時の消えた島 第五章<狂気の胎動>
第五章 狂気の胎動
1
アリサが姿を消した。
だけど何時までも心配しているわけにはいかない。
子供たちと家の世話をしなければならないのだから。
夕刻、畑で野菜を収穫して米を研いでいると、佐吉じいさんが音もなく現れた。
無言で大皿を差し出す。
皿には赤みを帯びた肉の塊が乗っていた。
山でにらめっこをした野うさぎの姿が脳裏をよぎったが、強く頭を振ってその映像を振り払った。
佐吉じいさんがくれる肉は、あらかじめ独特な香辛料で味付けされていて、焼くだけで香ばしい香りが立ちのぼる。
外はカリッと中は柔らかく、どこか異国の風味がした。
肉の断面から滲み出る肉汁が、口に含むと舌の上で踊る。
晩御飯を子供たちと食べ終えると、また一つ想い出がこの家に取り込まれた気がした。
壁や天井が、わずかに膨張したように感じる。
2
ある日、木の実を探して山の中を歩いていると人の気配を感じた。
振り返っても誰もいない。
目線を上げると、子供たちが高い位置にある枝から枝へササッと飛び移っていた。
地上の僕を見つけると、天真爛漫な笑顔を見せる。
傍目には危ないはずの高さなのに、彼らは全く怖がる様子がない。
子供たちの後に付いて行くと果実の宝庫を知ることが出来た。
紫色に熟した木イチゴ、黄金色の蜜が滴る洋梨、見たこともない斑点模様の実。
野鳥の卵の在り処を教えてくれたこともある。
晩御飯にそれを加えると、ニコニコと三人で頷きあっている。
そんな仕草を見るたび、たまらなく愛おしくなった。
晩飯を終えて片付けを済ませたあと、湯船に浸かっていたら、意識が遠のいてしまった。
森の中を歩いていた。
生い茂る草を払いのけながら進んでいく。
枯草を踏みしめる乾いた音が鼓膜に届いた。かさこそと物音が伝わってきた。
朦朧とした意識の中で、それが部屋の方から聞こえてくることに気が付いた。
湯船の縁を掴み、水面を揺らす。
着替えて部屋に戻ると、ちゃぶ台の上に見慣れないものが乗っていた。
近づいて見ると、それはバースデーケーキだった。
十九本のロウソクが揺らめきながら灯っている。
今日は僕の誕生日だと知った。
息を大きく吸い込んで一息でロウソクを吹き消した。
拍手の音が聞こえてきた。
目の前に三人の子供たちが座って、小さな手を精一杯叩き合わせていた。
その瞳は炎の光を反射して琥珀色に輝いていた。
バースデーケーキを子供たちと分けて食べた。
言葉には出さないけれど、表情から祝ってくれているのが分かった。
子供たちの無垢な笑顔を見ていると、言葉にならないほどの喜びと寂しさが入り混じって、胸の奥がじんわりと熱くなった。
額の奥が暖かくなって、子供たちの姿が霞んで見えた。
頬から垂れた雫が焦げ茶けた畳に拡がった。
その染みを見つめながら、嬉しくて涙を流したのはいつ以来だろう、と考えた。
3
変わらない毎日の中で、違和感を覚えることがあった。
食事の後、子供たちが立ち上がったときにその違和感が形となって現れた。子供たちの背が伸びていた。子供の成長は早いと言うが、僕がここに来てからどれくらいの時間がたったのだろう。腕時計は壊れたまま。カレンダーもない。
そして、もう一つの違和感も姿を見せた。いつも使っている釜の位置が高くなっていた。
ちゃぶ台も、引き戸の取っ手の位置も高くなっていた。
手にしていたお玉が、まるで棍棒のように重く、大きく感じられる。
懐中電灯を探して暗い縁側を照らすと、床から天井までの距離が以前より遠く感じた。
夜の窓ガラスに映る自分の姿を見て、自分が小さくなっていることに気が付いた。
小学生くらいの男の子が首を傾げてこちらを見ていた。
その顔は僕のものだ。しかし、どことなく違う。
今日が何月何日なのか分からない。
夏休み中のアルバイトだった気がするけれど、その前にどこで暮らしていたのか思い出せない。
両親の顔も、友達の名前も、霧の彼方に消えていく。
それでも僕は、食事を作り、家の世話を続けた。
肌寒くなってきた。
幸いなことに、倉庫には秋冬物の洋服も用意されていた。
子どもサイズのものが整然と畳まれている。
冬が来て、コートを羽織って外を歩き回るようになった。
足跡は小さく、でも歩幅は大人のままだった。
畳の一部分を外すと掘り炬燵になった。
火種を持った炭を入れて暖をとった。
子供たちと膝を寄せ合い、炬燵の温もりに包まれる。
彼らの体温が心地よく、僕は幸福感に浸った。
寒さをじっと耐えていると、庭の梅の木に白い花が咲き、花壇の彩りが春を運んできた。
4
そして、またあの夏がやってきた。
僕は船着き場でぼんやりと波間を眺めていた。
水平線の彼方から何かが近づいてくる気配がした。
やがて、一艘の小舟が着岸して、大きなリュックサックを背負った一人の青年が降りてきた。
青年は松並木目指して歩き出した。
砂に足を飲み込まれそうになって、慌てて石畳に飛び乗った。
僕のことが見えないみたいで、じっと松並木を見上げている。
顔立ちのどこかに懐かしさを感じた。
その時、木の上から子どもたちの声がした。
嬉しそうにキャッキャッと枝を揺すって、歓迎している。
しかし青年には、松並木の静止画しか見えていないようだ。
無機質な表情のまま固まっている。
どれほどの時間が経過したのか定かではない。
海風が心地よく鼓膜をくすぐっている。
潮の香りが記憶を刺激する。
砂浜に巻貝が打ち上げられていた。
水を含んだ砂の上に、殻の出口を上に向けて何度か波に攫われそうになった。
その時、殻から足が飛び出した。
くるっと殻を回転させると、足を砂浜につけて歩き出した。
ヤドカリだった。
ヤドカリは自分の身体には大き過ぎる殻を引きずって、よたよたと歩いている。
重そうな殻が砂に小さな軌跡を残していく。
本で知ったヤドカリの生態を思い浮かべた。
自分のサイズにぴったりの殻に収まっていることの方が珍しい。
いつも、より適したサイズの殻を探し回っている。
自分にフィットしたものを見つけると、それが他のヤドカリが身に着けているものでも、奪い取ろうとする。
殻を乗っ取る生き物。
ヤドカリはトコトコと幼児のように歩いて、流木の下に潜って見えなくなった。
なぜか自分を見ている気がした。
沖に視線を転じた。
舟が米粒大になっていた。
視線を戻すと、青年と目があった。
初めて僕の存在に気が付いたみたいだ。
その瞬間、強烈な既視感が襲ってきた。
青年のリュックの色、松並木の揺れ方、潮の匂い。
すべてが以前にも経験した記憶と重なる。
いや、記憶というより、繰り返された映像を見ているような感覚。
自分が演じているはずの物語を、別の視点から眺めている気分だった。
「お迎えに上がりました」
口が勝手に動いていた。
言葉は僕の中から出たはずなのに、どこか外側から吹き込まれたような背筋がぞくりとする感じがした。
「ああ、迎えに来てくれたんだ」
青年は嬉しそうに目を細めた。
僕は頷くと、丁寧に頭を下げてから青年を先導して歩き始めた。
砂を踏みしめる感触が、小さな足の裏に広がる。
棲家に着くと青年に一通りの説明をした。
「この島に携帯の電波は届きません。もちろん固定電話もありません」
この島には電気もガスもない。井戸から汲み上げた水を使う。薪をくべてご飯を炊き、風呂を沸かす。
実演して見せた。
少し驚いた風の青年を食糧庫に案内した。
棚には乾物や保存食が並んでいる。
「動物の肉を捌いたことはありますか?」
不躾な質問に青年は慌てて手を振った。
「捌くだなんて、そんな恐ろしいことはできないよ。牛や豚はもちろん鶏でも捌けない」
「そうですよね。じゃあ、佐吉じいさんに期待するしかないですね」
「佐吉じいさん?」
「はい、佐吉じいさんが食料の補充をしてくれます」
「その佐吉じいさんが補充してくれるから、食料の心配はしなくて良いということかな?」
「佐吉じいさんが持ってきてくれるのは、米と木の実と干し魚、それとごく稀に肉料理です。野菜だけは自分で畑から収穫します。もちろん、畑の世話もお願いします」
青年に教えながら食事の支度を終えた。
説明しながら作る調理の音が、なぜか録音されて再生されているような気がした。
食卓に食事を並べ終えたところで、二階から子供たちが降りてきた。
僕と青年が並んで座り、子供たちは向かい側だ。
皆で食卓を囲んだ。
子供たちが青年を観察している。
彼らの黒い瞳孔が、わずかに収縮した。
ここまでで、青年への引き継ぎは完了したことになる。
食後一緒に片付けを終えてから、僕だけ二階に上がった。
昨日までは一階で寝ていた。
次に来た者が一階で寝て、引継ぎを済ませた者は二階で寝ることになっている。
こんなルールがあったことを、今初めて知ったような感覚。
でも、確かにそうだと思い出した。
二階の押し入れを開けて、布団を出そうとしたら一通の封書が畳に落ちた。布団の間に挟まれていたのだ。
拾い上げて確かめると、宛名に僕の名前が示されていた。
裏返してそこに書かれていた名前を見て、僕は動揺して封筒を落としてしまった。
──アリサより
つづく
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