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『雨も降らぬに袖しぼる』第2章 小那比の里の娘と茶師

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

『雨も降らぬに袖しぼる』

第2章 小那比の里の娘と茶師

 老人の声が、川音に溶け込んでいった。

 三太郎はそれを聞きながら、気づいたときには別の場所にいた。河原の岩の感触が消えていた。缶ピーの炎も、太鼓の遠音も、虫の声も。代わりに広がってきたのは、朝霧の匂いと、山の静けさと
 小那比の茶の香りだった。

 江戸時代初期のある一日。長良川を越えた小那比の里は、まだ朝の静けさの中にあった。

 茶の香りが、朝霧に混じっていた。

 山の端がほんのりと白む頃、お千はもう畑の中にいた。鶯の鳴き声に耳を澄ませながら指先で、やわらかな新芽を摘む。一芯二葉。小さな葉を、丁寧に、丁寧に。急いでもいけない。雑にもいけない。父が言っていた。茶葉は気持ちを知っとる、と。

 お千が生まれたのは、この小那比の、百姓の家だった。

 兄がいた。しかし兄は生まれてすぐに逝った。母のお芳は、お千を産んでから体の具合が悪くなった。もともと丈夫なほうではなかったが、お千が物心ついた頃には、重い仕事は何一つできなくなっていた。そして父の小次郎も、お千がまだ幼いうちに、この世を去った。

 母ひとり、子ひとり。
 それが、お千の家のすべてだった。

 不運が重なったと、里の者たちは言った。しかしお千は、嘆く間もなく育った。嘆く時間があれば、畑を耕した。田んぼの水を見た。茶葉を摘んだ。母の代わりに、家のことを一通りこなせるようになった頃には、もう十六になっていた。

 父が残したものが、一つある。茶だ。

 小次郎は生前、お茶の栽培に並々ならぬ熱を注いでいた。美濃の白川まで足を運び、腕のよい栽培師から種を分けてもらって帰ってきたこともある。「この種が、うちの宝になる」と言って、大事に大事に育てた。その言葉は、嘘ではなかった。小次郎の茶は評判を呼んだ。香ばしく、穏やかで、口に含むと里山の朝霧のような清涼さがある。

『郡上はよいとこ よい茶ができる 娘やりたや お茶摘みに』
 小那比の茶は一目置かれるようになった。

 父が逝ったあとも、その茶畑だけは守った。女手だけでは限界があったが、母が床についている日も、お千は畑に出た。小さな手が、少しずつ大きくなっていった。

 茶仕事は、摘むだけでは終わらない。

 摘んだ葉をその日のうちに蒸す。蒸し上がった熱い茶葉を、むしろの上に広げて揉む。何度も、何度も。手のひらで押して、転がして、また押す。熱さで手が赤くなる。慣れない頃は、しょっちゅう火傷をした。揉み終えたら、今度はむしろに薄く広げて乾かす。乾いたものが、荒茶だ。

 荒茶は、そのままでは売り物にならない。

 仕上げには火入れが要る。茶葉を適切な温度で炒り、香りを引き出し、水分を飛ばし揉む。これが難しい。火が強すぎれば焦げる。弱すぎれば香りが出ない。長年の勘と技がいる仕事だ。

 それを担うのが、日下部 勇だった。
 日下部 勇は、郡上藩の茶師だ。

 大名の命によって、白川から八幡に連れて来られたという、若くて腕の立つ茶師だ。この時代、特別に苗字を名乗ることが許された。専属の茶師なので、お茶を通して郡上藩との交流も深い。

 火入れの腕前は郡上随一と評判で、荒茶を持ち込めばたちまち香り高い仕上がりにしてしまう。小那比の茶も、ここで仕上げてもらうことで、ようやく売り物になる。

 お千は定期的に、峠を越え、渡し船で長良川を渡り、八幡の日下部茶舗まで荒茶を運んだ。

 最初は、緊張した。茶師というのは頑固でどんな恐ろしい職人かと思っていた。ところが勇は、拍子抜けするほど気さくな男だった。お千より一回りほど年上で、手は大きく、顔は日焼けで赤黒いが、笑うと目が細くなって子どものような顔になる。

「小那比の荒茶は、素直でええな。揉み方が丁寧や」
「なんや、白川の香りがするなぁ」

 初めて荒茶を持ち込んだとき、勇はそう言った。褒められるとは思っていなかった。匂いだけで白川の種だと判るのだ。お千は、驚いた。

「お前さんが揉んだんか」

「はい」

「何歳や」

「十八です」

「ほう」

 勇はひとつ頷いて、茶葉を手に取り、鼻に近づけた。

「ええ鼻しとるな、お前さんの手は」

 意味が分からなかったが、褒め言葉だと受け取った。それが、二人の馴れ初めだった。

 それから何度も通ううちに、勇はお千にとって、気兼ねなく話せる数少ない大人の一人になった。父を亡くし、母は病がちで、里では同い年の友だちとゆっくり話す暇もない。だから八幡への道中と、日下部茶舗での短い時間は、お千にとってひそかな楽しみでもあった。

 ある朝、お千は荒茶を背負い、いつものように峠を越えた。吉田川と長良川の出会う淵の渡し場に着き、顔なじみの船頭に声をかけて乗り込んだ。川の流れは穏やかだった、川底では鮎が縄張り争いをしている。

長良川の渡し船

 なのに、ふとした拍子に船が大きく揺れた。風呂敷ごと荒茶の包みが、するりと川へ落ちた。

 気づいた瞬間、お千は飛び込んでいた。

 水は冷たかった。流れが思ったより速く、手が空を掻いた。溺れかけたそのとき、同じく渡船の常連だった大工の清吉が迷わず飛び込んできた。岸に引き上げられたお千は、膝をついたまま「ありがとうございます」と何度も頭を下げた。清吉は苦笑いで「気をつけなあかんよ」と言って、自分も濡れたまま去った。

 風呂敷に二重に包んだ荒茶は、なんとか引き上げた。しかし水をたっぷり含んでいた。今日は日下部茶舗へ持っていけない。また干し直しだ。今日の見入りも、なくなった。

 お千は濡れたまま、とぼとぼと小那比へ引き返した。荒茶の重さは倍どころではない、情けなくて、悔しくて、泣きそうになった。泣いたところで、荒茶は乾かない。
 二日後よく乾かし日下部茶舗に行った。

「今日の荒茶は少し水分が残っとる。乾しが足りんかった日があったやろ」

「曇りが続いたもんで」

「なるほどな。まあ、火入れでなんとかする」

 勇はそう言って、手慣れた様子で竈に火をおこす。和紙を張り下から火入れをする焙炉(ほいろ)の上に茶葉を広げる。すると初めに出る青い草の匂いが消え、香りが立ち上がってくる、深く甘い、あの小那比の茶の香りになっていく。
 先日川に落ちたお茶だ、言うに言えなかった。
 勇は感づいていたのだろうか。

 「茶師は鼻が命や」
 勇は独自の感性で、青臭さを旨味に変えるという。

 お千はその香りが好きだった。父の茶畑の香りが、勇の手によって、もっと遠くまで届くものに変わっていく気がした。

 本来はご法度だが、自分の家で使う分には、勇が火入れしたものを分けてもらえる。おっかさんに飲んでもらうのが、お千の楽しみだ。
 しかし今回は、清吉さんにわたすよう取っておこうと思った。

「勇さんは、どうして茶師になったんですか」

 ある日、お千は聞いた。

「茶が好きやったからな」

「それだけですか」

「それだけや。好きなことを仕事にできたんは、幸運やった」

 勇は焙炉から目を離さず茶を揉みながら、そう言った。お千は少し羨ましかった。自分に好きなことがあるかどうか、考えたことがなかった。茶仕事は、生きるためにするものだと思っていた。好きか嫌いかを問うものではない、と。

 けれど勇の手がお茶を揉むのを見ていると、そうではないのかもしれない、と思った。

 病弱な母と二人の暮らしは、華やかさとは縁が遠かった。

 憧れとも無縁の日々だ、とお千は思っていた。朝に茶を揉み、昼に畑を耕し、夕に母の食事をこしらえる。備前屋での女中の仕事が加わってからは、なおさら忙しくなった。八幡随一の料理旅館、備前屋。お千がそこで働き始めたのは、母の薬代の足しにするためだ。下働きから始め、今では給仕も任されるようになっていた。

 それでも、この暮らしに不満はなかった。不満を持つ余裕がなかった、というのが正確かもしれない。ただ、どこかに「このまま」という感覚が、うっすらとあった。この里で生まれ、この里で老い、この里で逝く。それが自分の一生だろうと、十八のお千は、何となく思っていた。

 その日の夕方、備前屋の女将に呼ばれた。お得意さんには、なっちゃんと呼ばれる、気さくな若女将だ。

「お千、来月のことやけどな」

 女将は、帳場の前で少し改まった顔をしていた。

「来月、大名の御一行が八幡城においでになられる。登城行列される前に、いつものように上田様のお屋敷でひと休みをなされるご予定でな。その席で、小那比のお茶をお出しすることになっとる」

 お千は頷いた。

「その給仕を、お前にやってもらいたい」

 一瞬、意味が分からなかった。

「うちに、ですか」

「そうや。真面目やし、お前さんのお茶なら申し分ない」

 胸の中で、何かが動いた。緊張、と呼ぶには少し大きすぎる。怖い、とも少し違う。高揚、という言葉のほうが近いかもしれない。大名の一行。上田家のお屋敷。自分がそんな場所で給仕をする。育てたお茶を出す。

 お千は、生まれて初めてそんな気持ちを知った。

「分かりました。精一杯、務めます」

 頭を下げた。廊下に出ると、春の夕風が吹いてきた。

 翌日、荒茶を届けに日下部茶舗に寄ったとき、お千は勇にそのことを話した。

「大名の御一行に、小那比の茶を出すことになったんです」

 勇は一瞬、手を止めた。それから、にっと笑った。

「そうか。ほなら、ええ茶を仕上げんとあかんな」

 とは言うものの普段通り、手を抜かない仕事に変わりはない。焙炉の加減を整え直す茶を揉む 茶師 勇の横顔を、お千は見た。何も言わなかったが、胸が温かくなった。

『惚れていれども 好かれておらず 磯の鮑の片思い』
 初めての恋の花が咲こうとしていた。

 その日は小那比の茶の香りが、一段と高く、澄んでいた。

第3章「上田家の茶」へ続く

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