生成AIと《聖典クルアーン》解釈の協働の方向性
アラビア語に重点を置く大規模言語モデル(LLM)「Jais」の登場
日経電子版の記事「アラビア語を学んだAI誕生」[1]を読んだ。
アブダビ首長国が開設したムハンマド・ビン・ザーイド人工知能大学 (MBZUAI)が、アラビア語圏のAI開発の最前線を走っているという。
折しも、アラビア語対応AIの難しさを専門家から聞いたばかりだったため、興味深く読み進めた。だが、記事中の副学長ティモシー・ボールドウィン博士の発言には、見過ごせない問題が含まれていた。
「標準アラビア語は人工的」なのか?
博士はこう述べている:
「標準アラビア語と呼ばれるものもあるが、人工的で話す人はほとんどいない」
だが、これは明らかな誤解、あるいは誤情報だ。
日本語でいえば、「NHKアナウンサーが話す日本語は人工的だから、ほとんど使われていない」と主張するのに等しい。
「正則アラビア語」は今もなお「共通語」である
「標準アラビア語」とは、実際には「正則アラビア語(الفصحى)」を指している。これは、
クルアーンの言葉であり、
礼拝の言葉であり、
報道・教育・国際会議でも使われる共通語であり、
そしてコナンやキャプテン翼、竈門炭治郎が話す言葉でもある(!)
私自身、ドーハの国際会議でこの言語を用いて、アラブ諸国・非アラブ諸国の研究者たちと研究交流を行った。
「話す人はいない」という認識は、正則アラビア語の実態を無視している。
「クルアーンの新しい詩句は禁止」なのか?
さらに問題なのは、以下の発言である:
「イスラム教では『コーラン』の新しい詩句を作ることは厳しく禁じられている」
これは、クルアーンが唯一無二であることの理解を欠く発言だ。
新しい詩句を“作る”など、もともと論外である。
あえて喩えるならば、「新しい芭蕉の句を生成せよ」という命令によって作られた句が、芭蕉の俳句にならないのと同じことだ。
クルアーンは翻訳できない?その誤解
クルアーンの翻訳は「禁じられている」のではない。
翻訳された時点で、それは聖典クルアーンではなくなるというだけである。
原文アラビア語のみが、唯一無二の「クルアーン」なのだ。
これは聖書(The Bible)と異なるクルアーンの独自性であり、AI設計者が理解すべき核心部分である。
テクストと身体、音声、記憶
クルアーンは聖典とされるが、単にテクストだけがクルアーンではない。
それはアッラーの言葉が、大天使ジブリールを通して音声として伝えられたものであり、礼拝時に信者たちが声に出して読む、体に響かせるテクストでもある。
この音声性・身体性も含めての唯一無二。読み手相互の記憶や世界の共有の鍵でもある。となると、生成AIにクルアーンを作らせるという発想自体に無理があると言わざるを得ない。
「タブー」による遮断が招くもの
むしろ、「クルアーンの詩句をAIに生成させるのはタブーだ」と言ってしまうことで、
解釈の豊かさ、現代における研究の可能性までもが、見えなくなってしまう。
この点で、「無知が無知を呼び込む」危険性がある。
「フィー・アハサニ・タクウィーム」の語根解釈とAI
AIがアラビア語を語根構造から解析するなら、この言語の持つ世界の新たな読みの可能性も拓かれるのではないか。
AIとクルアーン解釈の未来へ
「AIとの協働」とは、こうしたアラビア語の語根構造が切り開く意味世界をつまびらかにすること。
そして、それを通じてクルアーンを、
意識だけでなく、
身体、
呼吸、
音声、
霊的実感の次元で
人間に近づける営みだと考えている。
高度な思弁哲学に依存しなくとも、AIとの共同作業によって形而下の豊かさに届くことが、今こそ問われる。
記者への期待と今後
この記事のもとになっているインタビューは、おそらく英語によるもので、それが日本語で記事にまとめられている。
アラビア語についての記述で覚えた違和感が、記事のまとめ方によるものなのか、副学長自身の認識によるものなのか、あるいは筆者の勘違いによるものなのかは不明だ。
まずはこのnoteを記者に届けたいと思う。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 日経電子版「アラビア語学んだAI誕生」東工大出身の開発者が語る狙い
With AI インタビューテック
2025年5月4日 15:00 [会員限定記事]」
タイトル画像:
Special Thanks Rafy, Wiki-Commons:
Dispersion of Arabic speakers. In dark green, Arabic speakers are a majority. In light green, Arabic speakers are a significant minority.
(以上、縮約版:協力ChatGPT4o。以下に詳細版を掲載)
詳細版――――――――――――――――――――――――――――
生成AIと《聖典クルアーン》解釈の協働の方向性
アラビア語に重点を置く大規模言語モデル(LLM)Jais(ジャイス)
日経電子版「アラビア語を学んだAI誕生」[1]を読んだ。アラブ首長国連邦が中東における人工知能(AI)開発のトップランナーだという。とりわけ同国のアブダビ首長国は、2019年、AIに特化した世界初の大学であるムハンマド・ビン・ザーイド人工知能大学(MBZUAI)を開いた。記事は、同大学で副学長を務めるティモシー・ボールドウィン博士へのインタビューだ。
折しも、アラビア語が難しすぎて英語圏の開発者ではアラビア語に対して即応性を持つAIを作るのが難しいという話を、研究仲間のアラビア語翻訳の専門家から聞いたばかりだったので、なおさら興味をそそられた。ただし、同博士の回答から見えてくる言語としてのアラビア語の特質の理解には目を疑うような内容が含まれていた。余計なお世話ながらこの先進的な取り組みの先行きに不安を感じてしまった。
「標準アラビア語は人工的で話す人はほとんどいない」とは?
インタビューは、アブダビ首長国のAI企業インセプションと共同開発した大規模言語モデル(LLM)「Jais(ジャイス)」の説明から始まる。その強みは、「学習データの多くがアラビア語でアラブ圏の言語や文化に関する知識が深くアラビア語の情報に対する計算効率が高い」とする。引っかかるのが、そこに言われているアラビア語とはいったい何なのかということだ。
日本語と比較してアラビア語の地域による違いがかなり大きいとしたうえで、モロッコで話している言葉とUAEで話している言葉は日本語で言う標準語と秋田弁くらいの違いがあるとして、
「日本と異なるのは、アラビア語で話すときはその土地の言葉を使う点だ。標準アラビア語と呼ばれるものもあるが、人工的で話す人はほとんどいない」とする。
正則アラビア語という言葉
モロッコの方言とUAEの方言はたしかに違う。話すときはたしかにその土地の言葉、あるいは自分の属するコミュニティの言葉を使うことが多い。しかし、この二つの方言のどちらかが「標準」だということはない。「標準アラビア語」と呼ばれるものがあるとするのならそれは「正則アラビア語(フスハー((الفصحى))」と呼ばれるもののはずだ。
聖典クルアーンの言葉、それに伴う礼拝の言葉、ドゥアーと呼ばれる日々の行為のいちいちに際して唱えられる祈祷の言葉、アルジャジーラやアルアラビーヤをはじめとする、報道番組の言葉、小中高から高等教育機関におけるテキストの言葉、アラブ世界中で流されている日本のアニメ、たとえばコナンやキャプテン翼、竈門炭治郎が話す言葉(個人的見解ながら、コナンのアラビア語は聞いていてほれぼれする)。
有用なコミュニケーションツール
また、アラビア語圏の国際会議に出席すれば、そこでの共通言語は、この正則アラビア語だ。ドーハでの国際会議で私は、カタール・シリア・エジプト・サウジ・イラク・オマーンからの研究者たちとはもちろん、フランス・中国・インド・パキスタン・ロシア・マルタ・オランダ・ドイツ・アゼルバイジャン・韓国などからの研究者たちとも、人工的で話す人はほとんどいないというそのアラビア語で挨拶から研究情報の交換まで行った。
仮に、人工的で話す人がほとんどいない標準アラビア語が正則アラビア語のことでないとするのなら、正則アラビア語の存在を無視したアラビア語の情報とはいったい何を指すのか、それはそれで理解に苦しむ。
「新しい詩句を作れ!」の不可能
人工的で使う人のいないこの「標準アラビア語」の疑問に輪をかけるのが、「クルアーン」についての、次の回答である。
「イスラム教では「コーラン」の新しい詩句を作ることは厳しく禁じられている。もしほかのLLM(大規模言語モデル)に「コーランの新しい詩句を書いて」と聞けば、できてしまうだろう。ではJaisはできるか。Jaisにさせるのは非常に難しいはずだ。それは当然で、許容できないタブーがアラブ圏にはあるからだ。」
禁じられているという言い方
「「コーラン」の新しい詩句を作ることは厳しく禁じられている」というが、博士はクルアーンが唯一無二のテクストであることを御存知なのだろうか。神のコトバであることを持ち出すまでもない。すでに完成したテクスト、日本語の世界で言えば、枕草子でも源氏物語でもよい、あるいは芭蕉の句でも。「新しい芭蕉の句を書いて」LLMにと命じて出来たものを、芭蕉の句ということはできない。「コーランの新しい詩句」など、そもそもあり得ないのだ。
だとすれば、何が禁じられているというのであろうか。たとえば、クルアーンを別の言語に訳すことであろうか。クルアーンの翻訳は禁じられているというのは、神聖性の冒瀆というイメージとも重なってなんだかもっともらしい。
しかし、これもまた、まったくの誤解だ。禁じられているのではない。他の言語に移したとたんにクルアーンは、クルアーンであることを止めてしまうのだ。新しく作らないまでも、他の言語に訳されたとたんに、それを聖典の名で呼ぶことはできないということなのだ。この点は、各国語に公式版がある聖書(バイブル)とは事情を異にする。
翻訳はあくまでも原典の一つの解釈に過ぎない、それがどれほど完成度が高いと周囲が認めたとしても、クルアーンそれ自体にはなれはしないのだ。
テクストと解釈
クルアーンは、もともと「読め」という命令とともに聖預言者ムハンマドに降されたアッラーの御言葉である。字面だけが聖典なのではない。コントラストを際立たせるのに非常に長けたアラビア語という言語で、しかも、アッラーからの言葉を大天使ジブリールによるアラビア語への変換によって、音声としてくだされたという側面を併せ持つ。
たとえば礼拝の際に、信者たちは、この聖典の一部分を声に出して読む。つまり体躯に響き渡らせるがごとくなのか、意識に刻み込むようになのか、あるいは刻み込まれたテクストが引き出されることなのか、そうした事柄とも不可分で、しかも20億人の信者にとっての共通のテクストでもあるのだ。
それでもなお、「LLM」に命令すればできてしまうだろうと言えるであろうか。アラブ・イスラーム文化に対する根本的に認識に決定的な欠落があるのではないか。
たしかに、「クルアーンの詩句を書いて」と頼めば、パレフレーズした何かが出てくるかもしれないが、それも、解釈の結果に過ぎないし、唯一無二の文言であることを人工知能が十分に理解していれば、クルアーンそれ自体が出てくる可能性も否定できない(試したことはないし、宗教にかかわるこの手の質問はそれが宗教にかかわる事柄である故に拒絶されるというのが筆者の経験であり、学術研究の一環だと十分に説明すれば、この手の質問に答えを得ることも可能だ)
つまり、唯一無二のテクストであることと、それが解釈を許さないことはまったく別の事柄だ。唯一無二のテクストであるからこそ、クルアーンは、啓示が始まった当初は、ムハンマドの言行によって、その意味の説明が付され、ムハンマドの歿後は、ムハンマドと行動を共にしていた教友たちそして、その後継者たち、さらには、名だたる解釈学者たちによって、昔ながらの、あるいは、新しい解釈が加えられ、現在もなお、解釈学は脈々と引き継がれ、現代にいたるまで、実に豊かな学問的成果を生み出し続けているのだ。
正則アラビア語は過去の遺物?
唯一無二であることの抑えが足りないと、第2、第3のクルアーンがありうるという妄想にかられるのかもしれないが、そのことの危険性もさることながら、さらに危険だなと思うのは、クルアーンを新たに作り出すことがアラブ圏においてタブーであるといったとたんに、クルアーンになじみも親しみもない人々にとっては、気が遠くなるような豊かな解釈学の蓄積の存在は隠され、新たな解釈の可能性の芽まで摘み取られてしまうということだ。
そのことをこの博士が知らなかったのかという点はとにかく疑問だ。
筆者のnote投稿の愛読者であれば、すでにおなじみの話ではあるが、ハリーファ大学(UAEの理系の大学)で講義を行なった際に、「フィー・アハサニ・タクウィーム」の意味について、学生たちの尋ねてみたという話を紹介したことがあった。
学生たちの答えは、ほぼ判で押したように、日本語の対訳が「もっとも美しい姿に」と訳しているのと大差のない、説明が返ってきたのだった。たしかに、こうした理解は、もっとも初期のころに行われていた解釈ではある。
しかし、この表現は、「直立二足歩行ができるような体躯の整え方によって」と解すると、あえて「アハサン」という語、「タクウィーム」という語をもってアッラーが語った理由がしっくりくるのだ。
そしてその背後には、タクウィームの語が「カーマ」(立つ)という語の元をなす3語根「ق-و-م(立つ)」にまで遡ってみると、よりはっきりするし、最新の解釈学の成果では、そのことも踏まえた説明が行われてもいるのだ。
無知が呼び込む無知
しかし、学生たちの理解は、上に述べた通り。アラビア語で、そうしたアラビア語の「世界」への切り口まで聖典のテクストの中に示されているというのに、専門家はともかくも、学生たちのレベルでは、クルアーンのテクストの奥深い世界への切込みが足りていないようにさえ思えた。もちろん、日本語の古典のテキストに出てくる古語の意味を即座に正確に答えられるのかと切り返されれば、自らの無知が露呈するばかりであろう。
しかし、ここでの問題はクルアーンという信仰と社会生活さらには霊的生活の基盤をなす聖典のテクストである。そのクルアーンを人工知能に作らせることがアラブ世界においてはタブーなのだとこの記事は指摘しているのだ。これはつまり、クルアーンそれ自体をタブーとし、禁忌とするようなことにつながりはしないか。つまり、大切すぎるものとして、暗記することはしても、あるいは、暗記を奨励しても、意味については考えないというような。
現に筆者は、バングラデシュやパキスタンの子供たちから、礼拝のためにだけ子供たちにクルアーンを暗記させ、クルアーンの文言に意味があることにすら気づかせないようなクルアーンの接し方が常態化しているという話を聞いたことがある。
これなどは、クルアーンという書が一種のタブーとして祀り上げられてしまっている例とは言えないであろうか。新たなクルアーンをLLMに作らせることを許容できないタブーがアラブ圏にあるというという無知が更なる無知を呼び込む。
思弁哲学を超えて
AIと協働すべきは、アラビア語という言語、3語根をベースにした単語群が世界を作っていくこの特有な「言語」の世界をもっとつまびらかにしていくこと。そのことによってアラブ・イスラーム文化の真相へのアプローチが可能にあるというものであろう。そして、それをベースにしながら、世界の諸言語と紐づけてもみる。
生成AI登場以前、クルアーンのテクストにおけるコトバと存在の問題は、は、たとえばアラヤ識という、意識上のフィルターを想定することによって、意識と本質を論じ、存在のゼロポイントへ立ち返り、あるいは、密教的「空」と結んで、クルアーンという書がアッラーのコトバであり、そのコトバが存在それ自体なのだという高度な思弁哲学だけが頼りだった。AIとの協働によってアラビア語言語世界がよりアラビア語に即した形で開示されれば、クルアーンの世界が生身の人間の心にも身体にも霊にももっと近いところにあるはずだという形而下のありようを明らかにすることができるのではなかろうか。
東工大でも学んだという副学長は、オーストラリア人。啓典の民ではあってもムスリムではなさそうだ。言語と宗教を切り離し、かつ宗教に対して距離を置くタイプの方だったのか、あるいは、取材なり記事のまとめ方の問題なのか。筆者の勘違いの可能性もある。まずは担当の記者さんにこの論考を読んでいただいて、この辺りの事情をたしかめてみたいと思う。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 日経電子版「アラビア語学んだAI誕生 東工大出身の開発者が語る狙い
With AI インタビューテック
2025年5月4日 15:00 [会員限定記事]」
