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『雨も降らぬに袖しぼる』第4章 備前屋の宴

『雨も降らぬに袖しぼる』

第4章 備前屋の宴

 告白というのは、言葉よりも先に気配が来る。

 勇がお千に気持ちを打ち明けたのは、秋の終わり、日下部茶舗に夕暮れが差し込む頃のことだった。火入れの仕事を終え、焙炉の熱が静かに引いていく時間。勇はいつものように竈の前に立っていたが、この日はなぜか手が止まっていた。

「お千」

 名前だけ呼んで、少し黙った。

「俺と、夫婦にならんか」

 お千は手に持っていた茶碗を、そっと棚に置いた。

 勇の気持ちは、分かっていた。いつからかは言えないが、感じていた。手が触れるたびに、目が合うたびに、何かが変わっていく気配を。それが何なのかをお千は考えないようにしていた。考えると、答えを出さなければならなくなるから。

 勇のことは好きだ。信頼している。この人の仕事の仕方が好きだし、笑うと目が細くなる顔が好きだ。父が逝ってから、こんなに安心して話せる大人はいなかった。

 しかしそれが、夫婦の情かどうか。

「おっかさんのことを、考えさせてください」

 お千はそれだけ言った。

 病弱な母を、勇にも面倒見させることになる。備前屋の仕事も、小那比の茶畑も、女手ひとつで守り続けてきた暮らしのすべてが、頭の中を巡った。

「分かった。待つ」

 勇は一言だけ言って、また竈に向かった。

『川の瀬でさえ 七瀬も八瀬も 思い切る瀬も 切らぬ瀬も』

 勇の背中が、どこか寂しそうに見えた。お千は返事を飲み込み、諦めがつくのか、未練が残るのか分からぬまま茶舗を後にした。

 その頃、郡上八幡では、誰も知らない緊張がひそかに続いていた。

 上総介には、藩校の設立という表の仕事とは別に、もう一つの重要な務めがあった。郡上藩を許可なく脱藩した、茂吉という男の監視だ。

 茂吉はもともと下級藩士の出だったが、数年前から藩内の不満分子と密かに結びつき、謀反の機をうかがっていると報告が入っていた。上総介は町人に身をやつして市中を歩き回り、茂吉の動きを探った。どの茶屋に顔を出すか。誰と話すか。夜、どこへ消えるか。

 証拠が揃ったのは、冬に入る直前のことだった。

 上総介は部下を動かし、吉田川沿いの一角で茂吉をお縄にした。抵抗はあった。しかし手慣れた動きで押さえ込み、その日のうちに吉田川沿いの牢屋へ送った。

 これで一件落着、と思われた。

 しかし茂吉という男は、思ったよりしぶとかった。

 勇への返事を先送りにしたまま、二ヶ月が過ぎた。

 郡上藩では、上総介が先頭に立って寺子屋の普及に動いていた。さらに藩校の設立という大きな仕事が持ち上がり、場所の選定から費用の算段まで、上総介は毎日駆け回っていた。「潜竜館」という名が決まったのは晩秋のことだ。場所は備前屋の敷地の一角に設けることになり、それを祝う宴の席が催されることになった。

 お千が備前屋に呼び出されたのは、宴の三日前だった。

「今度の宴は、いつもと勝手が違う」

 女将のなっちゃんは、帳場で低い声で言った。

「青山様のお家臣の方々の、特別な席や。準備が大事になる。お千、頼りになるのはお前や」

 お千は頷いた。

 備前屋の宴の準備は、お千にとって初めてのことの連続だった。

 まず座布団が違った。普段は何の変哲もないい草の座布団だが、この日のために布の袋に綿を詰めた、ふっくらとした坐り心地の良い特別なものが運び込まれた。お千は一枚一枚、丁寧に並べた。踏んでしまわないよう、足の運び方まで気を遣った。

 器も違った。備前屋に代々伝わる美濃焼の皿が棚から出され、緊張するお千は手に取るたびに、なんと薄く、なんと美しいものかと思った。普段使いの器とは肌触りからして違う。光の当たり方によって、白地の表面に青みが差すようにも見えた。

 床の間には、円空仏が置かれた。

 女将がそっと持ち出してきたそれを、お千は目を丸くして見た。粗削りのようでいて、どこか穏やかで、静かに笑っているような仏の顔。そのときお千はどういうわけか、勇が上総介の持ってきた羽織を焙炉で乾かしたあの日の話を思い出した。上総介様が「先程お茶をいただいた、お主ならと思った」と言ったと、勇から聞いた話を。

「この仏様は、どこから来られたんですか」

 お千が聞くと、女将は少し声をひそめた。

「先代の備前屋の主人が、旅の僧からいただいたものらしいわ。円空様という方だ、とも聞いとるけれど、確かなことは分からへん」

 お千はもう一度、その仏を見た。笑っているような、泣いているような、どちらともつかない顔だった。

備前屋

 宴の日。

 冬の早い夕暮れが、備前屋の庭を茜色に染める頃、家臣たちが続々と集まってきた。

 お千は厨房と座敷の間を何度も往き来した。高級酒の伊丹諸白に燗をつけ、猪の鍋を整え、冬にしか味わえない鯛の刺身を白い美濃焼の器に盛りつけた。燻製にした鮎を雑炊に仕立てた鮎雑炊を、土鍋ごと火鉢に載せた。お千はその一品一品を、床の間の円空仏に軽く手を合わせてから座敷へ向かった。

 勇が仕上げた小那比の茶を、席が始まる前に出した。

 熱い湯を注ぐと、例の香りが座敷に広がった。香ばしく、穏やかで、どこか山の朝霧を思わせる、あの香り。何人かの家臣が「ほう」と声を漏らした。

 お千は、その香りを嗅ぐたびに勇のことを思った。この香りは勇の手で作られた香りだ。焙炉の前で団扇を使いながら、火加減ひとつで全てが決まると言っていた。好きなことを仕事にできた幸運だ、と言っていた。

 小那比茶を飲み干し、宴が始まろうとした頃、上総介が現れた。

 三ヶ月ぶりだった。

 お千は気づかないふりをした。しかし手が少し震えた。あの日、上田家の広間で「香りが澄んどる」と言った人だ。その一言がまだ胸の中にある。勇の返事を先送りにしているのも、あの一言が引っかかっているからではないか、とお千は自分でも薄々思っていた。

 上総介は席に着き、周囲の家臣と言葉を交わしながら、しかし一度だけ、給仕のお千を目で捉えた。

 目が合った。上総介はとくに表情を変えなかった。ただ、かすかに頷いた。お千も頷いた。それだけだったが、なぜかその一瞬が、座敷の賑やかさと切り離されて、静かに止まった。

「ご苦労であった」

 上総介の一言で、豪華な宴が始まった。犬山から呼び寄せた太鼓持ちの芸が座敷を沸かせた。

「カッポレ、カッポレ」

 家臣たちの大合唱が響いた。お千も初めて見る芸を楽しんだ。廊下には女将のなっちゃんから、料理を終えたおやじさんまでもが見物に来た。

 宴が佳境に入った頃、上総介が女将のなっちゃんに何かを耳打ちした。なっちゃんが苦笑いしながら頷き、小さな杯がお千の前に置かれた。

「お千、ちょっとだけやよ」

 宴席で女中に酒を飲ませるなどはご法度だ。ましてや飲み慣れていないお千にだ。それでも上総介がそうしてくれたのだと分かって、お千は杯を両手で包んだ。お気持ちをすこし感じた。

 伊丹諸白。上方の高級酒だ。正月に母と飲んだ甘酒が精々のお千に、じわりと熱が来た。喉を通り、胸の奥に広がる、とろりとした甘みと香り。もう一口飲んだ。さっきまで固く縛れていた何かが、少しずつほどけていくような感覚があった。

「上田家で、お茶をお出ししたことを覚えておいでですか」
 いつの間にか、お千は上総介に話しかけていた。

「覚えておる。震えとった」

「震えてましたか」

「杯の縁まで溢れそうやった」

 お千は思わず笑った。笑ってしまってから少し恥ずかしくなったが、もう遅かった。

「あのとき、香りが澄んどると言っていただいて。おっかさんに話したら、母も喜んで」

「そうか」

「あのお茶は、家の畑で摘んで、蒸して、揉んだものです。茶師の勇さんが火入れをして」

「日下部殿の仕事は、あのとき羽織でも確かめた。腕は確かや」

「茶は鼻が命だと、勇さんはいつも言うんです」

 上総介が静かに笑った。座敷の賑やかさの中で、二人の周りだけ、少し違う空気があった。

 田植えのこと、茶摘みの早朝のこと、熱い茶葉を揉んで手を火傷した話、もぎたての野菜の味。上総介も百姓の出だ。お千の話す一つ一つに、目が動いた。心も少しずつ動いた。

「蒸した茶葉をわらの上で揉むのが、一番熱いんです。でも香りがたつのも、そのときで」

「揉んでいる最中に、もう香りが出るのか」

「はい。青い草の匂いが細くなっていって、まだ若い深い香りに変わっていく。その瞬間が好きで」

 上総介はしばらく何も言わなかった。ただ、お千の話を聞いていた。この人は余計なことを言わない。けれどちゃんと聞いている。お千は、酒のせいではなく、その聞き方のせいで、ますます話してしまった。

 夜が深くなった頃、お千は少し気分が悪くなった。

 伊丹諸白のせいだ。ほんの少しのつもりだったが、空きっ腹には効きすぎた。顔が熱く、足元がふわふわした。廊下に出てそっと壁に手をついていたところへ、なっちゃんが来た。

「お千、顔が真っ赤やよ」

 笑いながら、しかしすばやく、盥と手ぬぐいを用意するよう別の女中に声をかけた。流石の女将だ。

 程なくして、上総介が廊下に出てきた。

「すみません、御迷惑を」

「いや、悪いのはこちらじゃ」

 上総介は何でもないように言った。

「備前屋に部屋を取る。今夜は休んでいきなさい」

 お千は断ろうとした。しかし上総介はなっちゃんにすでに話をつけていた。さらに、世話をする女中の手当まで用意してくれた。

 宴は続いていたが、先に布団に横になったお千は、ぼんやりとした頭の中で、今夜のことを思い返した。床の間の円空仏。綿入りの座布団。美濃焼の白い器。勇の手揉みした小那比の茶の香り。上総介と交わした言葉。温かかった。お千はそのまま眠りに落ちた。盥を使ったことは言うまでもない。

 その静かな夜が、突然破れた。

「大変です、たっ大変です」

 廊下を踏み鳴らして飛び込んできた家臣の声に、座敷の空気が一変した。

「茂吉が牢破りをしました」

 一瞬、しんと静まった。次の瞬間、酔いが醒めた家臣たちがざわめいた。

「城に向かっているようです」

 上総介はすでに立ち上がっていた。顔色一つ変えていない。酒を飲んでいたはずだが、目が冴えていた。

 茂吉。捕えたはずの男が、牢を破った。吉田川沿いの牢屋は頑丈なはずだった。しかしあの男は、腕力だけでなく、知恵も持っていた。監視の隙を突いたのか、あるいは内通者がいたのか。考えている時間はない。

 上総介は女将のなっちゃんを呼んだ。

「あれを頼む」

 たった一言だった。なっちゃんは頷き、すぐさま庭に明かりを灯しに走った。

 家臣たちは何のことか分からず顔を見合わせた。上総介が「こっちだ」と低く言い、彼らを連れて庭へ出た。

 冬の庭は暗かった。なっちゃんが持つ行灯が、植え込みの奥に続く石組みを照らした。上総介は迷わずその石組みに歩み寄り、一か所を押した。

 音もなく、石が動いた。

 黒い穴が、口を開けた。

 家臣たちが息を呑んだ。

「備前屋の裏庭から城へ抜ける穴だ。知っとる者はここにいる数人だけや」

 上総介は振り返らずに言った。

「茂吉の先回りをする。全員、続け」

 行灯を先頭に、上総介が穴へ入った。家臣たちが次々と続く。暗闇の中を、冷たい石の壁を手で触りながら進む。足元は湿っていた。時折、土が崩れる音がした。穴は思ったより長く、どこまで続くか分からない。しかし上総介の歩みは迷わなかった。この穴のことを、以前から頭に入れていたのだろう。

 やがて、空気が変わった。城の石垣の冷たさが漂ってきた。出口が近い。

 穴を抜けると、城の内堀に沿った暗がりに出た。上総介はすばやく辺りを見渡した。

「まだ来ておらん」

 茂吉は城に向かっていると報告があった。しかし先回りが効いた。上総介は家臣たちに指示を飛ばし、城の門周辺に手を配した。

 そのとき、茂吉が姿を現した。

 暗がりから飛び出してきた男を、待ち受けた家臣たちが押さえた。茂吉は激しく抵抗した。しかし万全の体制の前に、抵抗は長く続かなかった。

「観念せい、茂吉」

 上総介が静かに言った。

 茂吉は今宵、大勢の家臣が備前屋で宴を上げているという情報を知っていた。その隙をついての犯行だった。まさかこれほど多くの家臣に先回りされているとは、思ってもみなかっただろう。

 茂吉は地に膝をつき、荒い息をついた。その夜のうちに、酒の匂いのする家臣たちに再び捕縛され、後日刑場へ送られることが決まった。

 誰も怪我をしなかった。盤石の体制であった。

 上総介の動きは、まるで最初からこうなることを知っていたかのようだった。

 翌朝、お千は頭が痛かった。初めての二日酔いというのは、なかなかに辛いものだ。

 障子から差し込む光が、やけに眩しかった。お千はしばらく布団の中で目を閉じたまま、昨夜のことをゆっくり思い出した。

 部屋を取ってもらったこと。女中の手当まで出してくれたこと。

 上総介は、気遣いというものを人に気づかせないやり方でする。押しつけず、威張らず、ただ必要なことを先にやってしまう。あの羽織の一件もそうだった。弥左衛門殿が困る前に動いて、間に合わせて、一言「よくやった」を受け取って終わりにする。

 しばらくして、お千は昨夜の騒動を女将のなっちゃんから聞いた。

 茂吉の脱獄。備前屋の裏の「あれ」から城へ向かった上総介。先回りして押さえた、その一部始終。

 びっくりしたのと、恥ずかしいのとが同時にきた。あの宴の夜に、自分が眠っている間に、そんなことが起きていたのか。しかも上総介は酒の席からすぐ動いて、少しの乱れもなく事を収めた。

 気遣いも一流、いざとなった時の対応も一流。

 お千の胸に、何かが静かに積み重なっていった。

 数日後、荒茶を届けに日下部茶舗に寄ったとき、勇はいつもと変わらぬ様子で竈の前にいた。

 しかし、いつもと何かが違った。

 胸の奥が、少し痛かった。痛みの正体を、お千はまだ名付けられなかった。

 お千が口を開く前に、勇は感じていたのかもしれない。火入れをする手が、いつもより少しだけ慎重に見えた。団扇の動きが、わずかに遅かった。茶葉の具合を確かめる目が、どこか別のものを見ているような気がした。

「宴はどうやった」

「賑やかな宴でした。お茶を出したら、皆さんが喜んでくださいました。勇さんが仕上げたお茶やと言いたかったんですけれど、女中が余分なことを言う場ではないので」

「そうか」

 勇は焙炉から目を離さなかった。

「上総介様もおいでになっていたんか」

「はい」

 一瞬の沈黙。焙炉の中で茶葉が微かに音を立てた。

「そうか」

 また同じ言葉だった。しかし二度目の「そうか」は、一度目とは少し重さが違った。

 勇はしばらく無言で仕事を続けた。お千も脱獄の一件は黙っていた。普段は沈黙が苦にならない二人だったが、この日の沈黙は少し違う質を持っていた。

 やがて、勇が口を開いた。

「お千」

「はい」

「俺の返事、急かすつもりはない」

 お千は頷いた。

「ただ」

 勇は焙炉の前で、少しだけ体の向きを変えた。顔は見せなかったが、声に何かが混じっていた。

「俺は毎日、この茶の香りの中でお前のことを思うとる。お前の揉んだ荒茶が来るたびに、お前の手を思うとる。それだけは、本当のことやで」

 お千は返事ができなかった。

 茶の香りが、ゆっくりと広がっていった。いつもと同じ香りだった。香ばしく、穏やかで、深い。この香りの中に、勇の気持ちが毎日込められていたのか、と思うと、胸がふさがった。

 勇のことが、好きだ。それは確かだ。

 しかし上総介のことも、頭から離れない。

 お千は、二つの気持ちの間で、立ったまま動けなかった。

 その夜、お千は備前屋に残って後片付けを手伝った。

 家臣たちが帰り、座敷が静かになった今、備前屋の庭が急に広く見えた。女将のなっちゃんが行灯を持って庭の奥のほうへ歩いていくのを、お千は何気なく目で追った。

「なっちゃん、その奥に何があるんですか」

 なっちゃんは少し立ち止まった。振り返って、お千を手招きした。

 庭の奥は、手入れされた植え込みが続き、その向こうに古い石組みがある。昼間でも薄暗く、普段は誰も近づかない場所だ。なっちゃんは行灯を低く持ち、その石組みの一部をそっと押した。

 音もなく、石が動いた。その向こうに、暗い穴があった。

 お千は息を呑んだ。翌朝に聞いた、脱獄騒動の話が一気に繋がった。上総介が「あれを頼む」と言った「あれ」が、これだったのか。

「知っとる人間は、数えるほどしかおらへん。お千だけに教えておく、内密にな」

 なっちゃんは静かに言った。

「敵に囲まれたとき、城主や家族が脱出するための抜け穴や。備前屋の裏庭からまっすぐ行くと、城に続いとる。逆に城へ守りに行くこともできる」

 お千はその穴の暗さを見た。どこまで続いているのか、行灯の光では届かない。冷たい空気が、そこから漏れてくる。宴の夜、自分が眠っている間に、この穴から男たちが城へ向かったのだ。

「なんで、備前屋に」

「昔から、そういうことや。いざという時の備えは、目につかないところに作る。誰にも見えないところが、一番安全やから。備前屋で大勢の家臣を集めて宴を開けるのも、万が一の時にここから城へ動けるから。表向きは祝いの席、裏では守りの要。両方が揃って、初めて使える場所なんや」

 なっちゃんは穴を元に戻し、石が静かにはまった。跡形もなく、ただの石組みに戻った。

 お千は暗い庭を見渡した。教えていただいた重さを感じた。

 備前屋の宴席の賑やかさ、犬山の太鼓持ちの芸、美濃焼の器、綿入りの座布団、床の間の円空仏。そして、眠っているお千の知らないところで動いていた、あの夜の男たちの足音。そのすべてが、この庭の奥に隠れた抜け穴と、同じ一つの夜の中にある。

 華やかな表の顔と、誰も知らない裏の備え。

 この町はそういう町なのか、とお千は思った。表に見えているものと、見えていないものが、同じ場所に重なって存在している。

 勇の気持ちも、上総介の目も、おっかさんの病も。

 すべて同じ夜の中にある。

 お千は吉田川の音を聞いていた。

 冬の川は水かさが減り、岩が顔を出している。水音が低くなって、夜の底を流れるような音になる。

 勇の声が、また耳に戻ってきた。
 「俺は毎日、この茶の香りの中でお前のことを思うとる」
 その言葉が、どこかに刺さったまま抜けない。

 お千は空を見上げた。冬の星が、川面に映っていた。
 答えはまだ出なかった。
 ただ、一つだけ分かることがあった。

 どの気持ちも、本物だということ。本物だから、簡単には答えが出ない。しかし後戻りできない覚悟が、フツフツと湧いてきていた。

『どうせこうなら 二足の草鞋 ともに履いたり 履かせたり』

 お千は今宵も何も答えてくれない月を見た。夜はまだ長かった。

第5章 隠しきれない下駄の跡 へ続く

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

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