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碧い港のファンタジア《7》オートマタ(連作短編)

《7》オートマタ

―その瞳は、天を映す。影と少年のものがたり―

***

《プリマヴェーラの日》で賑わう広場の華やぎをよそに、人々から忘れ去られたようにひっそりとした一角があった。

小舟ばかりが繋がれている港のはずれで、穏やかな波が寄せるにつれ、舟をつなぐ鎖がきしむ音だけが繰り返し聞こえている。

アスファルトには白い砂が浮き、ひび割れからは雑草が勢いよく葉を伸ばしている。薄みどりのつるが伸びた先に灰色の建物がぽつりと建っていた。その佇まいはがっしりとしてはいるが、建てられてからかなりの年月が経っているらしく、風雨にさらされた外壁には稲妻のような亀裂が幾筋も走っている。

建物の内部は、鉄骨がむき出しになった無骨な作りだ。天井は高く乾燥しきった屋内は、鉄錆と土の混じったような埃っぽい匂いがする。床はコンクリートの打ちっぱなしで、ところどころに埃をかぶった木の棚やガラス製のショーケースが置かれているが、あとはがらんとしている。窓枠は錆びつき、窓ガラスも曇ってしまっている。

その窓際に古い椅子が置かれ、一人の少年が座っていた。少年は椅子の背にもたれかかったままがっくりとあおむいている。そのままぴくりともしない。室内の空気も止まったままだ。
ややあって、少年はわずかにみじろぎをした。
「やっぱり誰も来ない・・・」
少年は小さくうめいた。

少年はここで店番を頼まれているのだった。
しかし客は誰も来ない。昨日もその前も来なかった。暇を持て余した少年は、椅子の背を軋らせて大きく背伸びをする。そのまま白いのどを反らして天井を振り仰ぐと、真っすぐな前髪がさらりと左右に流れた。

ここはもともと古い倉庫だった。それを店舗として使っているのだ。かつてこの港は貨物船でにぎわい、この倉庫も輸入品の一時置き場として建てられた。しかしその後、貨物船の航路が変更されたことで船荷の扱いはなくなり、倉庫の役割は終わってしまった。その後は空き物件として長く捨て置かれていたが、海沿いの立地に目を付けたある人物によってレストランとして生まれ変わることになった。壁は塗り直され、しゃれたカフェテーブルが運び込まれた。錆びていた窓枠もきれいに磨かれ、赤い日除けが潮風にはためいた。

歴史ある建造物のなかで、海を眺めながら冷たい飲み物や軽食が楽しめるレストランは人々の話題を集めた。麻のジャケットに縞のタイ、夏のワンピースでおめかしをした恋人たちが次々と訪れ、屋外のテーブルには銀の皿に盛ったオリーブや小海老のカクテルが並んだ。あちこちで合わされる乾杯のグラスにはシャンパンの泡が弾けた。

だが、小舟と波ばかりの静かな海は、飽きっぽい人々を長く惹きつけておくことはできなかった。ひっそりとレストランが閉められた後は、絵葉書などの土産物を売る店、船員向けのバーなどに変わったが、どれも長続きはしなかった。そして今はかろうじて鉄屑の倉庫兼・簡単な機械修理などを請け負う店になっている。こんな店だからもとより繁盛するわけもなく、埃っぽく寂れかけた様子はもとの倉庫に戻ったようなものだ。

少年に店番を頼んだまま、本来の店主はほとんどここに顔を出すことはない。こんな店があることさえも、もうすっかり忘れてしまっているのかもしれない。

少年はただ、こわれかけた椅子に座って、天井から落ちる光の筋を眺めていた。トタン屋根の一部は半透明になっている。屋根が錆びついて穴が開いてしまったところに、ガラクタの山から見つけ出してきた樹脂板を張り付けてしのいだものだ。当初は無色透明だった樹脂板も、いまではすっかり淡い琥珀色に変色してしまった。

この偶然の天窓を透かしてくる日光が、埃のなかに射しこんで斜めの光の柱を作る。天井を振り仰いでいる少年の瞳にまともに光の柱が落ちた。濃紺に翳る瞳の半分に光が射し込み、そこだけ翠碧色に透ける。少年は瞬きもせずに光を受け止めていたが、やがてかすかに眉をひそめた。
「おなかが空いたな……」
椅子にのけ反ったまま、少年は壁沿いの棚を見やった。そこにはひと抱えほどもある大きな壜があり、中には薄青いビー玉が溜まっていた。無数のビー玉は瑞々しくかがやいている。

「そろそろ食事の時間かな」
 少年が口にするのはもっぱらラムネ水だ。それ以外のものはからだが受けつけない。「壊れて」しまうからだ。店主が少年を造ったのはある遠い夏の日のことだったが、快晴のその日はことのほか暑く、のどのかわいた店主の気まぐれによって少年のエネルギー源はラムネ水となった。炭酸と糖分が反応して躯体の稼働に必要なエネルギーが作られる。

人間の少年を気取ってみたい時には、ラッパ飲みの形式で口からラムネ水を注入してもいいし、手ぶらで出掛ける時には、胸部に設置された入れ替え口を開けて、ラムネ水を壜ごと充填しておくこともできる。カートリッジ式の万年筆の要領だ。ラムネ壜を交換するたびに、壜の口に栓がわりに嵌め込まれているビー玉が手に入る。少年は棚の大きな壜にそのビー玉を貯めていた。

 エネルギーが切れてきたせいか、少年は立ち上がるのがおっくうになってきた。頭の中で冷たいラムネ水の様子を思い描く。栓を抜いたラムネ壜は小気味よく泡を吹きだし、淡い碧色にきらめく液体が喉を潤していく。軽いモーター音が響き、鈍っていた頭の回転が明瞭さを取り戻す。瞳に潤いが満ちて光を取り戻す。

天井を見上げながらそこまで考えが進んだとき、窓の外に何か動いた気がして、少年は首を廻らした。

そのとたん、外でガシャン!と耳をつんざくような音が響いて、あとはまた静かになった。

***

そこから時をさかのぼること一時間。港のはずれの草っぱらにしゃがみ込む人影があった。その人物はしきりと足をさすっており、傍らには自転車が倒れている。
「参ったな…」
絞り出すような独り言の主はアンテだった。

アンテは、せっかくの外出の帰りに災厄アクシデントに襲われたのだ。《プリマヴェーラの日》と呼ばれるその日、港では華やかに祭りが催される。祭りに合わせて寄港する外国船を目当てにアンテは出向いたのだ。

珍しい客船を心ゆくまで眺め、アンテは気持ちが弾んでいた。このまま普通に帰るのはつまらない。せっかくだから趣向を変えて、今まで通ったことのない道を通ってみようと思い立った。いつもの道路は埠頭から一区画離れているので海が見えない。それならちょっと遠回りだが、できるだけ海のそばを通って帰ろう。船を横目に走るのは楽しそうだ。埠頭に沿って空き地が広がっているから、自転車でそこを突っ切ればいい。

夏はまだ先というのに、空き地には早くも雑草が茂っている。ペダルを漕ぎ出すと、頬を撫でる潮風に草の匂いが入り混じる。遠くで汽笛が鳴り、思わずそちらに視線を投げかけた瞬間、車輪が何かに乗り上げた。バチンと不吉な音がした途端、ハンドルを取られたアンテは自転車から放り出されてしまった。

「痛っ」
立ち上がろうとするとすねに痛みが走る。転んだはずみにどこかに打ちつけてしまったようだ。こんな草地でいったい何に乗り上げたのか。いまいましい気分で雑草をかき分けてみると、錆の浮いた鉄のレールが現れた。周辺には朽ちた木材が転がっている。どうやら鉄道の枕木のようだ。

その昔は港の先まで貨物線が通っていた、と話には聞いたことがあったが、これがそうか。生い茂る草に埋もれた廃線跡。外国からの貴重な品々を満載して人々にもてはやされた、かつての貨物列車の幻がアンテのまぶたに浮かんだ。

いや、そんなことより今は自転車だ。われに返り、草むらになぎ倒れている自転車を覗き込むと、車輪から鈍色の針金が鋭く突き出ている。悪い予感は当たっていた。スポークが折れてしまったらしい。このまま乗ると他のスポークまで折れて余計に面倒なことになる。アンテはため息をついた。ここから自分の部屋まではかなりの距離があるし、おまけにあの急坂だ。打ち身も痛むし、この聞き分けの悪い自転車を引きずっていくのは骨が折れる。

「どうしようか…」
すがるような気持ちで辺りを見渡すと、草地の向こうに、小さく建物の影を見つけた。あそこまでいけば何か手がかりが得られるかもしれない。痛む足をかばいつつアンテは立ち上がった。

雑草に足を取られつつ、自転車を引きずってようやくたどり着いた建物は古い倉庫だった。すでに廃屋となっているのか、コンクリートの壁には細かくひびの線が走り、トタン屋根も錆び色に染まっている。しかし入り口に何やら看板らしきものが立てかけてある。アンテの願いが通じたのか、目を凝らすと看板の文字は「機械修理」と読めた。だがその字も消えかけており、入り口の扉は固く閉ざされている。扉の脇の水場に掛けられたゴムホースも乾ききり、土埃をかぶっている。

「ちょうど修理屋とは運がいいけれど、こんな様子で本当に営業しているのかな」
窓はあるが背が届かない。そのあたりに転がっていたブリキのバケツを伏せ、その上に爪先立って中を覗き込む。薄暗い建物のなかに、ひとりの少年がいた。アンテより少し年下ぐらいだろうか。少年は椅子に座って天井を見上げているようだが、天窓から落ちる陽をまともに顔に受けたまま微動だにしない。

「なにをしてるんだ、一体……」
そう呟いたとたん、少年の顔がギッと真横を向いた。碧色の瞳がまともにアンテを見据える。
「うわああ」
アンテはバランスを崩しバケツごと倒れそうになった。思わず伸ばした手が、壁に立てかけてあった脚立に当たった。大きな脚立はスローモーションで傾いてゆく。

ガシャン!
脚立とアンテはすさまじい音を立てて地面に倒れ込む。
もうもうと砂埃が舞い上がったあと、周囲には元の静寂が戻った。

ああ、やってしまった。呆然としていたアンテだったが、埃にむせながら脚立を片付けていると、窓が開き
「驚かせてしまいましたね。大丈夫ですか?」
と少年が首を出した。陽の下で見る少年の肌は痛々しいほど白い。まるで生まれてこのかた日焼けしたことがないような肌の白さだ。

「こちらこそ、脚立を倒してしまってごめんよ。ところで修理工房は営業している?自転車が壊れて困ってるんだけど、見てもらえるととても助かるんだ」
「はい、営業しています。いま、そちらに伺いますね」
少年は窓から小さな頭をひっこめると、重そうな扉を押し開けて外に出てきた。躯を屈めて自転車を覗き込む。
「こちらの自転車ですね。故障はどこですか?」
「スポークが折れてしまって。ほら」
アンテもしゃがみこもうとした拍子に、痛めている足に体重が掛かった。
「痛っ」
打ち身が痛みを増している。

「どうされましたか」
「さっき自転車ごと転んで、その時に少し打ってしまったんだ。でもだいじょうぶ」
「でも痛そうですね。よかったらちょっと見せて頂けますか」
「たいしたことはないんだけどね」
そういいながらズボンのすそをまくり上げると
「ここ、青くなっていますね」
少年に指摘された通り、すねに青紫色のあざができていた。

「もしお急ぎでなければ、少し冷やして行かれたらどうですか?自転車も直します。他のお客さんは来ないでしょうから、遠慮はなさらなくて大丈夫ですよ」
少年の言葉に甘えて、建物のなかで少し休ませてもらうことにした。

少年が華奢な体を突っ張るようにして、倉庫の重い扉を引き開けた。薄暗い屋内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気がからだを包む。店番の少年が目の前にいるというのに、まるで長い年月、無人の場所だったような気配が漂っていた。

外の明るさから目が慣れると内部のようすが見えてきた。壁際の薄暗がりには旋盤や研磨機の無骨な姿が沈んでいる。この一角を修理工房としているのだろう。外から見ていた印象よりも屋内は広く、天井も吹き抜けのように高い。照明はないが、くすんだ窓ガラスごしにいくばくかの外光は差し込んでおり、奥まった突き当りの窓からは小さく海が見えた。
「ずいぶん広いんだね」
「そうですね。もとは輸入品用の倉庫だったと聞いています」

ガランとした空間には、木枠にガラスが嵌め込まれたショーケースがいくつか並んでいる。薄く埃をかぶったガラスに顔を寄せてのぞき込んでみると、これも古びた部品がいくつか並んでいる。黒ずんだ滑車や針のとれた計器、真鍮のスクリューのほか、いったい何に使うのかアンテには見当もつかない金具類もある。

さまざまなネジ類と並んで、透明の大きな電球が置いてあった。しかし電球のフィラメントは黒く焼き切れている。こんなものまで売り物になるのかといぶかしがっていると、その様子を察したらしい少年がケースの蓋を開けた。
「これはぼくの趣味です。ちょっと目をつぶってみてください」
言われたままに目を閉じると、少年が近くに歩み寄る気配がして、何かが軽く髪に触れた。

空気が動く気配がして、鈴よりも軽やかで微かな響きが、なんていったらいいか、そう、ダイヤモンドダストがきらめくときのような、霜がひそやかに結晶していくときのような、そんな透明で繊細な音が耳もとに降りそそいだ。

目を開けると、顔の高さに電球を掲げた少年が、軽くポーズをとってにっこりとほほ笑んだ。
「ね、振ると、奇麗な音がするんですよ」
少年から電球を渡されてアンテも振ってみた。ささやきのように涼やかな音がする。繊細なスノードームのように薄いガラスの珠の中で、銀色にふるえるフィラメントがひそやかな響きを奏でた。

「こちらに掛けてお待ちください」
少年が物陰から引っ張り出してきたのは木製のデッキチェアだった。帆布が張られた折り畳み式のもので、避暑地の海岸などでよく目にするタイプのものだ。少年がチェアを拡げると、赤と白のストライプの張地が、うすぐらい室内には場違いな陽気さを放った。

痛む足に体重を掛けないよう注意して腰を下ろすと、古いデッキチェアは軋みを立てたが、いったん背中を預けてしまうと体全体が包み込まれるようで気持ちがいい。
「座り心地はいかがですか?」
工房の奥に水屋があるらしく、冷水で絞った布を持ってきてくれた。少年は屈んでアンテのすねに湿布をあてがった。
「あいにく薬のご用意はないんですけど、これでも少しは足しになるかと」
ひんやりとした湿布は患部の熱を吸い取る。
「どうもありがとう。おかげで痛みがらくになったよ。それにこの椅子は掛け心地がいいね。なんだかハンモックみたいだ」

少年はアンテの傍らに椅子を引き寄せて、自分も腰を下ろした。
「そのデッキチェアは、前にここがレストランだった時の名残りです。日除けのパラソルと一緒にテラスにずらっと並べて、お酒なんかをお出ししていました。今のようすからは想像もつかないと思いますが、けっこう賑わっていたんですよ」
「そうだったんだ。その頃に来てみたかったなあ」
「でも、すごく前の話です。もうお店のことを覚えていてくださる方はいらっしゃらないんじゃないでしょうか。このデッキチェアも、他の人からすればがらくたみたいなものでしょうけど、ぼくだけでもその時のことを覚えておきたくて。わがままを言って、一脚だけ残してもらいました」

赤白の張地はすっかり色あせてはいるが、どこかにまだ海辺の華やぎを残していた。あらためてチェアに身を任せると、波の音がより近く響くように感じた。ときおり海猫の声も混じる。

「きっと、とてもいいお店だったんだね。君の様子を見ていれば分かるよ」
「はい。毎日とっても楽しかった。あれがその頃の写真です」
少年が指差した窓際の棚には、小さな写真の額が立てかけられていた。すっかりセピア色になってしまった写真には、スーツを着た誰かと並んだ少年の姿があった。相手の顔は映っていないが、写真の中の少年は眩しそうな眼をして相手を見上げている。顔だちは紛れもなく彼のものだが、どこか印象が違う。

「これは、きみなの?だいぶ雰囲気が違うね。髪型が違うせいかな」
目の前の少年の髪は真っすぐでさらさらとしているが、写真では柔らかな巻き毛で、そのせいか少し幼く見える。写真を撮った日は陽ざしが強かったのか、降り注ぐ陽光が少年の髪の上に輝く波を作っているのがモノクロの写真でもはっきりと分かる。
「そのころはまだくるくる頭だったんですよ。今では髪のウェーブが取れて真っすぐになってしまいましたが。あの頃はお客さんがいっぱい来てくれて楽しかったなあ。ぼく、お客さんに飲み物を運ぶのが大好きだった。ちゃんとぼく専用のエプロンも作ってもらったんですよ。一人前扱いしてもらった気がして嬉しかったな」

写真の中の少年は、よく見ると確かにカフェエプロンをしている。パリッとしたギャルソンの拵えと、 あどけなさを残した表情との対比で、写真の中の少年はなおさら人形じみてみえる。

「あのガラス壜もレストラン時代の名残りです。壜いっぱいにレモン水やミント水を作ってお出ししてました」
棚には、一抱えもあるようなガラスの大壜が乗せてあった。壜には真鍮の小さな蛇口がついている。訪れた客たちの喉を潤すため、なみなみと満たされていた冷水のかわりに、いまは無数のビー玉が充たされていた。窓から零れた光が反射して水色の光を湛えている。

何かを思いついたと見えて、少年の目が急に輝いた。
「そうだ、ミント水の代わりにお茶でもいかがですか?いいものをお持ちします。どうぞ」
怪我の手当をしてもらったうえにそこまでは、とアンテはためらったが、
「ぼくもお相伴します。お客さまは久しぶりだから、ぼくも嬉しいんです。ぜひ」
という少年の言葉に、やはりご馳走になることにした。
「よかった」
少年はにっこりと笑った。そして「えへん」と軽く咳ばらいをすると、すまし顔で向き直った。

「ようこそ当店へ。ドリンクメニューは、ラムネ水と紅茶のご用意がございます。本日のおすすめは紅茶です。いかがなさいますか」
「では、おすすめの紅茶でお願いします」
「かしこまりました」
少年はすまし顔でぺこりとお辞儀をすると、奥へ向かった。

やがて戻ってきた少年は、銀のトレイのうえに、ラムネ水の翠色の壜と湯気の立つティーカップを載せていた。ラムネ水は少年が飲むのだろう。
「お待たせいたしました」
デッキチェアの傍らには急ごしらえの小卓が整えられ、うやうやしい手つきでティーカップが差し出された。ティーカップの持ち手には繊細な装飾が施されている。このカップも、銀のトレイも、かつての夢の名残りなのだろう。アンテの脳裏には、着飾った客たちでレストランが華やいでいる光景が浮かんだ。

湯気の立つティーカップを受け取り、ひと口含むと、紅茶の深い味わいと花の香りが体じゅうに広がった。気分までもが華やぐ。意外なところで思わぬもてなしだ。椅子に掛けた少年は、アンテのようすを嬉しそうに見守っている。

「とても美味しいよ。なんだかすごくいい香りがする。これは薔薇?」
「はい、薔薇です。お気に召したのならよかった。花びらが茶葉に混ぜてあるんです。じつはぼく、薔薇にはいい思い出があって」
少年は遠い目をした。

「そういえば、あの日もプリマヴェーラの日でした。いつものように店番をしていたら、小さな女の子が迷い込んで来たんです。お祭りではぐれたみたいでした。大きな瞳いっぱいに涙をためて、かわいそうで。ぼく、それまで小さい子と接したことがなかったからどう慰めてあげたらいいか分からなかったんですけど、そうだ、と思いついて」
と少年は建物の奥に開いた窓を指した。窓からは、水色の絵画のように小さく海が揺れている。

「あそこから海を見せてあげたんです。ぼくはあの窓から見る海がいちばん好きだから。女の子は目をきらきらさせてずっと眺めていました」
少年の瞳が和らいでいる。
「そのあとは無事にご両親が迎えに来てくれたんですけど、別れ際に、その子が薔薇の香りがするお菓子を手渡してくれたんです。宝物を渡すみたいに、そっと。とっておきだったんでしょうね」
思い出からさめて少年は微笑んだ。
「それからぼく、なんだか薔薇が好きになって。お客さんのために薔薇のお茶を用意しておくようになったんです」

少年の話を聞きながら、アンテは最後のひと口を飲み終えた。薔薇の余韻が体を包んでいる。
「こんな香りのいいお茶は初めてだったよ。どうもありがとう。とても美味しかった」
「それは良かったです。ぼくは、香りの良さは楽しめるけれど紅茶の味は分からないから、いつかお客さんが来てくれたら、きっとお出ししようと思っていたんです」

「ところで君は飲まないの?」
冷えたラムネ壜は銀のトレイのうえに残されたまま露を宿している。
「そうですね。ではぼくも遠慮なく」
ラムネ水の壜を手に取り、くるりとアンテに背を向けたかと思うと、いきなりシャツを胸の上までまくり上げた少年に、アンテはのけぞった。
「いったいどうしたの?」
「ちょうど食事をしようと思っていたところだったんですよ。ちょっとエネルギーが切れてきたので、こちらで失礼します」
「食事って」
「ぼくの食事はこれなんです。ここからカートリッジを入れます、ほら」

少年が正面に向き直ると、そのはだかの胸は、鎖骨の下からへその上あたりまでが両開きの扉になっていた。蝶番で左右に開いた扉の内部は鈍い銀色をしている。その機構の奥に、碧緑色のラムネの壜がすっぽりと収まっていた。少年の呼吸とともに、壜の中を無数の泡がきらめきながら昇っていく。
「君は、」
オートマタ自動人形です。ずっと昔、店主がぼくを作ってくれました。このお店の店番として」
 胸の蓋をパチンと閉め、シャツの裾を戻して少年はにっこりと微笑んだ。

「そうか。そうだったんだね」
しかしアンテはさほど驚かなかった。それまでの少年の佇まいにはあまりにも体温が感じられなかったからだ。彼の人形じみた美貌もあいまって、むしろその方が自然だと思える。

コク、コクと液体が流れ込んでいく水音が聞こえる。いま彼の躯の内側では、発泡性の液体が透明な泡を弾かせながら金属の水道管を駆け巡っているのだろう。少年は立ったまま目をつぶっている。液体の注入が進むにつれ、膚がほのかに白く輝きだした。静電気を帯びた髪がふわりと浮き上がり、毛先からはプラズマ様の燐光が放たれている。頬には薄く血の気がさし、薄い瞼の下では眼球が細かく震えている。

しばらくして少年の体躯にカツリ、と微かな音が響いた。注入が終わった合図らしい。少年はゆっくりと眼を開き、ふう、と息を吐きだした。ラムネ水の蒼く甘い匂いがする。その瞳にはさえざえとした光が宿っていた。

「これで元気になった。さて」
少年は壁に掛けられた鏡に向かうと再び胸の蓋を開けた。カートリッジの設置口にはひと粒のビー玉が吐き出されている。少年は鏡を見ながらビー玉をつまみ上げると、すたすたと窓際の棚に向かった。つま先立ちになって、棚に置かれたガラスの大壜の蓋を開けると、たったいま取り出したばかりの新しいビー玉を中に落とした。その微かな振動に、それまで壜のなかでまどろんでいたビー玉たちが夢から覚めて一瞬かがやいたように見えた。

「そういえば、足のようすはいかがですか」
アンテはすねに手をやった。会話の合間にも少年が幾度か湿布を変えてくれたおかげで、痛みはほとんど引いている。
「おかげですっかり良くなったみたいだ。どうもありがとう」
「良かった。それならそろそろ自転車を修理しましょうか。あまり遅くなってもいけませんし。長いことお引止めしてしまって申し訳ありませんでした」
「こちらこそ、どうもありがとう。とても楽しかったよ。それじゃ自転車をお願いします」

少年が扉を押し開けると、倉庫の暗い床に、戸外から差し込む光が白い矩形となって落ちた。二人は真っ白い門をくぐり抜けるようにして外に出た。

室内ではかなりゆっくり過ごしたように感じていたが、陽はまだ高く、外壁に立てかけられたままの自転車はくっきりとした影を落としている。少年はさっそく自転車のそばにしゃがみこみ、故障個所を調べ始めた。その足元にも短い影が落ちている。

「ここですね。確かにスポークが折れてしまっている」
「そうなんだ。このあたりには古い線路が残っているだろう。草むらに埋もれているのに気づかないで乗り上げてしまって。まあこの自転車もだいぶ年季が入っているからね」
少年は「ふうん」とか「そうか」といった呟きを発しながら自転車を調べていたが、
「少々お待ちください」
との言葉を残して薄暗がりの屋内に戻っていった。

少年は工房で作業をしているようだ。アンテは扉の隙間から覗き込んでみたが、すでに戸外の明るさに慣れた目にはよく見えない。ごそごそと何かを探っているような気配がしていたが、そのうちバチンと何かを断ち切るような音がした。

やがて戻ってきた少年は手ごろな針金を携えていた。
「間に合わせではありますが、これぐらいの長さがあれば、スポークの代わりぐらいにはなります」
針金を載せた両手は、鳩でも放つかのように柔らかく差し出されているが、左手の薬指だけが不自然にピンと伸びている。

「その指はどうしたの?」
「あ、この針金、ぼくの指の腱だったんですよ。さっき外してきたので、曲げられないんです」
なにげない言葉にアンテは驚いた。

「大事なものだろう。指の腱だなんて、とても受け取れないよ」
「いえ、いいんです、修理屋がぼくの仕事だから。なくなった分はまたここのドックや港で集めてくればいいし。誰にも見向きもされないガラクタや端材でも、ちゃんと磨けば役に立ってくれるんです。それにぼく、けっこう器用なんですよ。店主が来なくなってからは自分で補修しているんですけど、なかなかの出来だと思いませんか」

ほら、と少年は靴下をめくってみせた。小さなぜんまいが緻密に噛み合って、繊細なくるぶしを形づくっていた。
「ぼくはもともと接客用のオートマタとして造られました。だから、誰かに喜んでもらうことが生きることそのものなんです」

君と出会えただけでぼくは嬉しかったよ。アンテはそう言いかけたが、少年の真剣な表情に言葉を飲みこんだ。
「どんな部品も、オートマタも、誰かに求められなければただ潮風に朽ちてしまうだけです。こんなさびしいところではなおさらです。だから、喜んでくれる人がいればぼくは嬉しい。それにぼくがここに来てずいぶん経ちます。こうして機械修理や自己補修を繰り返すたびに、ぼくの部品はドックで拾った船の部品に入れ替わっていって、もともとの躯はほとんど残っていないんです。僕はもう、ほんとうの躯のことを忘れかけているような気さえします」
「そんな……」
ここでひとり、過去すらも手放していく少年の孤独が伝わってくる気がしてアンテは言葉を失った。しかし少年の表情に屈託はない。

「だけど、僕のパーツが誰かの大切なものに生まれ変わってくれるなら、そして僕の姿を思い出してくれる人がいるなら。それはとても嬉しいことなんですよ」
「とは言っても……」
「大丈夫。ぼくもちゃんと決めていることがありますから。ひとつだけ、たとえ誰に頼まれてもこれだけはぜったいに譲らないと決めている部品があるんですよ」
「それは」
アンテの問いに、少年の白い指が動いて自らの瞳を指さした。
「この瞳です。この瞳と、名前さえあれば、ぼくはぼくでいられます。ぼくにとても似合う、って店主が選んでくれたものだから」

少年の名をまだ聞いていないことにアンテは気が付いた。

「ぼくの名は、アズール。意味を教えてもらう前に店主は発ってしまいました。だけどきっと、いい言葉だと思うんです。そんな気がします」

Azure――碧瑠璃。天上の色、永遠の祝福の青。それはまさに少年の瞳の色だった。
「君は、愛されているんだね」
微笑んだ少年の瞳は、青空の色にきらめいた。

《完》


「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)

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