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『雨も降らぬに 袖しぼる』第6章 最後の小那比茶

『雨も降らぬに 袖しぼる』

第6章 最後の小那比茶

 上総介には、郡上の町そのものを変えようとする仕事があった。

 藩校の潜竜館、寺子屋の普及、相撲場の造営。ひとつひとつは別々の仕事のように見えて、根は同じだった。人が集まれば物が動く。物が動けば商売が生まれる。商売が生まれれば、人の暮らしが豊かになる。その根本を、上総介は町人に身をやつして歩き回りながら、ずっと考え続けていた。

 そしてある夜、お千に言った。

「盆踊りを、町に出す」

 お千は意味が分からなかった。

「今は寺の境内でやっとるやろ。あれを、町の通りに出したい」

「通りで踊るんですか」

「そうや。人が集まる。周りの村からも来る。宿が要る、飯が要る、土産が要る。町全体が祭りになる」

 お千は少し考えた。

「反対する人も多いでしょう」

「多い」

 上総介はあっさり言った。

「それでも、やる。やってみんと分からんことは、やってみるしかない」

 これがこの人のやり方だ、とお千は思った。決めたら動く。迷わない。しかし独りよがりではなく、何度も町の人たちと話し合って、反対意見を聞いて、それでも前へ進む。

 準備には何ヶ月もかかった。

 町のあちこちで寄り合いが開かれ、上総介が出向いて話をした。反対の声は根強かった。神事を通りに引き出すとは何事か。風紀が乱れる。よそ者が増えれば揉め事になる。一つ一つの声に、上総介は正面から向き合った。怒鳴り返さず、諦めさせようともせず、ただ丁寧に話した。

 お千はその話を、勇から聞くことが多かった。

「上総介様は昨夜も遅うまで、大将んとこで話し合っとられたそうや」

 勇は火入れの手を動かしながら、どこか誇らしそうに言った。郡上藩の茶師として、上総介が郡上を良くしようとしていることへの、職人としての共感があるのだろう、とお千は思った。

「大成功せんと困りますね」

「ああ。失敗したら俺も肩身が狭い。こっちへ来ないかと声をかけてくれたのは上総介様やからな」

 勇は少し笑った。お千も笑った。

 盆が来た。

 初めて町に出た郡上おどりの夜は、誰も予想しなかった賑わいになった。

 石畳に下駄の音が溢れた。周りの村々から人が押し寄せ、宿は軒並み埋まり、茶屋に行列ができた。篝火が連なり、太鼓が打ち、三味線が鳴り、笛が夜空に糸を引いた。輪が大きくなり、また大きくなり、町全体が一つの踊りの場になった。

『すべて政治は 家老に任せ 今日も明日もと 栄華にふける』

 お千も踊った。

 この夜のことは、ずっと覚えていようと思った。上総介が何ヶ月もかけて作った夜だ。この石畳を踏む自分の足が、この夜の一部だ。下駄の音が、何百人もの音に混じって、どこか遠くへ流れていく。

 踊りながら、お千は泣きそうになった。嬉しいのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。ただ、この夜が美しかった。

 翌年の春、岸劔神社の裏で大きな工事が始まった。

 相撲場だ。

 石垣を積み、土地を平らに整地して、土俵を作る。大規模な仕事だった。普請の音が朝から晩まで続き、職人たちの声が神社の裏から聞こえてきた。お千が備前屋への道で通りかかると、石を運ぶ男たちの列が見えた。

 上総介がその工事を直接監督していることは、すぐに町中に広まった。

「お城の中老様が、自ら土俵の位置を指図しておられた」

 そんな話が出回った。上総介が百姓の出だということも、この頃には多くの人が知っていた。だからこそ、この人が作る場所には、どこか親しみがあった。

 工事が終わったのは初夏のことだった。

 こけら落としには、相撲の巡業が呼ばれた。

 その日、お千は勇たちと連れ立って見物に行った。備前屋のなっちゃんも大将も来た。四人で並んで、土俵を囲んだ。

城山相撲場

『通り合わした 天下の力士 花も実もある 松山関と』

 力士たちが土俵に上がると、どよめきが起きた。郡上の人間には見慣れない、大きな体だ。相撲自体を見るのも初めてという町人が多く、子どもたちは目を丸くして見ていた。

 仕切りが長かった。二人の力士が向かい合い、睨み合い、土を掴み、また立ち上がる。その緊張が、見物人にも伝わってきた。

 勝負は一瞬だった。

 ぶつかった音が、境内に響いた。大きい方の力士が、電光のような動きで相手を寄り切った。どっと歓声が上がった。

「すごい」

 お千が声を出すと、勇が隣で頷いた。

「ほんとに、すごいな」

 なっちゃんが手を叩いた。大将が「もう一番」と叫んだ。

 上総介が少し離れた場所から、腕を組んで土俵を見ていた。静かに立っている。あの目だ、とお千は思った。何かを見るとき、すべてを静かに受け取っているような、あの目。お千と目が合った。上総介はかすかに頷いた。お千も頷いた。しかし今日はお武家様、言葉を交わすことはなかった。

 この一年で作ったものが、ここにある。

 そういう顔だった。

 さあここからは、町民や家臣も参加する相撲大会だ。

 賞金は「名誉」だけ。それでも大勢の参加者が集まった。勇も、大将も、上総介も出た。着物の裾を帯にまくり上げ、上半身裸になる。みんな同じ姿だ。藩の中老も、茶師も、料理屋の大将も、土俵の上では関係ない。

 大将は惜しくも一回戦で敗れた。悔しそうな顔で戻ってきたが、なっちゃんに笑われてむくれていた。

 小柄な勇の得意技は、低く頭を付けての押し相撲だ。重心を落として相手の懐に入り、押して、押して、押して、押して、押し続ける。その粘り強さで、気づけば決勝まで来ていた。

 上総介はがっぷり組んでの右上手投げだ。相手の帯をがっしりと掴み、圧倒的な体の使い方で次々と勝ち上がった。百姓の出だけあって、体の芯が強かった。こちらも決勝まで進んだ。

 さあ決勝戦は、勇対上総介だ。

 境内がしんと静まった。

「はっけよーい、のこった、のこった」

 上総介が上手を取った。圧倒的に有利な体勢だ。勇は頭を付けて必死に堪える。上総介が投げを打つ。勇がこらえる。また打つ。またこらえる。大相撲になった。見物人から声が上がり、巡業の力士たちまで身を乗り出した。

 お千は声に出せなかったが、やはり上総介の応援だった。早く決まれ、と思っていた。しかし勇が必死に堪えるのを見ているうちに、しだいに胸が動いた。勇さんも、負けないで。二人とも、負けないで。

 上総介が渾身の力で投げを打った。その瞬間、勇は上手をすっと切った。上総介の体が泳いだ。その一瞬を勇は逃さなかった。渾身の力で押した。押した。押し出した。

「やったー」

 なぜかお千は声を上げていた。

 自分でも驚いた。隣のなっちゃんが、すっとお千の顔を見た。何も言わなかったが、その目が少し笑っていた。お千は少し赤くなった。

 土俵の外で、上総介が笑っていた。負けた顔ではなかった。勇の勝ちを清々しく受け取っている、そういう顔だった。

 郡上おどりの夏が来た。

 町に出た二度目のおどりは、昨年より大きくなっていた。来る人が増え、踊りを覚えて参加する者が増え、見物だけしていた村人が輪に入るようになった。上総介はこの夜も、町人姿でその光景を見ていた。

 お千は踊りながら、その姿を目の端に捉えていた。あの人が作った夜の中で、今自分は踊っている。この下駄の音も、この篝火の明かりも、あの人が郡上に残したものの一つだ。

『踊り助平が 今来たわいな わしも仲間に しておくれ』

 太鼓が打った。三味線が鳴った。

 お千は踊りながら、ふと思った。これはいつまでも続くのだろうか。この踊りは。この夜は。この町は。上総介がいなくなっても、この輪は回り続けるのだろうか。

 きっと、続く。この人はそういうものを作った。

 そして、それが終わりの始まりだということも、お千には分かっていた。

 秋になる頃、上総介から話があった。

 長屋の囲炉裏の前で、いつものように二人でいるとき、上総介が静かに言った。

「来年の初夏、青山様の参勤にお供をする。江戸に戻る」

 お千は茶碗を両手で包んだまま、少しの間、何も言わなかった。

 分かっていた。分かっていたことだった。次の参勤では上総介が江戸に行くことは、ずっと前から決まっていた。ただ、それが「来年の初夏」という言葉になって、目の前に置かれると、重さが違った。

「そうですか」

 お千は言った。声が、少し平らだった。

「江戸に行ったら、当分は戻れん。家老の職が続く限り」

「はい」

「お前のことは、ずっと」

 上総介はそこで止まった。続けなかった。

 お千も続きを求めなかった。続きが何であれ、変わることは何もないと分かっていたから。変わらないのは、過ごした時間だけだ。この三年が、なかったことにはならない。

「最後に、小那比のお茶を上田家でいただきたい」

 上総介が言った。

「上田家での最初の一杯が、この旅の始まりやった。最後も、あの場所で」

 お千はゆっくり頷いた。

 囲炉裏の火が、静かに揺れた。

 翌朝、お千は日下部茶舗へ走った。

 勇はすでに仕事を始めていた。茶葉の具合を確かめながら、焙炉の準備をしていた。

「勇さん」

 勇は振り返った。お千の顔を見た。何も言わなかった。

「来年の初夏、上総介様が江戸へ戻られます。上田家での給仕に、最後の小那比茶を出したいんです」

「分かった」

 勇は短く言った。

「どんな茶を出したい」

「一番茶、いいお茶を」

「そのつもりや」

 それだけだった。

 勇は竈の火加減を確かめ、新しい薪を入れた。お千はしばらくその背中を見ていた。こういうとき、この人は何も言わない。しかし何もしないわけではない。一番いい茶を出すために、今日から準備を始める。それがこの人のやり方だ。

 お千は深く頭を下げた。勇は振り返らなかった。
 茶葉を揉んで、揉んで、揉んで、揉んで、揉み続けた。

 紅葉が色づこうとした頃、上総介が言った。

「お千、休みが取れぬか」

「はい、郡上おどりが終わったら休みをいただいております」

「下呂へ行かぬか」

 お千は体中が熱くなった。

「嬉しゅうございます」と言うのが精一杯だった。

『おぼこ育ちの いとしさは しめた帯から たすきから ほんのりこぼれる 紅の色 燃える想いの 恋心』

 出発の朝、お千は上総介より遅れて出かけた。八幡の町を出るまでは人目が気になる。遠くの上総介の後を追った。上総介の影が、だんだん大きくなった。

『別れ別れて 歩いておれど いつか重なる 影法師』

 堀越峠の頂上では、赤や黄色の山々が二人を迎えてくれた。

『どっこいしょと 堀越を越えて 行けば宮代 一夜とる』

 下呂温泉の高級旅館は、お千にとってためになることばかりだった。温泉に入る、美味しいご飯と酒をたしなむ。夢のお国だ。上総介はそれを見越して、これからの私のためになることを考えてのことだろう、とお千は思った。

『寝たか寝なんだか まくらに問やれ まくら正直 寝たと言うた』

 夢の国にも終わりは来る。帰りは高山周りだ。郡上藩に入ると気良に寄った。ここは馬の産地だ。あの源頼朝も所有していたという名馬「磨墨」を出した里でもある。上総介は来年の江戸への参勤で乗る馬を買い付けに来た。

『郡上は馬どこ あの磨墨の 名馬出したも 気良の里』

 冬を越え、春が来た。

 茶畑の新芽が動き始め、空気に青い香りが混じるようになった頃、お千は丁寧に茶を摘んだ。いつもより一つ一つ丁寧に、やわらかな新芽だけを選んで。蒸して、揉んで、乾かした。揉む手に力が入りすぎないよう、けれど心を込めて。乾しのときは天気を何度も確かめた。

 この荒茶が、最後の小那比茶になる。

 そう思いながら仕上げた荒茶を、お千は両手で抱えて日下部茶舗へ持っていった。

 勇は受け取ったとき、いつもより少し長く、茶葉の香りを嗅いだ。

「ええ荒茶や」

「おっかさんも手伝ってくれました」

「そうか、久しぶりに緊張するな」

 勇は和紙を広げ、焙炉に火を入れた。いつもの仕事が始まった。しかしこの日の勇の手は、いつもより静かだった。団扇の動きが、いつもより細かかった。温度の確認が、いつもより丁寧だった。

 仕上がった茶を、勇はお千に渡す前に、自分で一煎淹れた。湯を注ぎ、茶碗を持ち、一口飲んだ。

 しばらく黙っていた。

「これでいい」

 ただそれだけ言った。

 お千は茶を受け取った。手が、少し震えた。

「勇さん」

「なんや」

「ありがとうございます」

「礼はいらん」

 勇はそっぽを向いたまま、次の茶葉の準備を始めた。お千はもう一度頭を下げ、茶舗を出た。

 お千は前を向いて歩き出した。

 参勤の日が来た。とうとう来てしまった。

 八幡の町は、いつもの活気とは少し違う、引き締まった空気に包まれていた。行列は早朝から整列を始め、金襴の羽織が朝日に光った。沿道に人が出て、子どもが手を振った。

 上田家での最後の休憩。

 お千は夜明け前から上田家に入り、広間を整えた。床の間の花を替え、行灯の油を確かめ、美濃焼の茶碗を並べた。茶の準備を整え、一度、手を止めた。

 三年前の自分が、この同じ場所で同じ茶碗を手に持ち、震えていた。

 今日も震えるだろうか。

 三年前と同じように、上総介が先に到着した。気良で買い付けた馬から降りて広間へ入ってきた。

 向き合った。

 上総介の顔を、お千は正面から見た。この三年で、この顔の何を覚えたのか。目の色、声の低さ、黙っている時の姿勢、笑う時のわずかな表情の変化。全部、覚えている。全部、これから遠くなる。

「茶を一杯、いただけますか」

 上総介が言った。三年前と、同じ言葉だった。昨日のように蘇った。

 お千は頷き、急須を手に取った。指が、震えなかった。

 三年前は震えた。今日は震えなかった。それがどういうことかは、うまく言葉にならなかった。

 茶を注いだ。湯気が、静かに上がった。勇が仕上げた、最後の小那比茶だ。

 上総介は茶碗を両手で受け取り、ゆっくりと口に運んだ。一口、含んだ。

 少しの間があった。

「香りが、澄んどる」

 最初と同じ言葉だった。

 お千は俯いた。

 最初と同じ言葉だった。三年という時間を挟んで、まったく同じ言葉だった。この人はきっと、分かっていてそう言ったのだ。始まりと終わりを、同じ言葉で包んでくれた。

 お千は顔を上げなかった。上げたら、泣いてしまいそうだった。

「美味い、うんまい茶や」

 上総介がもう一口、飲んだ。

 行列が上田家を出発した。

 金の弩標が先頭に立ち、家臣たちが続き、青山様の駕籠が進んだ。上総介は馬に乗り、行列の中に入った。

 お千は上田家の前で、女中たちと一緒に見送った。

 行列が動き始めた。石畳に蹄の音が響いた。旗が揺れた。金襴の羽織が、朝の光の中に沈んでいく。

 旗が消えた。

 蹄の音が遠くなった。

 やがて、何も見えなくなった。

 お千は立っていた。女中たちが「ご苦労様でした」と声をかけ合い、上田家の中へ戻っていった。お千だけが、そこに残った。

 動けなかった。

 体が、動けなかった。

 笑って見送った。凛と立って、最後まで女中として役目を果たした。それは本当だ。しかし体の中に何かが詰まっている。行列が消えた方向を、まだ見ている。目が、まだそちらを向いている。

 お千は一歩、踏み出した。

 裏へ、と足が向いた。上田家の土蔵の裏。人目に触れない、日当たりの悪い、静かな場所。

 土蔵の壁に、手をついた。

 その瞬間、崩れた。

 堰が切れた。

 声が出た。声が出てから、泣いているのだと分かった。こんなに大きな声で泣いたことが、あっただろうか。嗚咽が出た。膝が折れた。土蔵の壁だけが支えだった。手のひらが、壁の冷たさを感じた。春なのに、土蔵の石は冷たかった。

 涙が止まらなかった。

 上総介様。

 高雄歌舞伎の夜が浮かんだ。幕間の雨魚が美味かった。愛宕山の桜の下で、花びらをひとつ払ってもらった。川原で鮎を食べたあの夕方、「笑った顔が眩しい」と言われた。雪の夜、足跡が残ることを知りながら来てくれた。相撲場のこけら落としで、四人並んで土俵を囲んで笑った。郡上おどりが町に出た夜、あの篝火の連なりを踊りながら見た。夢のようだった下呂温泉。小那比の茶の香りと、囲炉裏の火と、あの静かな長屋の時間。

 全部、あった。
 全部、本物だった。

 雨も降っていない。晴れた春の朝だ。なのに袖が濡れていく。涙が落ちて、袖に染みていく。拭っても拭っても、また溢れてくる。絞ったら、一滴ではきかないだろう。

 お千はしばらく、土蔵の壁にもたれたまま泣いた。

 立ち上がれなかった。立ち上がろうとすると、また波が来た。胸の奥から、また溢れてきた。何度も、何度も。上総介様、と心で呼ぶたびに、また崩れた。この人のことを、これからどこへ向けて思えばいいのか、分からなかった。江戸の方角はどちらか。この空の向こうか。

 どのくらい時間が経ったのか、分からなかった。

 お千はゆっくりと立ち上がった。袖で顔を拭いた。空を見上げた。春の空は高く、青かった。どこかで鳥が鳴いていた。長良川の水音が、遠くから聞こえた。

 お千は袖を見た。涙で濡れた浴衣の袖。絞れば、一滴どころではないだろう。

 
 それからの年月は、静かに過ぎた。

 母のお芳は翌年の冬に逝った。長い患いの末だったが、最後は穏やかな顔をしていた。お千は一人になった。しかし一人でも、茶畑だけは守った。春になれば茶を摘み、蒸して、揉んで、荒茶を仕上げた。日下部茶舗へ持っていけば、勇が受け取ってくれた。

 勇との関係は、変わらなかった。

 変わらないまま、変わっていった。求婚の話は、二人の間でいつの間にか消えた。消えたというより、形を変えた。お千が頼れる大人として、勇はずっとそこにいた。火入れをして、茶を渡して、困ったことがあれば「俺にできることがあれば言え」と言った。

 お千はそれで十分だった。

 勇は、相撲の優勝を見ていた呉服屋のお美乃に見初められ、ほどなく所帯を持っていた。

 年月が経ち、お千は小那比の里の古老になっていった。茶摘みの手は衰えなかった。一芯二葉。丁寧に、丁寧に。父が言っていた言葉を、今も守っていた。

 盆の夜。

 郡上おどりの輪の中に、白髪のお千がいた。

 足はもう若い頃のようには動かない。しかし手の所作は、昔のままだった。かわさきの旋律が始まると、体が自然に動いた。長い月日の間に、踊りは体の一部になっていた。

『郡上の八幡 出てゆく時は 雨も降らぬに 袖しぼる』

 歌詞が聞こえた。

 お千は踊りながら、遠い春の朝を思った。土蔵の裏で、袖を絞るほど泣いたあの朝を。行列が消えた方向を、いつまでも見ていたあの朝を。あれから何十年が経った。上総介様は江戸でどうされているか。もう会うことはないだろう。

 しかし踊りは続いている。

 あの人が町に出した踊りが、今もここで生きている。篝火が連なり、下駄が石畳を打ち、老いも若きも輪になって踊っている。岸劔神社の裏には、あの人が作った相撲場がある。寺小屋、藩校潜竜館、町のあちこちに、あの人が残したものがある。

 それが、お千の誇りだった。

 輪の中で誰かが言うのを、お千は耳にした。

「あの歌はな、昔の女の話やと言われとる。雨も降らぬのに泣いて、袖を絞った女の話やと」

 別の誰かが聞いた。

「どんな女やったんやろ」

「小那比の娘やったそうや。備前屋で働いて、上総介という武士に惚れて」

 お千は踊り続けた。

 聞こえているのかいないのか、顔には出なかった。ただ、手が動いた。足が動いた。

 下駄の音が、石畳に鳴り響いた。

 コロコロ、コロコロ。カラン、コロン。

 四百年、この町が踊り続けてきた音。

 その始まりに、お千はいた。

終章 未来を旅する円空 へ続く

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

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