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慣れという名の霧 | 【船長への羅針盤 第9話】

忍び寄る「できるつもり」の罠

海の世界、それも公務を担う巡視船の日常は、徹底されたルーティンと厳格な規律で成り立っている。 航海科の新人として怒涛の数ヶ月が過ぎ、季節が変わる頃、私は一つの変化を感じていた。

「砲術科併任(へいにん)」

それが、航海科に籍を置く私の、もう一つの重要な顔だった。 私の乗る巡視船は武装が強化されており、35ミリ機関砲が2基、20ミリ機関砲が2基装備されている。その中で私が担当を任されたのは、主力兵装である35ミリ機関砲の内の1基。ただの点検要員ではない。私はその機関砲の「射手(ガンナー)」でもあった。

最初は、圧倒的な威容を誇る35ミリ機関砲に触れるだけで指先が震えたが、回数を重ねるうちに手際が良くなっていく。 「自分もようやく、足手まといを卒業し、一人前の射手になってきたのではないか」 そんな根拠のない傲慢さと慢心が、私の心の中に静かに、しかし確実に芽生え始めていた。

だが、海は、そしてプロの現場は、そうやって天狗になりかけた若者の足元を絶対に逃さない。

高揚感と、脳内の「上の空」

機関砲の点検には、いくつかの「階層」がある。 毎日の状態を確認する「日常点検」、週ごとの「週点検」、より深い「月点検」。そして、実際に実弾を放つ前に行われる、最も厳格な「射前点検(しゃぜんてんけん)」だ。

翌日に射撃訓練を控えているのだから、今日の作業は「射前点検」になる。そんなことは、頭では十分に分かっていた。分かっていたはずだった。

しかし、本格的な作業前打ち合わせの前に、砲術科事務室で耳にした「ある情報」が、私の心を激しく揺さぶった。

「おい、明日の訓練だけどな。いつもと違うぞ」

先輩たちの話によると、いつも行っているのは、標的から意図的に照準をずらして撃つ「オフセット射撃」という安全に配慮した訓練だった。しかし、明日の訓練は違う。

「今回は、標的そのものを直接狙って、命中させる訓練だ」

標的を狙う訓練など、新人である私は一度も経験したことがない。 「ついに、自分の手で本物の標的に向けて35ミリをぶち込めるのか……!」

射手としての血が騒いだ。興奮が全身を駆け巡り、胸の高鳴りが抑えられなくなった。初めての経験への強烈な高揚感が、私の脳内を完全に支配してしまったのだ。

その後、砲術科事務室で始まった正式な作業前ミーティング(打合せ)。上司や先輩が今日の作業指示を出している間も、私の頭の中は「明日、標的に向かって火を噴く機関砲」のイメージでいっぱいだった。完全に上の空だった。

頭では、明日が訓練だとわかっている。ところが、いつもと違う標的への興奮のせいで、肝心な「今からやるべき点検内容」がおろそかになっていた。 ミーティングが終わり、「はい、分かりました!」と元気よく返事をして事務室を出たが、その足は無意識に、いつもの、一番体がおぼえている「日常点検」の資機材置き場へと向かっていた。

血の気が引く瞬間

35ミリ機関砲の前に資機材を運び込み、私は手際よく作業を開始した。 ボルトを外し、内部を点検していく。頭の中ではまだ明日の射撃のシミュレーションが続いていた。有能な射手になった気分で、手際よく手を動かす。

しかし、作業が中盤に差し掛かった時、背後から近づいてきた先輩が、私の手元と周囲に転がした工具を見て、怪訝そうな声をあげた。

「おい……お前、何やってんだ?」

「え? 日常点検ですが」 私はまだ、自分の間違いに気づいていなかった。

「……日常点検? お前、明日の射撃訓練を前に、なんで日常点検の資機材しか出してないんだ? 〇〇のゲージや防護用具はどうした?」

先輩の、低く、冷めた声が響いた。

射撃訓練。 その単語が耳に飛び込んできた瞬間、私の脳内を占めていた明日の高揚感が、文字通り一瞬で消し飛んだ。心臓がドクンと大きく跳ね上がる。

(しまっていった。今日は……日常の点検じゃない。射前点検だ……!)

頭の中の霧が一気に晴れると同時に、全身からサーッと血の気が引いていくのが分かった。 頭では分かっていたのだ。明日が訓練なのだから、今日やるべきは射前点検以外にあり得ない。それなのに、いつもと違う特別な標的に心を奪われ、舞い上がってしまったせいで、一番大事な「今日、足元で行うべき点検内容」が完全に抜け落ちていた。

射前点検には、実弾を発射するにあたって不可欠な精密計測ゲージや、万が一の不発に備えた特殊な用具など、日常点検とは全く違う資機材が必要になる。しかし、私の足元に転がっているのは、日常使いの、何の変哲もない工具ばかりだった。

「すみません、日常点検の準備をして、そのままかかってしまいました……」

蚊の鳴くような声で絞り出した私に対し、先輩は激しく怒鳴り散らすことはしなかった。ただ、深く、呆れたようなため息をつき、静かにこう言った。

「しっかり確認しろよ。お前の勝手な思い込みで、全員の時間が無駄になるんだぞ」

怒号よりも、その静かな言葉の方が、射手としての私のプライドを粉々に打ち砕いた。

船内往復の重み

そこからの時間は、屈辱と後悔の連続だった。 間違えて持ってきた工具や資機材を、狭い船内の急なラッタル(階段)を上り下りして元の格納庫へ戻す。 そして今度は、射前点検に必要な、重くデリケートな専用資機材を抱えて、再び35ミリ機関砲の元へと往復する。

行き交う他の乗組員たちの視線が痛かった。 「あいつ、何やってんだ?」 そんな無言の視線に晒されながら、自分の情けなさで視界が滲みそうだった。

明日という特別なイベントに目を奪われ、目の前の「今、やるべきこと」をおろそかにしてしまったツケは重かった。

結局、私のミスのせいで作業開始は大幅に遅れた。 私が資機材を揃え直している間、先輩たちの作業もストップし、船全体の訓練準備スケジュールは分刻みでタイトになっていった。 いつもならスムーズに終わるはずの作業に、その日は何倍もの時間がかかった。

物理的な時間の無駄だけではない。私が失ったのは、「あいつはもう、自分の機関砲を一人で任せられる」という、先輩たちからの貴重な「信頼」だった。

羅針盤の一針

「遠くのビッグイベントに目を奪われるな。 高揚感は、目の前の基本(足元)を狂わせる最大の罠である。」

ビジネスの現場でも、大きなプレゼンや、初めての大型案件、華やかなイベントが控えている時ほど、人間の心は浮き足立つ。頭では手順を分かっているつもりでも、高揚感によって注意力が散漫になり、普段なら絶対にしないような「基本の確認不足」や「準備不足」を引き起こす。

遠くの目標(標的)を意識することは大切だ。しかし、そこに到達するための「足元の点検」がおろそかになれば、そもそも引き金を引くことすらできなくなる。

心が高揚する時ほど、あえて一呼吸置き、手元のマニュアルと資機材を見つめ直せ。目の前の地味な基本を完璧にこなすことこそが、本番で成果(標的)を撃ち抜くための唯一の条件である。

(第9話 了)

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