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口直し

初めて見たり読んだりするドラマや映画や小説が、イマイチ好みに合わなかったとき、よく「口直し」をする。
もう何度も見たり読んだりしていて、「良さ」を十分に知っているもので、心を収める。

兄は「これはもう読んだからいい」と言って、本を人にあげたり古書店に売ったり、録画したドラマなら消していたが、私が手放すのは2度目はありえない(そしてそういうものは、そもそも初回に脱落している)相当に無理なものだけだ。
作品自体が不出来という意味ではなく、私には「無理」ということ。

うんと気に入ったものはもちろんだが、そこそこいけそうなものも基本的に2度は接触する。
1度目は、ストーリーばかりを追いかけて「どうなるんだろう?」と先へ先へと気持ちが動く。
多少描写が雑でも、とりあえず展開を知りたいと思う。

2度目は、言葉の選び方、間の取り方、描かれた背景と、そこに描かれない背景も想像する。
結末がわかっているから伏線の張り方や回収にもひとつひとつ着目する。
最初のときの大きなカタルシスはないけれど、細かいところの納得感がある。

自分のそのときの状況によっても、感じ方が違う。
介護をしていたころは、ひとさまの介護についての文章が参考になったり共感が救いになることもあったが、逆に「でもあなたにはお金があるよな」とか「でも手伝ってくれる夫や子供がいるし」とか、自分との違いが気になってしんどくて心が離れることも多かった。
そしてどんな場合であれ、老いや死を描いたものに触れるのはつらかった。

すべての家族を看取ったいまは、平気になった。
自分がこれから老い、死んでいくことには、さほど反応しない。
それを、自分で意外に思っている。
私は母や兄の死が怖かったのだ。
死にゆく人を見続けている自分の心が、すこしのことでも壊れてしまいそうで。

若いころには沁みなかった言葉に、いま「滋味」のようなものを感じることもある。
そんなとき、「ああこの本を手放さなくて良かった」と思う。
変わってきた自分にもしみじみする。
あるいは、「ああ、私って変わらないな」と思うこともある。
初回に読んでムカついたところに、同じように腹を立てる。
さらには、以前は、どうしてこれを面白いと感じたのかと不思議に思うこともある。

すべての芸術作品は、自分の心のありよう、立ち位置によって左右される。
その振れ具合、振らなさ加減を発見する。
自分のこれまでといまの姿を、別の自分が俯瞰する感覚が、幽体離脱みたいで面白い。

ということで、今季は、ドラマの再観が多い。


「トントンと 玉ネギきざんで泣いてみる 兄が癌だと知らされた日」