時が消えた島 第四章<人形の囁き>
第四章 人形の囁き
1
僕はこのアルバイトに誘われたときを思い出していた。
アリサと一緒の楽しい旅を想像していたのに、メールが来て一人旅になってしまった。
「準備があるから先に行くって言ってたけど、準備は済んだの?」
「別に、大した準備じゃないのよ」
そして、まるで思いついたように付け加えた。
「チケットを変更して、別の電車で来たの。だって、あまり親しくもないあなたと新幹線で隣の席だなんて、気まずいでしょ?」
その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、どこか冷たい光が宿っていた。
自分で誘っておいて、随分な言い草だ。
落ち込んでいるのを悟られないように、僕は島に来てからの出来事を、淡々と語り始めた。まるで、遠い昔の出来事のように。
「……毎日子供たちの食事を作って、家の掃除をしていた。余った時間で、庭の木を剪定して花壇を作った」
アリサは僕の話を聞きながら、時折、意味ありげな視線を宙に彷徨わせた。
そして突然、ボストンバッグを掴み、子供たちに会いに行くと言って立ち上がった。
僕は慌てて後を追う。
途中、木々の隙間を縫って褐色の野うさぎが飛び跳ねていた。
アリサがふと足を止める。
「見て、かわいい」
野うさぎはじっとこちらを見ていた。僕もつられて見つめ返す。
「ワン、ツー」
突然、アリサがカウントを始めた。
「え?」
「にらめっこよ。ほら」
アリサの無邪気な振る舞いに思わず頬が緩む。
僕と野うさぎは見つめ合った。
どれだけの時間が過ぎたのか分からない。
アリサの告げるカウントが耳を素通りし始めた時、野うさぎは踵を返し、一瞬の躊躇もなく森の奥へと消えていった。
「あなたの勝ちよ!」
アリサが僕の手を持ち上げた。
その手のひらは意外に冷たく、僕は一瞬身震いした。
2
木々の間を縫うように続く小道。
荒波が打ち付ける絶壁を見下ろしながら歩くと、元いた古民家に辿り着いた。
ドアを開け、アリサを招き入れる。
扉を開けた瞬間、玄関に立ち込める塵と古木の匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
ここに来てからの習慣で、僕は無意識のうちに夕食の準備を始めていた。
「キミも食べるでしょ」
まるでずっと前からそうしていたかのように、体が勝手に動く。
「ええ、いただくわ」
アリサはそう言いながらも、手際よく支度を手伝ってくれた。
その姿は、まるでずっとこの家で暮らしていたかのように自然だった。
気が付けば、僕は食卓に座って、出来上がるのを待つ身となっていた。
アリサが次々と料理を並べていく。
食卓の向こう側には子供たちの分、こちら側には僕たちの分。
本物の家族みたいだ。
鍋から立ち上る湯気が彼女の顔を幻想的に照らし出し、その表情がより神秘的に見えた。
アリサが僕の隣に腰を下ろすと、階段をトコトコと足音を響かせ子供たちが降りてきた。
そして、向こう側の席に並んで座った。
三人とも同じ高さ同じリズムで足を動かし、同時に椅子に腰を下ろす。その動きの同調性に、僕は一瞬違和感を覚えた。
「わー、かっわいい」
アリサは、子供たちの顔を覗き込むようにして言った。
けれど、その声はどこか作り物めいていて、心からの喜びというよりは、何かを演じているようにも聞こえた。
彼女の声に含まれる微妙な不協和音が、僕の神経を逆なでした。
「ねっ、お名前はなんていうの?」
アリサが優しい声で問いかけると、子供たちはまるで操り人形のように揃って微笑んだ。
無機質な笑顔だった。
その瞳は光を反射せず、まるで黒曜石のように深淵な闇を湛えている。
僕は思わず背筋を伸ばした。
「もしかして、話せないの?」
アリサの問いかけに、三人の子供たちは一瞬だけ互いに視線を交わした。
それも、寸分の狂いもなく、まるで一つの意思を持っているかのように。
その光景に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。
彼らの間には、言葉を超えた何か異質な繋がりがあるように思えたのだ。
沈黙の中で交わされる彼らの視線には、人間離れした何かが宿っていた。
その時、背筋を凍らせるような強い視線を感じた。
鋭利な氷の刃が背中を這い上がるような感覚。
心臓が、まるで喉までせり上がってくるように、激しく鼓動を打つ。
息をするのも忘れて、ゆっくりと顔を上げた。
階段上の暗闇の中に、ぼんやりとした人影が見えた。
それは微動だにせず、ただじっとこちらを見下ろしている。
その存在は、まるでこの古民家に巣食う悪霊のようだ。
視線は鋭く僕の魂を突き刺す。
冷や汗が噴き出し手足が震え始めた。
人影は僕を嘲笑うかのように、じっとこちらを見つめている。
その視線に耐え切れず、目をそらそうとしたが、どうしても視線を逸らすことができない。
息苦しさを感じ喉がカラカラに乾いた。
恐怖で体が震え歯がガチガチと音を立てている。
アリサは僕の異様な様子には気づいていないのか、あるいは気づいていても無視しているのか、一人で喋り続けた。
僕の視界の端で、彼女の唇が動き続けるのが見えた。
「もしかして、三つ子ちゃん? 顔も雰囲気もそっくりね」
「恥ずかしいのかな。お姉さんはみんなのこと可愛いと思うわ」
「このお兄ちゃんは優しくしてくれた? ちょっと頼りないところもあるけど、根は良い人なのよ」
彼女は僕をちらりと見て、子供たちに問いかける。
その瞳に宿る何かが、僕の心に不安の種を撒いた。
「ふーん、そっかー」
独り言のように、アリサは言葉を紡いでいく。その声はどこか遠くから聞こえてくるようで、現実感がなかった。水中から聞こえてくる声のように歪んでいる。
「お姉ちゃんはね、大学生で、いま夏休みなのでアルバイトでここに来たのよ。このお兄ちゃんは同級生」
彼女は僕を見て、それから子供たちに笑顔を向けた。
「ううん、彼氏じゃないの。ただの同級生。そう、ただの同級生よ」
そこだけ僕に向けられた台詞のように聞こえた。
その言葉は僕の心に小さな傷を残した。
階段の上の人影はいつの間にか消えていた。
やはり気のせいだ、無理やり自分にそう思い込ませた。
子供たちは相変わらず無表情で、アリサと僕の顔を交互に見ている。
その視線は何かを観察するようで、ぞっとするほど冷たい。
彼らの瞳には好奇心や温かみといった感情の欠片も見当たらず、ただ黒い水晶のように光を吸い込んでいた。
アリサの存在が、この場の空気を異質なものに変えている気がした。
彼女が来る前の静寂とは違う、何か不穏な緊張感が部屋に満ちていた。
アリサが自分のスマホに目をやった。
僕のスマホはとっくに電池が切れてしまっているが、アリサのスマホはまだ生きているようだ。僕もアリサも腕時計をしていないので、それが唯一の時間を知る手段だった。
「そうだ、良いもの持ってきたんだ」
アリサはそう言うと、ボストンバッグから小さな箱を取り出した。それは、古びた木箱で、表面には見慣れない模様が彫られている。爪で引っかいたような細い線が、幾何学的な図形を描いていた。
「これ、お土産に買ってきたの。大学の友人に配ろうと思って買ったんだけど、キミたちにあげるわ」
箱を開けると、中には小さな人形が入っていた。
それは、目の部分だけが妙に黒く塗られていて、まるでこちらを覗き込んでいるように見えた。人形の顔は子供たちのものに似ていたが、微妙に歪んだ笑みが浮かんでいた。その笑みには、何か秘密を知っているような不気味さがあった。
「はい、どうぞ」
アリサはその人形を一つずつ、子供たちに手渡した。子供たちは無言でそれを受け取ると、じっと見つめている。
その表情は喜びとも興味とも違う、何か得体の知れない感情を宿しているように見えた。まるで、長年失っていた大切なものを取り戻したかのような、奇妙な親密さで人形を見つめていた。
「さっ、寝よっか」
心臓が跳ね上がった。
だけど、子供たちが人形を抱きしめたまま立ち上がったのを見て、自分の勘違いに気が付いて赤面した。
同時に、言いようのない不安が胸を締め付けた。
「わたしはこの子達と二階で寝るから、覗きに来ちゃ駄目だからね。約束よ」
アリサは、そう言って、子供たちの手を引いて階段を上っていく。
その指先が子供たちの小さな手を包み込む様子に、僕は言葉にできない違和感を覚えた。
その背中を見ていると、まるで彼女が、子供たちをどこかへ連れて行こうとしているように見えた。
階段の上の闇が、彼女たちを飲み込んでいく。
最後に見えたのは、アリサの長い髪が階段の暗がりに溶けていく様子だった。
3
翌朝、子供たちが二階から下りてきた時、アリサの姿はなかった。
畳の上には、アリサのボストンバッグが、ぽつんと残されている。まるで、彼女が何かを忘れていったかのように。
きっと長旅で疲れているのだろう。
僕の横に並べたアリサの分の朝食はそのままに、子供たちと食事をとった。
昨夜、アリサがいることで賑やかだった食卓が元の寂しいものに戻っていた。
僕にとってアリサの存在は特別なものだった。そんな彼女と家族のように過ごした昨夜の晩御飯の情景が、僕の脳裏に虚しく蘇った。
窓から差し込む朝の光が、アリサの空席を無情に照らしていた。
朝食を終えて子供たちが二階に消えても、アリサは姿を見せない。
心配になった僕は、二階へ様子を見に行くことにした。
いきなり顔を出すのは失礼なので、階段半ばから声を掛けた。
「大丈夫? なにか必要なものとかある?」
返事はない。
部屋に漂う沈黙が、僕の声を飲み込んでいくようだった。
恐る恐る階段の上まで上り詰めた。そこには、さっき上がって行ったはずの子供たちもアリサの姿も無かった。
階段の先は、昼間でもどこか薄暗い。まるで、誰かが手招きしているような不自然な闇だった。
微かに甘い香りが漂っていた。
昨夜アリサが子供たちに渡した人形から漂う香りだろうか?
僕は、空っぽの部屋で立ち尽くした。
アリサは、一体どこへ消えてしまったのだろうか?
そして、子供たちは……?
昨夜の人形、アリサの奇妙な言動、そして、この古民家に漂う不気味な雰囲気。
全てのピースがバラバラのまま、僕の頭の中で渦巻いている。
まるで、何か大きな恐ろしいパズルの欠片のように。
部屋の隅から、僕には聞こえない何かが囁いているような気がした。
つづく
第五章はこちら↓
全体↓
