不完全な情報での決断〜データを超えろ、五感で決めろ〜 | 【船長への羅針盤 第7話】
海が教えてくれたこと
現場の判断は、決して待ってはくれない。 あなたが頭の中で選択肢を並べ、「どれにしようか」と迷っている間にも、現実は刻一刻と動き、状況は変化していく。そして――その迷いの数秒、判断の遅れが、すべてを破滅させる。それが逃げ場のない海の現場であり、プロフェッショナルが生きる世界の本質だ。
現代のビジネス社会においても、私たちは常に「決断」を迫られている。データを集め、リスクを分析し、確実な勝算を得てから動きたいと思うのは当然の心理だろう。しかし、変化の激しい現代において、完璧な情報が揃うのを待っていては、競合に先を越されるか、チャンスそのものを失ってしまう。
本当に必要なのは、不完全な情報の中に身を置きながらも、自らの責任で「決める」という覚悟だ。私がその冷徹な現実を知ったのは、まだ夜の海の恐ろしさを何も知らない、新人保安官の頃の当直だった。
あの日の海
海上保安学校を卒業し、現場の巡視船に配属されて数ヶ月が経った頃、私は夜間の航海当直(ワッチ)に就いていた。
夜の海は、昼間とはまったく違う顔を見せる。見渡す限りの漆黒。どこまでが空で、どこからが海なのか、その境界すら曖昧になる世界だ。その夜は視界自体は悪くなかったが、海面はどこか落ち着きを欠いていた。ゆったりとした不規則なうねりが約6,500トンの大型巡視船を揺らし、波頭が時折白く砕けては闇に消えていく。
「今の船は、本当に楽だな」
船橋(ブリッジ)の暗闇の中で、私は心の中でそんな独り言をつぶやいていた。私の視線の先には、ぼんやりと緑色の光を放つ最新鋭のレーダー画面がある。
この「楽だ」という感覚には、明確な理由があった。 海上保安学校の乗船実習で乗っていた古い練習船のレーダーは、周囲が明るい昼間でも画面が見えるように、大きな黒いゴム製の「遮光フード」が取り付けられているタイプだった。私たちは当直中、そのフードに顔を深く埋め、外光を遮断しながら、目を凝らしてノイズの奥にある他船の光点を泥臭く探していたものだ。
しかし、今私が立っている最新鋭巡視船のブリッジにあるのは、昼夜を問わず鮮明に周囲の状況を映し出す大型のカラー液晶画面だった。それだけではない。ARPA(衝突予防援助装置)と呼ばれる優れた機能が搭載されており、画面上の他船にカーソルを合わせてクリックするだけで、相手の船速、進路、そして自船に最も接近する時間(TCPA)や、そのときの距離(CPA)が、すべて完璧なデジタル数値として一瞬で弾き出されるのだ。
「これなら、誰がやったって衝突なんて起こしようがない」
私は、テクノロジーがもたらす圧倒的な安心感に、完全に寄りかかっていた。心の中に、ある種の傲慢さが首をもたげていたのだ。
そのとき、レーダー画面の端に、新たな光点が一つ現れた。 自船の右前方、約八マイル。こちらに向かって進んんでくる反航船(対向船)だ。私はすぐに画面上の光点をクリックした。瞬時に計算された数値が画面の隅に表示される。
最接近距離(CPA)は「〇・六マイル(約一,一〇〇メートル)」。
海上衝突予防法における「行き合い船の航法」に照らせば、互いに他の船の左舷側を通過できるように、進路を右に変針しなければならない。だが、〇・六マイルという距離は、この広い海の上では十分に安全な離隔距離(すれ違う距離)に見えた。最新鋭の計器が「これだけ離れてすれ違う」と保証してくれているのだから、進路を変える必要などない。私はそう判断し、そのままの針路を維持した。
しかし、船が近づくにつれ、私の耳に、階下の主機の鈍い重低音とは明らかに異なる、高音のディーゼル排気音がかすかに混ざり始めた。
「……おかしい」
胸の奥を、言葉にならない冷たい違和感がかすめる。 私は双眼鏡を手に取り、漆黒の闇に目を凝らした。相手の船のナビゲーションライト(航海灯)を探す。行き合い船であれば、相手の「赤(左舷灯)」と「緑(右舷灯)」の両方が正面に見えるはずだ。しかし、うねる波間に見え隠れする光は、緑色が一瞬強く光ったかと思えば、次の瞬間には赤色に変わり、また闇に消える。ローリング(横揺れ)している漁船の灯火特有の、不安定なまたたきだった。
レーダーの数値は、依然として「〇・六マイルで安全にすれ違う」と表示し続けている。 しかし、私の五感は「何かがズレている」と激しく警報を鳴らしていた。
「おい、どうする?」
暗闇の後方から、当直士官の低く冷めた声が響いた。振り返ると、先輩は腕を組んだまま、私を試すような視線を送っている。
「レーダーの計算では、〇・六マイル離れて航過します。このまま維持します」
私は自分を安心させるように、計器の数値を拠り所に答えた。だが、先輩は動かない。 さらに一分が経過した。二船の距離は急速に縮まっていく。 双眼鏡のレンズの向こうで、相手の灯火の動きが完全に不規則になった。相手の船もまた、こちらの出方を窺いながら、迷うように舵を切っているのだ。
その瞬間、海上保安学校の学生時代に教科書が擦り切れるまで叩き込まれた海上衝突予防法の条文や、あの泥臭い乗船実習で叩き込まれた「海の動きの感覚」が、脳内で激しく交錯した。
『法律上の数値や規定がどうあれ、現場で相手の意図が読めないとき、それはすでに危急の事態である』
計器の数値は「予測」であって「現実」ではない。相手は血の通った人間が操船する漁船なのだ。次の瞬間、大波を避けるために突如こちら側に舵を切ってくるかもしれない。完璧なデータという名の「光の罠」に囚われ、自ら考えることを放棄していた自分の愚かさに、背筋が凍りついた。
「よし、面舵5度!」
私は叫ぶように号令をかけた。 面舵(右に変針)の基本として、速力がある通常航行時に大きく舵を切りすぎれば、巨大な巡視船は予期せぬ急旋回を起こし、かえって危険を招く。だからこそ、3度から7度の絶妙な舵角――ここでは「5度」という確実な舵をあてることで、自船の右舷側のスペースを確保しつつ、相手に対して「私は右に避けている」という意図を明確に示す必要があった。
「面舵5度!」
操舵手の復唱とともに、舵輪が滑らかに回る。巡視船の舳先(バウ)が、ゆっくりと、しかし確実に右へと向きを変え始めた。 それを見た相手の漁船も、待っていたかのように大きく右へと舵を切るのが、双眼鏡越しに見えた。
数分後、相手の漁船は、こちらの左舷側を白い波飛沫をあげながら、安全な距離を保って通り過ぎていった。窓を震わせるほどの轟音を残して走り去る漁船の影を見送りながら、私は制服の背中が冷や汗でびっしょりと濡れていることに気づいた。
船長としての視点
あれから多くの歳月が流れ、私は現在、大型内航コンテナ船の船長としてブリッジに立っている。
私が新人の頃に比べ、航海計器の精度はさらに飛躍的に向上した。現在の商船には、AIが他船の動きを予測し、最適な回避針路を画面上に自動で描いてくれるシステムすら導入されつつある。 今の時代、ビジネスの世界でも「データ経営」や「DX(デジタルトランスフォーメーション)」、AIによる需要予測が叫ばれ、あらゆるリスクが数値化され、クリック一つで完璧な「答え」が手に入るかのように思えるかもしれない。
しかし、どれだけテクノロジーが進化し、情報収集が「楽」になったとしても、私は若い三等航海士たちに口酸っぱく言い続けている。
「画面の数字だけを見るな。不完全な情報の中で、最後に決めるのは自分自身だ」
あの夜、私と船を救ったのは、最新鋭レーダーのクリック一つで得られる便利なデジタル数値ではなかった。むしろ、その利便性の裏側に潜む「気の緩み」を跳ね返し、海上保安学校時代に身体に染み込ませた基本と、言葉にならない「五感の引っかかり」を拾い上げた泥臭い人間の感覚だった。
現場の状況は常に「途中」であり、不完全だ。相手の意図、自然の気まぐれ、計器のわずかなタイムラグ。それらのノイズを完全に排除した「クリアなデータ」など、待っていても永遠に手に入らない。
ビジネスでも同じだ。完璧な市場調査のレポートや、100%安全な予測データが揃うのを待っていては、決断のタイミング(一秒の違和感)を逃し、組織を致命的な危機にさらすことになる。
データは強力なサポートツールに過ぎない。しかし、それを鵜呑みにして「思考」と「覚悟」を放棄した瞬間、リーダーは羅針盤を失うのだ。
羅針盤の一針
現場における決断とは、完璧な正解を選ぶことではない。 データがどれほど精密になろうとも、最後の最後は、「不完全な情報の中に身を置きながら、自らの責任で決める」という覚悟を持つことだ。
計器の数値を過信するな。あなたの五感が捉えた小さな「違和感」を、決して気のせいと片付けてはならない。その泥臭い感覚を信じ、自らの意志で舵を切る強さを持つ者だけが、大時化の海を切り拓くプロフェッショナルになれるのだ。
(第7話 了)
