『雨も降らぬに 袖しぼる』第5章 かくし切れない下駄の跡
『雨も降らぬに 袖しぼる』
第5章 かくし切れない下駄の跡
町人姿というのは、着替えただけで人が変わるものだ、とお千は思った。
紺の木綿の着流し。帯を低めに締め、道中笠を少し目深に被る。刀のない腰が、武士らしさを消していた。しかし歩き方だけは隠せない。姿勢の良さ、目配りの速さ、人混みの中での体の裁き方。どこかで上総介だと気づく人間がいたとしても、みんな黙って見ていたのかもしれない。
備前屋の帰り道、夜の町を歩いていたお千は、角を曲がったところで上総介とばったり出くわした。
「あっ」
先に声が出たのはお千のほうだった。
上総介は一瞬だけ目を細め、すぐに表情を戻した。町人姿だから、周囲に向けては、ただの通りすがりだ。
「少し、歩かんか」
低い声で言った。
吉田川の堤を並んで歩いた。
お千は、宴の夜のお礼を言おうとして、まず謝った。
「あの夜、大変なことが起きておったのに、うちは眠っとりました。申し訳なかったです」
「気にするな。もともとこちらが余計な酒を飲ませた」
「いいえ、美味しゅうございました」
上総介が少し笑った。
「部屋を取っていただいたこと、手当まで用意していただいたこと。おっかさんにも話しました。おっかさんが、よほど良いお方だと言うておりました」
「お母上は今、具合はどうや」
「少しずつ、良うなっております」
それだけで十分だった。上総介はそれ以上は聞かなかった。ただ、川面を見ながら黙って歩いた。二人の間に沈黙があったが、気まずくはなかった。川の音が、その間を埋めてくれた。
しばらくして、上総介が言った。
「高雄歌舞伎を知っとるか」
「もちろんです」
「来月、公演がある。よかったら一緒に行かんか」
お千は一歩、歩みを止めた。
高雄歌舞伎。地芝居の中でも郡上随一と聞いている。農村の若者たちが命がけで稽古を積み、衣装も大道具も本格的に仕立て上げる、あの舞台だ。一度見てみたいとは思っていたが、一人で行くような場所ではない。まして武士と一緒に、などということは、夢にも思っていなかった。
「よろしいんですか」
「俺はただの町人や。今夜はそうやろ」
上総介は道中笠の向こうで、すこし目を細めた。
お千の胸が、弾んだ。
高雄歌舞伎の夜は、人でごった返していた。
篝火が焚かれ、その明かりが舞台を橙色に照らしている。見物客は老若男女入り混じり、前のほうは地べたに座った子どもたちで埋まっている。上総介はお千を連れて、少し見やすい場所へと自然に誘導した。
演目が始まった。
郡上の若者たちが、江戸で仕込んだ芸を地元の舞台で披露する。衣装は本物の役者に引けを取らない。鬘も、化粧も、所作も。お千は最初の一幕から引き込まれた。
上総介が大向こうをかけた。
「成田屋っ」
腹の底から出た声に、周囲の見物客が振り返った。お千は驚いて上総介の顔を見た。武士の顔ではなかった。芝居に没頭している、ただの一人の男の顔だった。次の見せ場で、舞台に向かっておひねりを投げた。ひらりと飛んだ小さな紙包みが、役者の足元に落ちた。
「上手いもんですね」
お千が言うと、上総介はあっさり言った。
「江戸で覚えた」
江戸。その言葉が、一瞬だけ二人の間に落ちた。上総介に江戸があることを、お千は分かっていた。妻子がいることも。しかし今夜は、そのことを考えないでいた。篝火の明かりの中で、上総介はただここにいる。それだけのことに、お千は集中していた。
幕間に、二人は串に刺した雨魚(アマゴ)を食べた。塩焼きの雨魚は、皮がぱりりと焼けていて、身がほろほろとほぐれた。
「美味い」
上総介が言った。
「雨魚は、郡上のものが一番やと思います」
「なぜや」
「長良川の水がええからやと、おっかさんが言うておりました。清い水で育った雨魚だから、と」
お千の話は、食べ物でも茶でも、いつも理由がある。
お千は少し考えた。
「なんでも育て方や作り方を見てきたからかもしれません。種を蒔いて、水をやって、収穫するまでの間に、いっぱいのことがある。そのことを知っとったら、美味しい理由も分かるような気がして」
上総介はしばらく、お千の言葉を嚙みしめるように黙っていた。
「百姓の目で、世界を見とるな」
「上総介様も、同じ目をお持ちのはずで」
上総介は一瞬、意外そうな顔をした。それから、静かに笑った。
遠くから、笛の音が聞こえてきた。
『忘れまいぞえ 愛宕の桜 縁を結んだ 花じゃもの』
春になった。
愛宕山の桜が満開になる頃、上総介はお千を花見に誘った。
山の斜面を覆う桜は、見上げると空が白く染まるほどだった。散り始めた花びらが風に乗って舞い、お千の髪にひとひら、ふたひら、落ちてくる。上総介は特に何も言わなかったが、お千の髪に落ちた花びらを、ひとつだけ指先でそっと払った。それだけのことが、お千の胸を静かに揺らした。
花見の帰り道、上総介が足を止めた場所は、八幡の外れにある小さな路地だった。
「こっちへ」
一軒の長屋があった。表構えは質素だが、中へ入ると小ぎれいに整えられている。板の間に小さな囲炉裏。障子一枚で外の光が柔らかく差し込む。
「ここは」
「借りた。お前が使いなさい」
お千は言葉を失った。
「備前屋の大部屋では、休めんやろ。小那比とここと、行き来すればいい。おっかさんの具合が悪い時は小那比、そうでない時はここに」
それだけ言った。余分なことは何も言わなかった。ただ、あの眼で、お千を見た。
お千は頷くことしかできなかった。
勇は、知っていた。
お千が荒茶を持ってくるたびに、何かが変わっていくのを感じていた。足取りが違う。目の奥が違う。茶を揉む手の感触が、以前より少しだけ柔らかくなった気がした。
しかし勇は何も聞かなかった。
焙炉の前で、ただ茶を仕上げた。和紙を広げ、茶葉を乗せ、団扇で風を送る。お千の荒茶は今も素直でいい。揉み方が丁寧で、乾しが均一で、青みが綺麗に消えている。この娘の手の仕事は、何も変わっていない、と勇は思った。
何も変わっていないのに、何かが変わっている。
その何かの正体は、もう分かっていた。
茶舗の常連客の一人が、ある日何気なく言った。
「高雄歌舞伎の夜、備前屋の娘さんを連れた町人を見かけたわ。なかなかの男前やったけど、どこの人やろ」
勇は茶葉を裏返しながら、何も言わなかった。
その「町人」が誰かを、勇は知っていた。上総介は時折、町人の格好で市中を歩くと聞いていた。日下部茶舗にも一度、顔を出したことがある。
勇は何も言わなかった。ただ、その日の火入れをいつもより丁寧にやった。小那比の茶葉の香りを、これ以上ないほど丁寧に引き出した。お千が持ってきた荒茶だ。それだけは変わらない。
「勇さん」
ある日、お千が少し改まった声で言った。
「はい」
「長屋を借りることになりました。備前屋の大部屋を出ます」
勇は団扇の手を止めた。
「誰に借りてもらった」
答えが、少し遅かった。その遅さだけで、十分だった。
「そうか」
また、あの「そうか」だった。勇は団扇を再び動かし始めた。お千のほうを向かなかった。
炎が揺れた。茶の香りが立ち上った。
勇は焙炉から目を離さないまま、言った。
「小那比のお母上は、お元気か」
「はい、少しずつ」
「そうか。それは良かった」
それだけだった。
お千が帰ったあと、勇は一人で仕事を続けた。焙炉の火を調整し、茶葉を裏返し、また団扇を使った。手は動いている。仕事は続いている。
しかし胸の奥に、鈍い痛みがあった。眠れなかった。
お千のことを諦めよう、と思ったのは一度や二度ではない。しかし諦める、と決めるたびに、翌日また荒茶を持ってくるお千の顔を見て、また決め直さなければならなくなる。上総介様は立派なお方だ、それは勇が一番よく知っている。お千が惹かれるのも分かる。しかしそれで納得できるかというと、そうはいかない。
「茶きちがいの俺には、茶しかないわな」
一人で呟いた。
竈に向かって、新しい火をおこした。お千の次の荒茶が来る時までに、焙炉の調子を整えておく。それが今の自分にできることだ。
この仕事が続く限り、この香りの中でお千のことを思い続けるのだろう、と勇は思った。
『どんなことにも よう別れんと 様も一口 言うておくれ』
焙炉の熱が、じんわりと手に伝わってきた。
夏、川に瓜の香りがしてきた。鮎の季節が来た。
上総介がある日の夕方、お千を吉田川の河原に連れて行った。川の上手では簗が組まれ、漁師が竿を振っていた。友釣りだ。囮の鮎が泳ぎ、縄張りを荒らされた野鮎が飛びかかってくる。その瞬間を仕留める、一瞬の勝負。川の上で繰り広げられる静かな戦いを、お千はしばらく飽きずに見ていた。
捕れたばかりの大きな鮎を、その場で焼いてもらった。川岸で薪をおこし、串を打って、火にかざす。脂が落ちて炎が上がるたびに、香ばしい匂いが川風に乗って広がった。
二人は岩に腰掛けて食べた。
「うんまあ」
お千が思わず声を上げた。皮がぱりりとして、身がほろほろとほぐれる。川の香りと、塩の加減と、鮎そのものの甘みが一度にきた。こんなに美味しいものを、今まで知らなかった。
上総介が笑った。
「お千は食べるとき、隠さんな」
「こんなに美味しいのに、隠す方がもったいないです」
「そうやな」
「鮎は、郡上のものが一番やと思います。おっかさんがよく言うておりました。清い水で育った鮎は、苦みの中に甘みがある、と」
「水の話になると、お千はよく母上の言葉を引く」
「おっかさんが、お茶のことも水のことも、いつも丁寧に教えてくれたので」
上総介は川面を見ながら、少し黙った。
「お前の話は、食べ物でも茶でも、いつも育てた人の顔が見える」
お千は少し考えた。
「種を蒔いて、水をやって、収穫するまでの間に、いっぱいのことがある。そのことを知っとったら、美味しい理由も分かるような気がして。鮎も、この川が育てたもので。この川がなければ、この味はない」
「百姓の目で、世界を見とるな」
「上総介様も、同じ目をお持ちのはずで」
上総介は一瞬、意外そうな顔をした。それから、静かに笑った。
川風が吹いた。水面がきらりと光った。川岸の葦が揺れた。二十になったお千の横顔に、夕日が当たっていた。上総介はしばらく、その横顔を見ていた。
「笑った顔が、眩しい」
ぽつりと言った。
お千は鮎を持ったまま、少し固まった。それから、また笑った。今度はもっと、はっきりと笑った。
「笑ったら、さらに眩しくなった」
「もう、からかわんといてください」
「からかっておらん」
上総介は真顔で言った。それがかえってお千を照れさせた。
川が流れていた。鮎が跳ねた。どこかで水鳥が鳴いた。
この夏が、ずっと続けばいい。お千はそう思った。思いながら、この夏は終わる、とも分かっていた。郡上の夏は、川とともに流れていく。
夏の終わりが近づく頃、八幡の町に再び活気が戻ってきた。
青山様が江戸へ出府される時期が来たのだ。
参勤交代の行列は、八幡の町を出るときも華やかだった。金襴の羽織、馬印、家臣たちの整然とした列。町の人々が街道に出て、手を振り、見送った。行列が枡形を曲がるとき、誰もが振り返ったという。
『郡上の八幡 出ていく時は 三度見返す 枡形を』
上田家では、行列の最初の休憩所として、またお千と勇の小那比茶が振る舞われた。勇が丁寧に火入れをした茶の香りが、広間に静かに広がった。豪華な衣装は郡上藩を出るまでお披露目され、道中ずっと沿道の民が手を合わせた。
参勤に出られると、郡上藩に残る城代家老は筆頭家老の小出弥左衛門殿。そして中老の上総介は、この一年、郡上で家老職を務めることとなった。
青山様がいなくなった分、上総介はさらに忙しくなった。長屋に来る夜が、少しずつ減っていった。しかしその分、来たときの静けさが、以前より深くなった気がした。
上総介との密やかな日々は、夏を過ぎても続いていた。春の花見から数えれば、もう一年半近くになる。
長屋での時間は、特別だった。備前屋の賑やかさもなく、小那比の責任もなく、ただそこにいる時間。上総介は時に疲れた顔で来て、囲炉裏の前で黙って座っていることもあった。お千は茶を淹れた。小那比の茶を、勇が仕上げたものを。その香りの中で、上総介は少しずつ目の力が柔らかくなっていった。
二人の仲を知っているのは、勇となっちゃんだけだった。
なっちゃんは何も言わなかった。ただ、お千の目を見るたびに、少し寂しそうな顔をした。この人は全部分かっているのだろう、とお千は思った。この先のことも含めて。
冬が来た。
郡上の冬は、重い。山が雪を被り、吉田川の水が透明度を増し、町の石畳に足跡が残る。
雪の夜。
長屋の障子が、うっすらと白くなっていた。囲炉裏に薪を足し、お千は上総介の帰りを待っていた。
戸が開いた。
上総介が入ってきた。羽織の肩に、雪が薄く積もっていた。
「来てしまった」
苦笑いのような顔で言った。
「来てはいけない、と思うとったんですか」
「足跡が残る」
お千は少し笑った。
「どこから来られました」
「北のほうから回ってきた。人通りの少ない道を」
「それでも残ります」
「残るな」
上総介は羽織を脱ぎながら言った。それ以上の言い訳もなく、後悔もなく、ただそこに座った。
お千は茶を淹れた。湯気が囲炉裏の暖かさのなかで揺れた。
この人には江戸に妻がいる。子もいる。自分は女中の娘で、茶摘みをして生きている女だ。身分が違う。立場が違う。この先がどうなるかは、分かっている。
それでも、今夜ここにいる。
お千には、それがすべてだった。
「上総介様」
「なんや」
「今夜は、雪が積もります」
「そうやな」
「跡が、たくさん残ります」
上総介はしばらく黙っていた。囲炉裏の炎が、二人の顔を照らした。
「構わん」
一言だけ言った。

『雪の降る夜は 来ないでおくれ かくし切れない 下駄の跡』
外では雪が降り続けていた。
長屋の周りに、二人分の足跡が、静かに積もっていった。
夜が明けると、雪は止んでいた。
上総介が長屋を出るとき、お千は戸口まで見送った。外に出た上総介は、地面を見た。雪の上に、昨夜の足跡がくっきりと残っていた。来た道と、帰る道。二人分が交差している。
上総介は少しの間、それを見ていた。
「どうされますか」
お千が聞いた。
「どうもせん」
上総介はそのまま歩き出した。
雪の上に、新しい足跡が一つ、加わった。
お千は戸口に立ったまま、その跡が遠ざかっていくのを見ていた。雪の白さの中に、二人分の足跡が残っている。消えることなく、そこにある。
『西も東も 南もいらぬ わたしゃあなたの 北(来た)がよい』
これが、今の自分たちだ、とお千は思った。
数日後、日下部茶舗に荒茶を持っていくと、勇はいつものように竈の前にいた。
この日の勇は、珍しく先に口を開いた。
「お千」
「はい」
「幸せか」
お千は少し驚いた。そんなことを直接聞いてくる勇ではなかった。
「……はい」
「そうか」
勇は焙炉に向かったまま、続けた。
「お母上のことは、俺にできることがあったら言え。それだけは変わらん」
お千の目が、熱くなった。
何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。
勇は振り返らなかった。団扇が、静かに動いていた。
茶の香りが広がっていった。いつもと同じ、小那比の香り。
この香りの中に、勇がいる。この香りの中に、上総介との時間もある。そして母がいる。自分が摘んだ茶が、ここで変わって、また誰かの手に届く。
それが、今のお千の世界だった。
第6章 最後の小那比茶 へ続く
