『雨も降らぬに袖しぼる』終章 未来を旅する円空
『雨も降らぬに袖しぼる』
終章 未来を旅する円空
老人の話が終わった。
夕暮まで鮎かけでにぎわった吉田川は相変わらず流れている。虫が鳴いている。河原に点々と並んだカンテラの炎が、川風にゆらゆらと揺れている。けれど三太郎には、何も見えていなかった。
涙が、止まらなかった。
いつから泣いていたのか分からない。下呂温泉か一番茶か、お千が上総介を見送った場面だったか。上田家の土蔵の裏で、雨も降らぬのに袖を絞った場面だったか。気づいたときには頬が濡れていて、拭っても拭っても、また溢れてくる。踊り助平の三太郎が、河原の岩の上で泣いている。それがおかしいような気もしたが、笑う気にもなれなかった。
江戸時代の話だ。会ったこともない、名前も定かでない女の話だ。なのになぜ、これほど胸が痛むのか。
三太郎は袖で目を拭い、ようやく顔を上げた。
そのとき、気がついた。
老人の手が、動いていた。
話しながら、いつの間にか。老人は膝の上に小さな木の切れ端を乗せ、懐から取り出した小刀で、ごく静かに、ごく自然に、何かを彫り続けていた。暗闇の中で、カンテラの薄い炎だけを頼りに。しかし迷いは一切なく、刃が木に入るたびに、白い削り屑が膝の上に落ちた。
「何を、彫っとるんですか」
三太郎は声をかけた。
老人は答えなかった。ただ、彫り続けた。
三太郎は仕事のことを思った。自分は今、円空の湯という温泉施設に勤めている。円空。あの円空だ。江戸時代初期、全国を旅して歩き、行く先々で仏像を彫り続けたという漂泊の僧。粗削りながら、見る者の心を打つあの独特の仏たち。郡上にも円空の縁の地がいくつかある。そういえばこの老人、着ているものといい、言葉の古さ。
「あなたは、まさか」
言いかけて、三太郎は口をつぐんだ。
老人が、ふっと顔を上げた。
初めて、こちらを正面から見た。カンテラの炎が、その顔を橙色に照らした。目が、深かった。年齢の読めない顔に、途方もなく長い時間を見てきたような、静かな目が光っていた。
「円空の湯、に勤めとるんか」
三太郎はこくりと頷いた。
老人は、すこし嬉しそうな顔をした。それまで無表情だった顔に、ほんのわずか、温度が宿った。
「仏やお(だよ)」
そう言って、老人は手の中にあるものを、カンテラの傍らにそっと置いた。
小さかった。手のひらにも余るほど小さな、木の欠片。けれどそれは、確かに仏の姿をしていた。おおまかな輪郭しかない。顔も、手も、衣の皺も、ほとんど省略されている。なのになぜか、穏やかな笑みがそこにあるように見えた。木端仏。円空仏と呼ばれるあの独特の、粗削りの中に宿る温かさ。
三太郎は息を呑んだ。
暗闇の中で、目が見えないはずの暗さの中で、この老人はこれを彫っていた。迷いなく。当たり前のように。
やっぱり、この人は。
「円空様」
言葉が口をついて出た。
老人は否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、川のほうに顔を戻した。その横顔に、かすかな笑みの余韻が残っていた。
三太郎は震える手で、首に巻いていた踊り手ぬぐいを解いた。丁寧に広げ、その小さな仏を包んだ。角を合わせ、折り目を正し、帯にしっかりと結んだ。手が震えているのに、指は自然と動いた。
美濃弁。古い郡上弁だと思っていたが、違う。美濃の言葉だ。円空は美濃の出だという。ならば、納得できる。
三太郎はもう一度、老人の横顔を見た。
炎が揺れた。
顔を上げ、三太郎は袖で目を拭った。
老人がいなかった。
円空様が消えた。
いつの間に。気配もなく。カンテラの炎だけが、何事もなかったかのように揺れている。さっきまで老人が座っていた岩の上には、白い削り屑が数片、夜風に揺れながらも散らずに残っていた。
三太郎は立ち上がった。膝ががくがくした。河原を見渡した。人影はない。石段の上も、橋の上も、見える範囲に老人の姿はどこにもなかった。
狐につままれた、とはこういうことか。
帯の結び目に手をやった。手ぬぐいの感触がある。中に固いものがある。確かにある。夢ではない。
三太郎はゆっくりと息を吐き、石段へ向かって歩き出した。
誰にも言えない。
踊りの輪に戻ると、音楽が迎えた。
太鼓が打ち、三味線が鳴り、笛が空に糸を引いた。輪の中の人々は踊り続けている。汗をかいて、笑いながら、それぞれの夜を踊っている。三太郎は輪の外から、しばらくその光景を眺めた。
加わろうと思った。足が動いた。自然と輪に入った。
数曲、踊った。「春駒」を踊り、「三百」を踊った。手が動き、足が動き、腰が揺れた。体の中の何かがほどけていくような感覚があった。踊りとはそういうものだ、と三太郎はいつも思う。頭で考えるより先に、体が覚えている。四百年、この町が踊り続けてきた記憶が、足の裏から入ってくる。
そして、旋律が変わった。
三味線の音が、すこし低く、ゆったりとした呼吸になった。笛の音が細く伸びた。空気が変わった、踊り手の心の高鳴りが聞こえた。
『ちゃんちゃんチャカチャカちゃんちゃんちゃん、ぎっちょんちょん、ぎっちょんちょん』
「かわさき」だ、と三太郎の体が分かっている。
一気に江戸時代へ飛んだ。
『郡上のなあ』
唄い手の声が、夜に広がった。体に染みてくる。
『八幡出てゆく時は』
三太郎の目から、涙が溢れた。
止まらなかった。拭わなかった。拭う気になれなかった。踊りながら、ただ泣いた。足は動いている。手は動いている。体はちゃんと「かわさき」を踊っている。なのに涙だけが、止まらない。
『雨も降らぬに 袖しぼる』
今夜初めて、この歌詞が自分のこととして聞こえた。
雨も降らぬのに。どこへも行かないのに。別れてもいないのに。それでも泣けてくるということが、あるのだ。四百年前に生きて、四百年前に別れて、涙を絞った女の話を四百年前の老人から聞いた。
これほど胸が痛むということが、あるのだ。
踊り助平の三太郎が、輪の中で泣きながら踊っている。
上田家の土蔵の影で泣いている、お千が視える。
止まらぬ涙で仕方なく、三太郎は輪を外れた。
今夜泊まる備前屋へ向かおうと思った。すこし休めば落ち着くだろう。宮ケ瀬橋を渡り、石畳の道を歩き出した。
涙がまだ滲んでいた。拭わずに歩いた。
そのとき、景色が変わった。
いや、正確には……滲んだ。
目に残る涙越しに見た街並みが、ぼんやりとした輪郭の中で、何か別のものに見えた。電灯の明かりが消え、石畳の感触が変わり、軒の形が、屋根の高さが、道の広さが、見慣れたものとどこか違う。江戸の町並みを描いた古い絵図で見たような、木と土と瓦だけの、そんな景色。
三太郎は立ち止まり、袖で目を拭った。
もとに戻った。いつもの八幡の夜だ。電柱がある。舗装された道がある。遠くに自動販売機の明かりが見える。
気のせいか。
また歩き出した。また、涙が滲んだ。また、街が古くなった。
三太郎は試すように、袖を当てて、また離した。拭えば現代に戻る。滲ませたままにすれば、古い町になる。何度か繰り返した。そのたびに景色が行き来した。
これは。
お千の話で、もらい泣きをした目で見ると、四百年前が見える。
馬鹿げた話だ。そんなことがあるはずがない。しかし今夜は、河原で円空様に会ったのだ。帯の中には、たった今彫られた円空仏がある。もう常識の外に出ている。何を今さら、と三太郎は思った。
備前屋の少し手前で、三太郎は袖を顔から離した。滲んだ視界のまま、歩いた。
そのときっ、見えた。
備前屋の裏口から、人が出てきた。
女だった。髪を高く結い上げ、藍色の浴衣を着ている。帯をきりりと締め、足元の下駄をカラッカラッカラッと鳴らしながら、宮ケ瀬橋の方向へと急ぎ足で向かっている。
三太郎の足が止まった。
その後ろ姿を、目で追った。
誰だろう、と思う前に、分かった。体が分かった。今夜、老人の話の中で何度も聞いた名前。小那比の里から茶を運んで、備前屋の宴席で給仕をして、身分の違う上総介と言葉を交わして、上田家の土蔵の裏で泣いた、あの女。
お千だ、藍染の浴衣を着ている。
確信があった。根拠はなかった。それでも確信があった。
三太郎は思わず、袖を目に当てた。
はっきり見ようとしたのだ。涙を拭えば視界が戻る、と思ったのだ。
……消えた。
裏口から橋へと向かう道に、人影はなかった。石畳が夜の光の中に広がっているだけで、下駄の音もなく、浴衣の裾もなく、誰もいなかった。
「しまった」
三太郎は小さく言った。
拭ったら消えた。分かっていたのに。もう少しだけ、そのままにしていれば……。
後悔は一瞬で、次の瞬間に、遠くから音が聞こえた。
踊りの喧騒の向こうから。聞こえるはずのない距離から。それでも確かに、耳に届いた。
『今夜逢いましょ 宮ケ瀬橋で 月の出る頃 上がる頃』
宮ヶ瀬橋へ向かったのか。
遠くて、風に紛れそうで、不思議だそれでも確かに聞こえた。
三太郎は動けなかった。
東殿(とうど)山の方向を見た。月が出ていた。吉田川の水面に、細い月の光が落ちていた。
『東殿山から 覗いた月を 写す鏡は 吉田川』
備前屋の大戸口を入った。
玄関の上がり框に腰掛け、三太郎は帯の結び目を解いた。手ぬぐいの包みを丁寧にほどいた。

中から、木端仏が出てきた。
明かりの下で見た。
震えた。
さっきまで新しかった。白木の削り屑が飛んでいたのを見ていた。彫りたてのはずだった。なのに今、手の中にある仏は、表面が薄く黒ずんでいた。木目の奥に時間の色が入り込み、角が僅かに丸くなり、何十年、いや何百年と人の手に触れてきたもののような、そんな重さと色艶を持っていた。
数百年、経っていた。
おそらく四百年。
ついさっき、彫られたものが。
三太郎の手が、小刻みに震えた。円空仏を両手でそっと包み、胸の前で抱えた。
老人の顔が浮かんだ。カンテラの炎に照らされた、あの深い目が。
「仏やお」と言って、すこし嬉しそうにした、あの一瞬が。
円空様だったのだ。やはり、そうだったのだ。
全国だけではなく、未来までも旅をしているのか。
……。
「おかえりなさい、どうぞ」と女将の、なっちゃんが帰る早々お茶をだしてくれた。相当疲れて見えたのだろう、流石の女将だ。
江戸時代を旅してきたのだ、無理もないか。
一口、含んだ。
「香りが、澄んどる」
思わずあの言葉が口をついた。
この香ばしく穏やかな味、お千が上総介のために、摘んで、蒸して、揉んで、乾した。
勇が手揉みした。
小那比茶だ。
飲み干した。三太郎は立ち上がった。
円空仏を手ぬぐいに包み直し、今度は浴衣の胸元へ大事に入れた。帯を締め直し、下駄を履いた。
円空仏に手を当てた。
お茶と仏で心から癒された。
力が湧いた。踊りに戻ろうと思った。
夜はまだある。朝まで踊るには、たっぷりと時間がある。
備前屋を出て、石畳の道を歩いた。踊りの音が近づいてきた。太鼓の音、三味線の音、笛の音、そして下駄の音。数え切れないほどの下駄が、夜を叩いている。
宮ケ瀬橋のたもとで、格子の浴衣を着た男が吉田川を眺めていた。
カラッカラッカラッと後ろから、藍染の浴衣を着た女が追い越してゆき、男のもとへいった。
横顔が見えた、満面の笑みを浮かべている。
三太郎は思わず立ち止まった。
お千と上総介もみえる。良かった満面の笑みだ。

『月の出る頃 上がる頃』
月を視た。ちょうど願蓮寺の山門の真上にある。三太郎は思った、四百年前、この時間にこの場所で待ち合わせをしたのだろう。
『郡上の八幡 出てゆく時は 雨も降らぬに 袖しぼる』
袖を見た。
踊り続けた浴衣の袖。
涙を何度も拭った袖。
さっきお千を見逃した袖。
まさかと思って、絞ってみた。
一滴。
踊下駄の鼻緒に。
ポトッ。
『もはやかわさき やめてもよかろ 天の川原は 西東』
『雨も降らぬに袖しぼる』
完
