黄昏時のマルコ・アントニオ

   シロクマ文芸部|お題・波の音


夏の終わりは、いつも引き潮の匂いがする。

賑やかだった季節が遠くへ去っていくとき、世界は少しだけその気まぐれを露わにする。


5分遅れのバス、通知のないスマホ、そして、夕暮れ時の郵便受け。

冷たい鉄の蓋を跳ね上げ、中を覗き込む代わりに、その冷たい鉄の肌にそっと耳を押し当ててみると、驚くほど澄んだ、微かな波の音がした。


……というのはさすがに言い過ぎだけれど、それくらい、その場所はひっそりとしていた。

中は空っぽ。


いつもなら「水道修理・基本料金2000円」くらいのチラシや、ちょっとしたノイズが転がっているのに、今日は何もない。


わたしの元から言葉が引き潮のように去っていったのか、あるいは、誰かの想いがこちら側へ漂流してくる前の、静かな凪の時間なのだろうか。

ちょっと、気取りすぎたかな、なんて。
ポエティックに浸る自分に少し照れてしまった。

ふと気づくと、寄せては返す波が、いつの間にか足首のあたりまで満ちてきているような、そんな奇妙な錯覚に囚われた。


郵便受けの奥では、まだ乾ききらない潮の匂いがしていた。

部屋に戻り、キッチンのダウンライトをつける。


白いホーローの容器から、四角い水羊羹をガラスの器へと滑り込ませた。

黒く、つややかな時間がひときれ。


それは冷蔵庫の奥の方、わたしの少し偏屈な思考の底で、ゆっくりと固まっていったものだ。

スプーンを突き立てると、吸い込まれるような沈黙の応答があり、口に運ぶと、ソリッドで、ひんやりとした儚い甘さが広がる。


夏の終わりの引き潮のあとに取り残されたタイドプールを、そのまま口にしているような心地がしてくる。


そのとき、玄関のほうで「コトリ」と小さく硬い音が響いた。

「ひゃいっ」


変な声が出て、水羊羹をのどに詰まらせそうになった。

耳の奥に響いていたあの海から何かが、ここまで流れ着いたらしい。


胸をトントンと叩きながら再び扉を開け、暗い鉄の箱に手を伸ばす。

そこに引っかかっていたのは、手紙ではなく、見知らぬ異国の切手が貼られた、インクの滲んだ絵葉書が一枚。


裏面に書かれた名前には、まったく、これっぽっちも見覚えがない。

「マルコ・アントニオ……誰?」


広大な海を彷徨ううちに宛先を見失ってしまった、迷子の漂流物。

それがたまたま、わたしの住む小さな海峡ー「コーポあじさい」の、この部屋に流れ着いたのだ。


普段なら「誤配です」と突き返すところだけれど、今のわたしは水羊羹を食べて少し優しくなっていた。

なので、浜辺の貝殻を拾い上げるような心持ちで、しばらく机の端に置いておくことにする。


いつだったか、誰かが「これペーパーウエイトに丁度よくない?」と置いていった、海で拾った丸い石が役に立った。

ガラスの皿の上では、食べかけの水羊羹が、静かな夜の海のように黒く光っている。


「マルコ、届いてないよ、これ」

異国の見知らぬ誰かに小さく話しかけなが
私はもう一度、去りゆく季節の破片をスプーンですくい上げた。

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        あとがき

この短い物語は、何か大きな出来事を語るためのものではありません。
わたし自身、まだ若いかった頃、一人暮らしをしていたときのことを思い出しながら書きました。
夕暮れ時にふと立ち止まって、ポエティックな気持ちでちょっと黄昏れてみては、そんな自分に少し照れてしまう。
そして、そういう時に限って、郵便受けの底の暗がりや、水羊羹のひんやりした冷たさや、耳の奥で鳴る微かな海の気配のような、普段は見過ごされがちな感覚がそっと手元に残ったりします。
空っぽの郵便受けは、寂しさという欠落であると同時に、まだ何かが起こる前触れの、愛おしい静けさでもあります。


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