見出し画像

『迷探偵 沖田』第8話:マンデリンの苦い告白

事務所に帰還した三人を迎えたのは、世界がひっくり返った後のような、暴力的なまでの静寂だった。  新宿の喧騒は窓硝子の向こう側で、音のない水槽の底の出来事のように揺らめいている。  志乃は無言で瑞穂――今は意識を失い、ただの「壊れやすい器」と化した少女――を奥の仮眠用ベッドに横たえた。

沖田はコートを脱ぐこともせず、デスクの椅子に深く沈み込んでいた。  彼の指先は、いつものように三つの鍵を弄んでいるが、その動きはどこか覚束ない。

「沖田さん。豆、二倍にしました」

志乃が差し出したマグカップからは、立ち上る湯気と共に、喉を焼くような強烈な苦味を予感させるマンデリンの香りが溢れていた。  沖田はそれを無造作に受け取り、熱さを厭わず一口啜る。

「……苦いな。泥を飲んでいるようだ」

「それが、あなたが求めた『事実』の味でしょう?」

志乃はデスクの向かい側に腰を下ろし、真っ直ぐに沖田の瞳を射抜いた。彼女の双眸には、誤魔化しを許さない強固な意志が宿っている。  沖田は自嘲気味に口角を上げ、再びポケットから鍵を取り出した。

「真実は大体3つほどある。……僕がなぜ、警察からも蔑まれながら『迷探偵』なんて不名誉な看板を掲げているのか。その一つ目の皮を剥ごうか」

チリ……。  真鍮の鍵が、デスクの上で鈍い音を立てた。

「真実、その一。……僕はかつて、探偵ではなく、あの組織……『クロノ・グラフィア』の調律師(チューナー)候補だった」

志乃の眉が、わずかに跳ねた。だが、彼女は驚きの声を上げる代わりに、ただ静かに沖田の言葉を待った。

「数年前、僕は論理学と化学の境界にいた。加納さんのような偽造技術を、理論的に体系化し、世界中のあらゆる『価値』を書き換えるためのプログラムを組んでいたんだ。……その過程で、僕は一人の女性と出会った。名前は、エミ」

沖田の視線が、虚空を泳ぐ。  彼の脳裏には、陽だまりのような図書館の匂いと、ページを捲るエミの指先の白さが蘇っていた。

「彼女は、組織が用意した『完璧な検体』だった。瑞穂さんと同じように、記憶を硝子に定着させるための……。僕は彼女の調律を任された。彼女を壊さず、しかし人間としての形を保ったまま、知識の容れ物へと作り替える。それが僕の仕事だった」

沖田の手の中で、銀の鍵が震える。

「真実、その二。……僕はエミを愛してしまった。そして、彼女を救い出すために、組織の深層データを三つの物理的な鍵……この『真鍮、銀、鉄』に分割して持ち出した。……だが、組織は僕の裏切りを予見していた」

窓の外で、一閃の雷鳴が走った。  瑞穂が眠る奥の部屋から、微かな寝息とは異なる、不自然な「音」が聞こえてくる。  まるで、硬い物質が内側から軋むような音。

「僕がエミを連れて逃げようとした夜、現れたのが『三つの顔を持つ男』……調律師の頂点に立つ男だ。彼は僕の前で、エミの精神を『三つの硝子』に封じ込めた。物理的な肉体は、ただの空虚な抜け殻へと変えられた。……以来、彼女はどこにもいない。あるいは、世界のどこかに、三つの破片となって散らばっている」

沖田はマンデリンを最後の一滴まで飲み干した。  カップの底に残った滓(おり)が、彼の現在の心境を物語っているようだった。

「沖田さん……。それじゃあ、瑞穂さんが言っていた『忘れな草の匂い』というのは……」

「エミが好んでいた香りだ。……組織は、僕を誘い出すために、瑞穂さんという新しい器に、エミの記憶の断片を植え付けた。……三つ目の真実は、まだ語る時期じゃない。……いや、語る勇気が、僕にはまだないのかもしれない」

その時、仮眠室のドアがゆっくりと開いた。  現れたのは、瑞穂だった。  だが、その立ち居振る舞いは、先ほどまでの怯えた少女のそれではない。

彼女は沖田の前に歩み寄り、デスクに置かれた真鍮の鍵を指先でなぞった。  その動作は、かつて沖田が愛したエミの癖、そのものだった。

「……沖田君。マンデリン、少し濃すぎたんじゃない?」

瑞穂の口から漏れたのは、エミの声だった。  沖田の全身が凍りつく。

ここから先は

274字

様々なMEGURIが、人生のすべてを懸けて綴る循環(めぐり)。そのすべてを余すことなく受け取っていた…

【早期人数限定】MEGURI応援プラン

¥498 / 月
人数制限あり

スタンダードプラン

¥1,300 / 月
1ヶ月無料 人数制限あり

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?