時が消えた島 第二章<ねじれた影絵>
第二章 ねじれた影絵
1
翌朝、朝食の支度をしていても少年は姿を見せなかった。
子供たちは決められた時間ぴったりに下りてきて、食卓についた。
相変わらずニコニコと無言で、淡々と口元だけを動かしている。
僕はその小さな咀嚼のリズムを見つめながら、少年はどこかに消えてしまったのでは、と考えて始めていた。
しかし、子供たちの無垢な笑顔が、そんな考えを霧のようにぼんやりと溶かしてしまう。
食事を終えると、子供たちは手を合わせ無言で立ち上がった。
木の床に足音を吸い込まれるように、静かに二階へと上がっていく。その後ろ姿を見送っていると、少年の不在について疑問を抱くことさえ、どこかためらわれた。
まるで、彼が最初から存在しなかったかのような錯覚にさえ陥る。
夕刻、畑でいくつかの野菜を摘み、背後に広がる薄紫色の空を振り返った。遠く、囲炉裏の煙が細い筋になってたなびいている。
調味料を取りに食糧庫へ向かうと、そこで一人の老人と鉢合わせた。
少年の言っていた佐吉じいさんに違いない。
骨ばった浅黒い手で、米袋を棚に押し込もうとする老人の姿は、まるで枯れ木の根が壁に絡みついているかのようだった。彼の目は深い影を湛え、物言わぬ孤独を宿しているように見えた。
僕に気づくと、佐吉じいさんは無言のまま手にした大皿を差し出してきた。
そこには、血の気を帯びた赤黒い肉の塊が鎮座していた。
「たまに佐吉じいさんが肉を差し入れしてくれます」
少年の言葉を思い出した。
確か佐吉じいさんは口はきけないが聞こえている筈だ。
「……ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、じいさんはかすかに顎を引いた。しかし声を発することはない。
肉は生々しく、どこか異様な艶を帯びていたが、今夜の食卓にはこの上ないご馳走だった。
「今夜はご馳走だぞ」
そんな声を子供たちにかける自分の姿を思い浮かべながら、僕は大皿を抱えて食糧庫を後にした。
2
少年がいなくなった後も、僕は変わらず子供たちのために食事を作り、古民家の世話を続けた。
体がやることを覚えていて、僕は自分の体の傍観者であるような錯覚に陥ってしまう。まるで古民家に操縦されているみたいだ。
納屋から剪定ばさみと脚立を持ち出し、家の周囲に絡みつく枝葉を払い落とした。
積み重なった落ち葉を掃き、草むらに埋もれていた小道を露わにしていく。
作業の合間に見つけた花の種を手に、玄関先の片隅に、ささやかな花壇も作った。
ほこりにまみれた家に、色とりどりの花が咲き誇るさまを思い浮かべて、思わずにやけてしまった。
自分にそんな感情が残っていたことに、少なからず驚いた。
そして、ふとした瞬間に少年の面影が脳裏をよぎる。
あの澄んだ瞳、柔らかな笑み。
彼は今、どこで何を見ているのだろう。
思いを巡らせても、ただ空白だけが胸に広がる。
子供たちは相変わらず食事の時だけ二階から姿を見せ、食事が終わると手を合わせてから二階へと姿を消してしまう。
彼らがどのように眠りについているのか、これまで確かめたことはなかった。
その夜、僕は妙な好奇心に駆られた。
子供たちの笑顔が薄ら寒かった。目すら合わさなかった。その瞳の奥に、何か秘密が隠されている気がしたのだ。
初日に少年の後を追って二階に上がろうとした時、一階で寝るように言われた。あれからずっと、二階へは立ち入ってはいけない気がしていた。
僕はそっと階段を上がり、初めて二階へ足を踏み入れた。
しかし、そこには誰もいなかった。
畳が敷かれた広間には、寝具らしきものも、生活の痕跡すらも見当たらない。
ただ、壁にかけられた一幅の古びた掛け軸が、かすかな月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
どこへ行ったのだろう?
部屋の中の空気は、しんと冷えていた。
そこに生の気配など初めから存在しなかったかのように。
僕は二階で眠ることにした。
電気のない暮らしでは、夜の闇はとてつもなく早く、濃く迫ってくる。
風が障子をわずかに震わせる音が、だだっ広い部屋に空虚に響いた。
けれど布団に身を沈めても、眠気は一向に訪れない。
今も彼らは、この家のどこかにいるのだろうか。
それとも、とうに……?
そんな考えが頭をぐるぐると回り続ける。
枕元の行灯が、ほのかに揺らめいていた。
淡い光が天井に影を落とし、ゆらゆらと、木目に沿って歪んでいく。
ふと、僕は天井の木目に目を凝らした。
あの無邪気な子供たちが、天井裏からひょっこりと顔を覗かせるのではないか。
そんな錯覚に捕らわれながら、いつしか僕の意識は、じわりじわりと深い闇へと沈み込んでいった。
どこか遠くで、楽しげな笑い声が聞こえる。
……え?
突然、頭上を駆け回る足音がして、僕は目を覚ました。
キャッキャッ、キャッキャッ……
楽しそうな笑い声が、部屋中にこだましている。
行灯の淡い光の中、壁一面に奇妙な光景が広がっていた。
そこにいるのは、子供たち――
いや、正確には、子供たちの影だった。
小さな手足をひょこひょこと動かしながら、影たちは壁いっぱいに駆け回り、飛び跳ね、時には宙を舞っている。
彼らは声をあげ、じゃれ合い、楽しげに戯れていた。
僕は目を見開き、身動き一つできなかった。
体を包む恐怖は、冷たい霧のようにじわじわと広がっていく。
まるで、ガリバーが小人たちに縛られているかのようだった。
必死に体を動かそうとするが、手足は鉛のように重い。
やめろ、考えるな!
必死に雑念を振り払い、強く目を閉じた。そして、再び、恐る恐る目を開く。
その瞬間、肩から力がすうっと抜け、重くのしかかっていた拘束感が消えた。
僕は震える手で行灯を手に取り、周囲を見回した。
子供たちの影は、もうどこにもなかった。
壁には、僕自身の影が、淡く揺れているだけだった。
耳を澄ますと、外から、かすかな波の音が聞こえてきた。
ザザン、ザザン……
遠い世界の存在が、そっと僕に語りかけるかのようだった。
少年は、どこへ消えたのだろう?
佐吉じいさんは、いつもどこで何をしているのだろう?
心の奥底に巣食う不安を、何とか追い払おうと、僕は深く息を吸い込んだ。
けれど、胸の奥にひっそりと巣食った影は、容易に消えそうにはなかった。
つづく
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