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見送らない

誰かと会って、じゃあまたねと別れるとき、その人の後ろ姿が見えなくなるまで見送らずにいられない性質だった。
電車のドアが閉まって、もうその人の影すら見えないのに、乗っている電車ごと視界から消えるまでホームを離れられない。
そうして。

ときどき、まっすぐな道がずっと続くことが辛くなったり、発車の合図があったのに延々と電車が動かないことに「チッ」と思うことがあった。
でも、そういう自分を見せたくなかったし、自身が認めたくなかった。

メールが来て返信をする。
相手がその返信に返信をしてくれる。
それにまた返信する。
延々と「おやすみなさい」が続く。

でも、自分が返信しないことでその応酬を絶ち切ることが、できない私だった。
最後は、私のコメントで終わりたい、というような。

すこしずつ私は変わったと思う。
最初は心がけてそうしようとした。
今は、自然にできる。
誰かと「じゃあね」と言った瞬間に、踵を返すこと。

見送らない。

誰かからもらった、特に返事を必要としないメールに返信をしないで終わること。
私が最後、でなくてもよくなった。

そうできるようになってから、私と友人たちの関係、いや私が友人に抱く感情は格段に良くなったと思う。
ラクにつきあえるようになった。
努力なしに、自然に長いつきあいになった。

忘れてもらえる幸せ、というものかもしれない。
忘れてもらえるから、どんな自分を見せてもかまわない。
相手を傷つけないということには気を配るが、自分が嫌われるぶんにはさしつかえない。

次の約定もない、今生の別れになるかもしれないそれをサラリと言うのが心地良い。
私にとって、努力して作り上げたり、維持したりするものは、家族や職場や近隣との関係であって、友人との関係をそこに入れたくない。
努力して維持しなければならない友人関係なら、切れてしまっても良い。
だから、今、親しくしているのは、見送らないし、返事もほったらかしにできる人たちばかりだ。

でも、その一方で、私が求める友人関係は、やっぱり「トランクの死体」。

理解よりも認容。
それでいてあっさりと、淡々と。

おカネにも家族にも恵まれているとは言えないが、友人関係には結構満足している。

10数年前、「最後まで見送らないではいられない、でも相手にずっと見送られるのもしんどい」と書いた記事に、ブロガー仲間のひとりが「私はいつも、誰に対しても見送りません」とコメントをくれたことに、当時の私はひどく驚いた。

そういう人は、当時の私の周囲にいなかった。

実際に会って話す機会を得たのは、それから3年も4年も経ってからだが、彼は「じゃあ」と別れた瞬間に、本当にさっさと行ってしまった。
そのあまりのあっけなさに、なぜか救われるような思いがした。
それから、私もそうしようと思ったのだ。

「しなければならない」「しないと相手に悪い」という気持ちを、できるだけ排除した自分勝手なつきあい。

「あなたのために」はしないし、要らない。
それぞれが「自分のために」するつきあい。
そのわがままさと気まぐれ感がいい。

それでも、途切れることもなく、だらだらと友達でいる、そういう人たちに恵まれたことをありがたいと思う。

「大丈夫かと
 問う友の
 やさしさ
 問わない友の
 やさしさ」