『雨も降らぬに袖しぼる』第3章 上田家の茶
『雨も降らぬに袖しぼる』
第3章 上田家の茶
青山様が参勤を終えられ 八幡城へ交代される、という知らせは、前日から八幡の町を浮き立たせていた。
街道沿いの茶屋が幟を立て直し、宿場の女将たちが軒先を掃き清め、子どもたちが石段の上から首を伸ばした。大名行列の通過は、静かな宿場町にとっての晴れ舞台だ。殿様と大勢の家臣が金を落とし、出店が並び、普段は閑散とした通りに人が溢れる。何日も前から仕込みをする店があり、衣装を整える者があり、町全体が一つの舞台装置に変わっていく。
長い旅の最後の休憩場所上田家、お城まであと一里ない。
その上田家では、朝から大騒ぎだった。
お千は夜明け前から呼び出されていた。広間の雑巾がけ、縁側の拭き掃除、玄関の砂利の整え直し。女中たちが次々と仕事を言いつけられ、それぞれが目を回す忙しさで動き回った。お千も例外ではなかった。茶の準備だけでなく、客間の床の間の花を替え、廊下の行灯の油を注ぎ足し、女将の指示を聞きながら走り回った。
それでも心のどこかに、緊張とは別の高揚がある。あの、大名の一行が来る。自分が丹精込め、勇が手揉みしたお茶を出す。
お千は何度も、手の中の茶碗を確認した。
一足先に馬が駆け込んできたのは、午後のことだった。
上田家の門を入ってきた騎馬の武士は、鞍から軽やかに降り立つと、迷いなく玄関へと向かった。年は三十をいくつか過ぎたほどか。金襴の羽織ではなく、旅塵を帯びた実用的な装束だった。しかしその立ち居振る舞いには、隙がなかった。歩き方が違う。目配りが違う。庭の隅まで一瞬で見渡すような、鋭くて、しかし穏やかな目をしていた。
坂東朝臣上総介(ばんどうあそんかずさのすけ)。
青山家の中老。百姓の出でありながら、剣と禅を修めて青山家に仕官し、若くして重用されるようになったという人物だと、お千は女将から聞いていた。行列が到着する前に先回りして受け入れを確認するのが、この人の役目だという。
「ご苦労をおかけします。受け入れの確認をさせていただきたい」
「もう半里ほどでお見えになられます」
上総介は上田家の主人に軽く頭を下げ、広間、客間、厠の場所、馬をつなぐ場所、籠を置くところと手際よく見て回った。お千はその後ろで茶の準備をしながら、横目でその様子を追っていた。
一通り確認を終えた上総介が、広間に戻ってきた。
「茶を一杯、いただけますか」
お千に向けて、言った。
お千は頷き、急須を手に取った。指が、震えていた。武士を相手に給仕をするのは、これが初めてではない。しかしこの人の目が、なぜか、緊張を倍にする。
茶を注ぐ手が小刻みに揺れた。茶碗の縁に、かすかに茶がこぼれた。
「初めてか」
上総介が言った。お千は顔を上げた。
「大名の一行への給仕が、という意味や」
声が、思ったより柔らかかった。
「はい。初めてです」
「そうか」
上総介は茶碗を両手で受け取り、ゆっくりと口に運んだ。一口、含んだ。
少しの間があった。
「どこの茶や」
「小那比の茶です。長良川を越えた山里で」
「香りが、澄んどる」
「これなら、お慶びになられる」
それだけ言って、また一口飲んだ。お千は安堵の胸をなでおろし、震えも少しだけ、静まった。
やがて、遠くから音が聞こえてきた。
露払いの掛け声。足音。馬のいななき。八幡の町に大名行列が入ってきた知らせが、波のように上田家まで押し寄せてくる。
そのとき、上田家の前の道に、騒ぎが起きた。
筆頭家老の小出弥左衛門が、足を滑らせた。
昨日の雨で道端の草がすこし濡れていた。馬の長旅で疲れた足が、思うように動かなかった。弥左衛門は体勢を崩し、どうと倒れた。周囲の家臣が慌てて駆け寄ったが、それより先に目に入ったのは、金襴の羽織に広がった泥の染みだった。
広間から様子を見ていたお千は、思わず息を呑んだ。
金色の地に鶴の刺繍が入った、見事な羽織だった。来年の参勤からは城代家老として八幡城に入る弥左衛門が、そのお披露目のために誂えた衣装だと聞いていた。その大切な羽織が、今、泥まみれになっている。
上総介は一瞬で状況を見切った。
「弥左衛門殿、ご無事か」
弥左衛門の体を確認し、怪我がないと分かると、すぐに視線が羽織に移った。
「羽織を預からせてください」
有無を言わせぬ口調だった。弥左衛門は「しかし行列が……」と言いかけたが、上総介はすでに動いていた。
「行列はゆっくり進ませます。必ず間に合わせます」
羽織を受け取ると、上総介は馬に飛び乗り、八幡の桝形へと駆けていった。
日下部茶舗に、上総介が飛び込んできたのは、それから程なくしてのことだった。
勇は竈の前にいた。見物に行こうと仕事場を片付けていたところへ、突然の来客だ。見上げると、血相を変えた旅装束の武士が羽織を抱えて仁王立ちしている。
「日下部勇殿か」
「へえ、そうですが」
「数年前、白川でお会いした。坂東上総介と申す」
勇は目を細めた。白川。そうだ、この人だ。茶の産地を視察に来ていた青山家の武士に、茶のことをあれこれ聞かれた。郡上八幡に来ないかと声をかけてくれたのも、この人だった。それがきっかけで、今こうして八幡に店を構えている。
「ああ、上総介様。お久しゅうございます。こちらへ来られたんはご存知でしたが、まさかこんなかたちで」
「急で申し訳ない。これを見てくれ」
勇は羽織を広げた。金襴の地に、泥の染みが三か所。上等な絹だ。水を使えば地が縮む。
「焙炉で乾かせんか」
「焙炉で、ですか」
勇は眉をひそめた。焙炉は茶葉を乾かすための道具だ。温度の調整はできる。しかしこんな高価な絹物に使ったことはない。縮んだり、色が変わったりすれば、取り返しがつかない。
「難しゅうございます。この地は」
「分かっとる。無理を言っとる。それでも頼む」
「先程、上田家でお茶をいただいた、お主ならと思っておる」
上総介の目が、真っ直ぐだった。焦りの中に、確かな信頼があった。この人は自分の腕を信じて頼んでいる、と勇は思った。
「和紙を二重にして、直接当てんようにすれば」
勇は独り言のように言った。茶葉を包む薄い和紙。それを羽織と焙炉の間に挟めば、直熱を避けられる。温度は低めに、時間をかけて。
「やってみます。ただし時間が要ります」
「どのくらいか」
「四半刻、いただければ」
「分かった。洗張屋に泥を落としに行って戻ってくる」
上総介は頷き、また駆け出した。勇はすばやく焙炉の準備を始めた。和紙を二枚重ねて広げ、羽織を丁寧に乗せる。火加減を落とし、団扇でゆっくりと風を送る。茶葉を乾かすときとは別の、繊細な仕事だ。
勇の手は、迷わなかった。
……。
八幡の桝形に、露払いが入ってきた。
徳川家康から拝領したとされる大変貴重な馬印「金の弩標」が先頭で町に入ると、沿道の見物人が一斉にどよめいた。店の軒先から人が出てきて、子どもが駆け出した。大名行列は町の空気を変える。いつもの石畳が、今日だけは特別な道になる。自然と拍手の嵐となっていった。

『郡上の殿様 自慢なものは 金の弩標(どひょう)に 七家老』
そこへ、馬が一頭、逆方向から駆け込んできた。
上総介だ。
洗張屋で泥を落とした羽織を抱え、日下部茶舗から戻ってきた上総介は、行列の外を縫うように馬を走らせ、弥左衛門のもとへと寄り付けた。
「間に合いましたか」
弥左衛門が羽織を広げた。泥は消えていた。金糸の光沢も、絹の地合いも、傷んでいない。勇の和紙二重の仕事が、効いていた。
「上総介」
弥左衛門は短く言った。
「よくやった、見事じゃ」
それだけだった。しかし上総介には、それで十分だった。
弥左衛門はほんのり小那比茶の香りがする、金襴の羽織に袖を通した。
羽織に合わせ豪華に飾った馬に乗った。行列は続いていった。
上田家では、一行を見送ったあと、女中たちがようやく息をついた。
お千も縁側に腰を下ろし、遠ざかっていく行列の後ろ姿を眺めた。旗が揺れ、馬の蹄の音が石畳に響き、やがて人波に飲まれて見えなくなった。
金襴の羽織のことは、すぐ上田家まで伝わった。
あの人は、今ごろ行列の中にいるのだろうか。
先回りして来て、茶を飲んで、羽織を持って駆けていった。あの落ち着いた目と、「香りが澄んどる」という一言が、お千の中にまだ残っていた。
お千はいつもの渡し船から峠へと急いで帰り、おっかさんに嬉しそうに話した。おっかさんも久しぶりに心から笑った。
町はいつも以上に湧いた、大名行列は無事、八幡城に着いた。
弥左衛門のお披露目も難なく終えた。
その夜、日下部茶舗で勇が一人、竈の火を落としながら呟いた。
「上総介様も相変わらず、すごいお人や」
白川で出会ったときも、この人はそうだった。必要なことを、必要なだけ、淡々とやり遂げる。頼む理由を丁寧に話して、信じて、任せる。
それが、あのお方のやり方だ。
若くして中老になられたのも頷ける。
勇は焙炉を片付けながら、今日の仕事を振り返った。茶葉でも羽織でも、火加減一つで台無しになる。しかし今日はうまくいった。和紙二重の思いつきは、我ながら悪くなかった。
この経験をお茶に活かせないか考える、「お茶きちがい」だった。
明日またお千が荒茶を持ってきたら、この話をしてやろうか、と勇は思った。竈の火が落ちた。茶舗の中が暗くなった。勇はいつしかお千のことを考えない日が無くなっていった。
『恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす』
いつもと違う八幡の夜が、始まっていた。
今宵はどの店も遅くまで賑わっていた。
「金の弩標」の話が、あちこちで何度も、繰り返されていた。
『金の弩標は 馬術のほまれ 江戸じゃ赤鞘(あかざや)郡上藩』
第4章「備前屋の宴」へ続く
