『迷探偵 沖田』第2話:三つの真実、一つの嘘
天を切り裂くような雷鳴が、葛城邸の重い静寂を粉砕した。 直後、網膜を焼くような青白い閃光が走り、視界は粘りつくような漆黒に呑み込まれた。シャンデリアが最期の吐息を漏らすようにチカチカと明滅し、プツリ、と屋敷の心音が止まる。
「停電……?」
梨花の震える声が、闇の中で虚空を泳ぐ。 窓の外では、叩きつけるような雨が屋敷を檻のように囲んでいた。新宿の喧騒から隔絶されたこの森の奥深くでは、わずかな光さえも届かない。 沖田は動じなかった。闇の中でも、彼の指先はリズムを刻み続けている。真鍮、銀、そして鉄。三つの鍵が奏でる金属音が、雨音の隙間に鋭く入り込む。
「志乃、明かりを」
「心得てます」
短く簡潔な返事と共に、志乃が懐中電灯を点灯させた。鋭い光の束が応接室を切り裂く。光の輪の中に浮かび上がったのは、顔を青白く強張らせた正造と、相変わらず冷ややかな微笑を崩さない静江の姿だった。 そして、梨花の手のひらで鈍く光る『琥珀の瞳』。
「……沖田さん。あなたが仰った『一つ目の真実』、私が自分で宝石を隠したというのは認めます。でも、私はこの家を守りたかっただけなんです!」
梨花は、光に目を細めながら訴えた。彼女の指先は、琥珀を握りしめるあまり白く変色している。その爪先には、先ほど沖田が指摘した金庫の防錆油が、黒い三日月のようにこびりついていた。
「守る、か。……梨花さん。君は確かに自分の意志で金庫を開け、中身を隠した。だが、その『意志』自体が、誰かによって植え付けられたものだとしたら?」
沖田の言葉に、闇の中の空気が一層重さを増す。
「どういう……意味ですか?」
「君は、誰かにこう言われたはずだ。『お父様が宝石を偽物とすり替え、借金の返済に充てようとしている』とね。匿名の手紙、あるいは、正体不明の電話。……違いますか?」
梨花の肩が、弾かれたように震えた。その反応だけで十分だった。
「どうして……それを」
「君の部屋のゴミ箱に、細かく裁断された便箋があった。志乃に回収させて、さっきパズルのように組み合わせてもらったんだよ。そこには、正造さんが宝石商と密会しているスケジュールが記されていた。……でもね、梨花さん。正造さんが会っていたのは宝石商じゃない。――弁護士だ」
正造が、深く、澱んだため息をついた。 「……そうだ、梨花。私は……この屋敷を、お前の代に残すために、自分の遺産相続を整理していただけなんだ。宝石を売るなど、考えたこともない」
「じゃあ……あの手紙は嘘だったの?」
「いいや、手紙は半分だけ『真実』を語っていた。……梨花さん、その琥珀をよく見てごらん」
沖田は、志乃から懐中電灯を受け取ると、光を琥珀の芯へと集中させた。黄金色の透明な樹脂の中に、猫の瞳のような鋭い輝きを放つ宝石が封じられている。 しかし、沖田がその光をわずかに傾けると、琥珀の深層部に、蜘蛛の巣のような微細なヒビが浮かび上がった。
「これは……」
「本物の『琥珀の瞳』なら、数万年の時を経てもその内部に亀裂が生じることはない。……これは、精巧に作られた人工琥珀だ。中に入っている宝石も、ただのガラス玉。……つまり、君が『守ろうとしたもの』は、最初から偽物だったんだよ」
梨花の手から琥珀が零れ落ちた。乾いた音を立てて床を転がるそれは、もはや家宝としての威厳を失い、ただのガラクタにしか見えなかった。
「梨花さん。これが二つ目の真実。――家宝は、君が盗み出すよりもずっと前……おそらく、数十年も前から偽物とすり替えられていた」
沈黙。 雨音だけが屋敷の骨組みを軋ませる。その時、どこからか「ギィ……」という、木材が擦れ合うような音が響いた。応接室の奥、沖田が先ほど指し示した、塗り潰された書庫の壁からだ。
「……あ。……あぁ……」
静江が、初めてその冷徹な仮面を歪ませた。彼女の視線は、塗り潰された壁に釘付けになっている。 沖田は、ポケットの中から銀色の鍵を取り出した。月の光を閉じ込めたようなその鍵は、懐中電灯の光を反射して怪しく輝く。
「三つの鍵のうち、二つ目が回りたがっている。……正造さん、この壁の向こうに何があるのか、隠すのはもう限界だ」
「止めてください!」 静江が叫んだ。その声は、湿った夜の空気を切り裂く刃のようだった。 「そこは、開けてはいけない場所なんです。葛城家の……葛城家の尊厳が死んでしまう!」
「尊厳、ですか。あるいは、そこに死んでいるのは尊厳ではなく、『人』ではありませんか?」
沖田の冷酷なまでの問いかけに、静江は力なく膝をついた。 沖田は、迷いのない足取りで書庫の壁へと歩み寄る。そして、塗り潰されたペンキの僅かな段差に指先をかけた。 SYOSETHUの技法で言えば、ここが物語の「転」の入り口だ。 彼は鍵の先端を、壁の隙間にある、隠された小さな鍵穴へと差し込んだ。
ガチリ、と重厚な手応えが彼の指に伝わる。 壁が、重い溜息をつくようにゆっくりと回転し始めた。 そこから溢れ出したのは、数十年の間、誰の目にも触れることなく澱んでいた、饐(す)えた埃の匂いと、微かな、しかし抗いようのない「花の香り」だった。
懐中電灯の光が、隠された小部屋を照らし出す。 そこは、まるで時間が凍りついたかのような寝室だった。昭和初期の意匠が凝らされた調度品。そして、ベッドの上には、一人の女性の肖像画が安置されていた。 梨花に酷似した、しかしどこか悲劇的な陰りを帯びた瞳を持つ女性。
「……お母様?」 梨花が呟く。それは、彼女が幼い頃に「病死した」と聞かされていた、正造の先妻のものだった。
「梨花さん。君が読んだ匿名の手紙の主は、おそらくこの部屋の存在を知っていた。そして、君を利用してこの部屋を開けさせようとしたんだ」
沖田は、部屋の隅にあるドレッサーの上に置かれた、一通の手紙を拾い上げた。それは未開封のまま、長い年月を過ごしてきたものだ。 彼はそれを、無造作に破り捨てた。
「沖田さん! 何を!」 志乃が驚いて声を上げる。
「いいんだ、志乃。この手紙に書かれていることは、真実ではない。……これは、葛城家を破滅させるために仕組まれた、壮大な『嘘』だ」
沖田は、三つの鍵を再びポケットに収め、今度は一番重い、鉄の鍵を指先で弄んだ。
「三つ目の真実。……それは、この屋敷の中に、まだ『もう一人の住人』がいるということだ」
その言葉が放たれた瞬間、床下から、ドスン、と大きな衝撃が走った。 何かが、激しく暴れているような音。 梨花は悲鳴を上げ、正造は顔を覆った。
「静江さん。あなたがこの数十年、毎日地下室へ運んでいた食事……それは、誰のためのものですか?」
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