの前まで歩み寄ると、重厚な革のブリーフケースを無造作に置いた。 彼の瞳には、一晩中現場を駆け回った者特有の、ぎらついた疲れが宿っている。
「やあ、久世。……朝から犬の散歩には少し早いんじゃないか?」
「ふん。お前が投げ出した『仕事』の片付けをしていたんだよ。……葛城邸の地下、あそこから見つかったのは加納の遺体だけじゃない」
久世は、ブリーフケースから一通の、赤い「CONFIDENTIAL」のスタンプが押された報告書を取り出した。 志乃が素早くそれを受け取り、沖田の前に広げる。
「……薬品の鑑定報告書?」
「そうだ。加納が琥珀を造るために使用していた特殊な合成樹脂と、その硬化剤。……これらは市販されているものではない。海外の軍事企業が開発し、数年前に流出したとされる、最高機密の化学物資だ」
沖田の指先、鍵を回すリズムが、一瞬だけ乱れた。 チリ……と銀の鍵が真鍮の鍵を叩く。
「……つまり、加納は単なる隠遁者(いんとんしゃ)ではなかったということか」
「背後に『供給者』がいる。……それも、国家レベルの機密を横流しできるような、巨大な根を持つ連中だ。加納が死んだことで、彼らは証拠を消しにかかっている。昨夜、葛城邸に火を放とうとした紗代という女……彼女を唆(そそのか)し、あの『毒の琥珀』の素材を与えたのも、おそらく同じ連中だ」
久世は、もう一枚、ザラついた質感のモノクロ写真を取り出した。 防犯カメラの映像を無理やり引き伸ばしたような、粗い画質。 そこには、人混みの中に溶け込む一人の男が写っていた。
一見すれば、どこにでもいる善良な会社員。 だが、角度を変えて見れば、鋭い眼光を持つ冷徹な暗殺者。 そして別のカットでは、慈愛に満ちた聖職者のような微笑を浮かべている。
「……こいつは」
沖田の瞳が、冬の湖面のように冷たく冴(さ)え渡った。 彼はタバコを指先で揉(も)み消し、その写真を凝視する。
「『三つの顔を持つ男』。……沖田、お前が数年前に探偵事務所を開くきっかけになった、あの未解決事件の最重要参考人だ」
室内の空気が、一気に重圧を増した。 光の斑は消え、窓の外には再び暗い雲が寄り集まり始めている。
「真鍮の真実……葛城梨花の狂言。 銀の真実……静江と加納の、美への執着と罪。 鉄の真実……紗代の復讐と、母の想い。 ……第1話から第4話までで、僕たちが暴き出したのは、あくまで『葛城家』という枠の中の真実だった」
沖田は、三つの鍵を繋ぐ銀の輪を、力強く握りしめた。 金属が肌に食い込み、鈍い痛みが走る。
「だが、三つ目の鍵がまだ回っている。……この事件全体を包む、もっと冷徹な『四つ目の事実』が存在するということだ」
「四つ目……?」 志乃が、息を呑んで沖田を見つめる。
「加納は、偽物の中に本物を隠した。……だが、組織は『本物』を利用して、世界を巨大な偽物へと作り替えようとしている。……久世、この写真はどこで撮られたものだ?」
「西新宿の廃ホテルだ。葛城邸の事件が起きる数時間前、加納と接触していた形跡がある。……沖田、これ以上は俺たちの管轄だ。素人の探偵が首を突っ込む領域じゃない」
久世はそう言い残し、背を向けてドアへと向かった。 だが、ドアノブに手をかけたところで、彼は一度だけ立ち止まる。
「……昨夜、紗代という女が言っていた。……『探偵さんが本物の花を見つけてくれなければ、私は今頃灰になっていた』とな。……礼は言わん。だが、琥珀の鑑定料くらいは、梨花さんに多めに請求しておけ」
バタン、と重い閉鎖音が響き、久世の気配が遠のいていく。
事務所には、再び静寂が戻った。 しかし、その静寂は以前のものとは異なっていた。 これから始まる、長い、そしてあまりにも濃密な「闘争」の前奏曲。
「志乃。珈琲を淹れ直してくれ。……一番苦い、マンデリンを」
「……分かっています。新しい資料も、既に準備していますから」
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