カタシロからカワイイへ――殉死・埴輪・フィギュアをつなぐ1500年の“身代わり”文化
娘のぬいぐるみと堺の古墳
最近、娘が結婚して、大阪の堺市に新居を構えた。まだ行ったことはないが、堺といえば、言わずと知れた古墳の街。百舌鳥古墳群、そして大仙陵古墳──歴史の匂いが色濃く残る。
先日、上京して帰省してきた娘のカバンに、小さなぬいぐるみがぶら下がっているのを見た。
26歳の大人になった今でも、こうした“何か”を携えていることに、不思議と微笑ましさと安心を感じた。
そして、そこから考察が始まった。
もしかしてこのぬいぐるみ、“身代わり”なのではないか?
お守りのように、見えない不安を引き受け、感情を託される存在。
同時に、思い浮かんだのが「古墳」だった。
堺という土地、そしてあの大きな前方後円墳のまわりにずらりと並んだ“埴輪”たち──。
まさかと思いながら調べてみると、そこには驚くほど深い「つながり」があった。
ぬいぐるみと埴輪。
現代の娘の暮らしと古墳時代の死生観。
1500年にわたって日本人の精神を支えてきた「身代わり」文化。
血から土へ――古墳時代の革命的転換
古墳時代以前、権力者が亡くなると、その側近や従者が殉死させられる習慣があったとされる。
『日本書紀』には、生き埋めにされた人々が、昼夜泣き叫ぶ姿が描かれている。
殉死ーの系譜は、やがて武士のハラキリまで続いているのかもしれない。まあ、悲しいというか残酷な風習があった。
この残酷な風習を終わらせたのが、埴輪の登場だった。
野見宿禰?の進言により、生身の人間の代わりに、土で作られた人や馬の像を古墳の周囲に並べるようになったと言われる。(諸説ある)
つまり、「実際の命」ではなく、「象徴としてのかたち」を捧げるという、死生観に対して大きな精神的転換が起きたのだろう。
埴輪には、武人・巫女・踊り子・家・動物など、さまざまなかたちがある。
これらは、死者のための「死後の世界」を再現するように配置されていた。
物に魂を託し、かたちあるものに「役割」や「想い」を込めるという発想は、この時代からすでに始まっていたのである。
形代(かたしろ)という方法と技術
この“かたちを使った精神の表現”を、日本では古くから形代(かたしろ)と呼ぶ。
形代とは、神霊や人の魂が依りつく“依り代”のこと。
縄文時代の土偶や弥生時代の人面土器、そして古墳の埴輪へと続くこれらの像は、まさに物質に精神を宿す技術だった。
平安時代には、人形(ひとがた)を水に流して厄を祓う「流し雛」の風習も生まれる。
娘の通っていた学校でも、行事としてやっていた。
やがて雛人形、市松人形、抱き人形といった家族の身代わりーとしての人形文化が栄えたのはこうした流れだろう。
共通するのは、どれも「自分の代わり」あるいは「誰かを思うための依り代」であるという点だ。形があることで、人は自分の感情や祈りをそこに託すことができる。この感覚は、現代のぬいぐるみにも、フィギュアにも、確かに息づいている。
現代の形代――部屋の神々とバッグの守り神
いま、男子の部屋にはフィギュアが整然と並び、女子のバッグにはぬいぐるみが揺れている。
男子のフィギュア文化は、どこか埴輪に近い。
部屋という聖域の場所に飾られ、特定のキャラクターに想いを注ぐ様子は、古墳の周囲に埴輪を配置した古代人の感覚に近いものがある。
フィギュアは美であると同時に自己と他者の投影“儀式”であり、「自己表現と魂の依り代」が融合した存在となっているように思える。
一方で、女子のぬいぐるみ文化は、もっと生活に密着している。
バッグにつけられたぬいぐるみは、まるで身近な「守り神」のような存在かもしれない。
気づけば、日常の不安や寂しさを受け止めてくれる、もう一人の自分のような存在になっている。
この構造は、まさに平安時代の「人形(ひとがた)」の延長にある。
形を与えることで、目に見えないものをそばに置き、祈りを託す。この“身代わり”の力は、現代でも確かに生き続けている。
カワイイと身代わりの文化史
日本では古くから、物と人との境界が曖昧だ。
西洋では「物」と「人間」を分ける主客分離が基本だが、日本はむしろ物に人の心を宿す文化を発達させてきたと言われている。
もちろん西洋にも、聖遺物やイコン、マリア像といった霊性を帯びた物は存在する。
ただそれは、教会や宗教と結びついたものが多い。
一方、日本では、ぬいぐるみやキャラクターといった「個人」の小さな感情や願いが、物に宿る。お守りも、仏像も、そしてフィギュアも──どこかで人との関係を前提とした「身代わりの対象」になっている。
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情報の時代へ――デジタル形代の登場
今やその“形代”は、情報の世界にまで広がっている。
推しのVTuber、スマホの中のキャラ、MyGPTやAIペット──。
自分ではない誰か(何か)に想いや言葉を預けることで、癒されたり、励まされたりしている。
そういえば、橘川幸夫さんは、自らの生成AI「シビル」のぬいぐるみを作った。
そのシビルと一緒に書いた本も出版された。
これもまた、新たな時代の“身代わり”のかたちかもしれない。
形は、土から紙、木、鉄、プラスチック…変わっても「モノ」の威力は変わらない。
「心を託せるもの」をそばに置くという人間の営みは、今も私たちの日常に確かに息づいている。
おわりに――娘のカバンのぬいぐるみから
ぬいぐるみをつけた娘のカバンを見たあの日から、僕は1500年前の古墳へと時間を遡ってしまった。
そこには、血を土に置き換えた先人たちの願いがあり、土を愛で、かたちに祈りを込めてきた日本人の姿があった。
娘が日々持ち歩くそのぬいぐるみには、彼女の不安や願いが、そっと託されているのかもしれない。
──まるで埴輪のように。
私たちの文化的な感性には、モノという他者に一体性を感じる「こころのつながり」として、こうして受け継がれてきたのだろう。
モノコトフロー研究所浅沼正治 a.k.a. あしょじ
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