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時が消えた島 第三章<螺旋>

第三章 螺旋


昼間の船着き場は、時が止まったかのようにひっそりとしていた。

打ち上げられた流木が物言わぬ巨人の骨のように無造作に転がり、その影だけが時の経過を示す日時計のように伸びていた。
照りつける太陽の下、砂浜は白く眩しく輝き、目を細めずにはいられない。

標識らしきものは何もなく、時刻表もなければ案内板もない。
いつ船が来るのか、あるいは本当に来るのかさえ見当もつかない。

干からびた海藻が潮の香りを強く放ち、その匂いが記憶の糸を引っ張るように、初めて島に降り立った日の感覚を呼び覚ました。

この島に降り立った時は少年が迎えに来てくれた。
彼の案内で歩いた道を思い出し、反対方向へ目を凝らし歩き始めた。
左手に見えていたはずの海岸線は、今は右手に広がっている。
砂を踏みしめるたびに、キュッキュッと微かな音が響く。この島が僕の存在を確かめているみたいだ。

砂浜から一転、松並木に沿って緩やかな山道が始まった。
どこまでも同じ風景が続く小道は、出口のない迷路のようだ。ただ波音だけが永遠に繰り返されている。そんな気がして、背筋がうすら寒くなった。

木漏れ日がまだらに落ち、松ぼっくりが散らばっているのが見える。
潮風が松葉をざわめかせ、時折吹き抜ける風がシャツの裾を遠慮なく揺らした。

道の脇には、楚々とした白い花が群生していた。ふと手を伸ばせば、控えめながらも可憐な香りが鼻先をくすぐる。

やがて、松林を抜けると視界が一気に開けた。
木々の間から斜めに差し込む午後の光が、まるで舞台照明のように一軒の建物を浮かび上がらせる。
目に飛び込んできたのは、見覚えのある古民家だった。いや、見覚えがあるというよりも、あまりにも見覚えがありすぎる建物が。

「……え?」
心臓が胸の奥で弾けるように跳ね上がった。
まさか、元の場所に戻ってきてしまったのか?
いや、それはあり得ない。
この島を一周してきたのだから戻るはずがない。

デジャヴというにはあまりにも鮮明な光景が目の前に広がっている。
それでいて、何かが決定的に違和感を放っていた。

見慣れたはずの家なのに、どこか見知らぬ家のような不思議な感覚。
幼い頃に通った懐かしい道が、大人になって歩くと妙に小さく感じるような、あの感覚に似ていた。

海が見える方向も、庭の植え込みの配置も、微妙に、本当に微妙に印象が異なっていた。

まるで夢の中で見た風景が現実に滑り込んできたような、そんな不気味な既視感。
誰かがこの世界を鏡越しにひっくり返したような違和感が、皮膚の裏を這い回った。

「いや、そんなはずはない」

目を凝らして見る。
気のせいではない。
確かに、これは今まで自分がいた家とは左右が逆の造りになっている。
玄関の位置、窓の場所、庭に置かれた石灯籠の配置。
全てが鏡に映したように反転している。
鏡の中に吸い込まれるような奇妙な錯覚に襲われ、足元がふらついた。
平衡感覚を失いかけ、近くの木の幹に手を伸ばしてなんとか体勢を保つ。

落ち着け。

僕は何度も深呼吸を繰り返し、額に滲む汗を手の甲で拭った。

目を瞑り、頭を強く振ってみる。
状況が変わるわけではないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
両手で自分の頬をパンパンと叩いてから、覚悟を決めて古民家の引き戸に手をかけた。
木製の扉は、湿気を吸って少し重たい。

「ごめんください」

声を出すと、喉がひりついた。
土間に足を踏み入れる。
ひんやりとした空気と、微かに埃っぽい匂いが鼻を突く。

「誰かいますか?」

再び声を張り上げてみる。
静寂が支配する空間に、僕の声だけが異物のように虚しく響き、そしてすぐに家の古い木材に吸い込まれていった。

その時、耳をすませると二階から微かな物音が。そして軽やかな足音が階段を下りてくる。
それは、まるで小鳥がさえずるような、無邪気で軽い音だった。
心拍数が上がるのを感じる。

階段の上から、白いワンピースの裾がふわりと揺れ、古びた階段の影との対比が幻想的だ。
窓から差し込む淡い光を浴びて、その白さが際立って見えた。
そして、ゆっくりと階段を下りながら顔を覗かせたのは。

「遅かったわね」

アリサだった。

少し不機嫌そうに眉をひそめた彼女の姿に、安堵と混乱が同時に押し寄せる。
しかし、ワンピースに描かれた淡い花柄模様と、首元でほんのりと揺れる髪が、どこか柔らかい印象を与えてくれた。
目が合った瞬間、彼女の瞳に映る僕自身が、この状況の非現実性を物語っているようだった。

久しぶりに会えたアリサに、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。

「さっき、船着き場に迎えに行ったのよ。あなたが来る時間だったから。でも、ついさっきまで待ってても船は来なかった。だから諦めて戻ってきたの」

「さっき……?」

僕は口を開けたまま、言葉を失った。
頭の中がぐるぐると渦を巻いている。
彼女は、船着き場で僕を待っていたというのか?

「この島に来てから、何日も経っているのに?」

ありえない。
僕がこの島で過ごした時間は、決して短くはなかったはずだ。
子供たちと過ごした騒がしい日々。夜の静寂、そしてあの得体の知れない不安。
それらは全て、幻だったというのか?
納得がいかない。
あまりにも現実離れした状況に、思考が追いつかない。

アリサは、僕の混乱ぶりを面白がるように肩をすくめた。そして、ポケットからスマホを取り出して僕に見せた。
画面に表示された日付は、僕がこの島に到着した日だった。

「そんな……」
言葉にならない呻きが漏れた。

「夢でも見てたんじゃない?」
僕は返す言葉を見つけられず、無邪気に笑うアリサを見つめていた。
あれは、本当に夢だったのか?

アリサは、楽しげにクスクスと笑った。
その笑顔が少し残酷に感じられた。
目の前の現実はあまりにも奇妙で、言葉で説明することなど不可能に思えた。
仕組まれた舞台の上に立たされているような感覚が、全身を包み込んでいた。

「良い子だから、落ち着いてね」
弟を諭すような口調でアリサが微笑みかける。

「コーヒー淹れてあげるからさ」
やかんが沸騰を告げる呑気な声が聞こえてきた。

縁側に腰掛けた。
庭の緑を眺めていると、アリサがコーヒーカップを持ってきてくれた。湯気の立つカップを両手で握りしめた。
アリサが側にいてくれることが、今はただただ嬉しい。

「へぇ、ここにはコーヒーがあるんだ」
驚きと少しの感激が入り混じった声が漏れた。
あの家には、電気もガスもなかった。コーヒーを飲むことなんて想像すらできなかった。

「それほど珍しいものでもないでしょ?」
アリサはカップを手に僕の隣に座った。

「いや、あっちの家では文明から遮断されてたからね。電気もガスもなくて、スマホも圏外だったし」
「それはここも同じよ。コーヒーは電車の待ち時間に駅の売店で買ってきたの。井戸水を汲んで、薪で沸かして、いろいろ手間がかかったわ」
アリサはそう言いながらカップを持ち上げた。

「特別な一杯だな……」
僕はカップに口をつけた。
熱い液体が喉を通り過ぎ、じんわりと体中に染み渡る。
苦みと甘みのバランスが絶妙で、その味わいが一時の間すべての疑問を忘れさせてくれた。
しかし、カップを置く音が左右逆から聞こえてくるような錯覚に、再び現実感が揺らぐ。

「うん、美味しい。今まで飲んだどのコーヒーよりも格別に美味しい」
それは、決して社交辞令ではなかった。
粗い陶器のカップから立ち上る湯気が頬を撫で、小さな幸福感が体中を巡る。
電気もガスもない日々の後に、この温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく感覚は何とも言えない安らぎだった。
過酷な状況下で飲む温かいコーヒーは、高級カフェで飲む最高級のそれよりも何倍にも美味しく感じられた。

「インスタントだけどね」
アリサが悪戯っぽく笑った。
その笑顔の角度と光の加減が頬に小さな影を作り、どこか儚さを感じさせる。
それでも、その表情に少しだけ心が和んだ。
窓の外から聞こえる波の音と、カップを握る手の温もりが、この瞬間だけは現実であることを告げていた。

「そもそも、このアルバイトって何なの?」
僕は、この状況の根本的な疑問をぶつけた。
何が起こっているのか、さっぱり分からない。
アルバイトの内容すら、まともに知らされていないのだ。

「あなたが何も訊いてこないから言わないでおいたの。その方が楽しいでしょ、ミステリーツアーみたいで」

アリサは、どこまでも飄々としている。
しかし、その言葉の裏には、何かを隠しているような気配も感じられた。

「……確かに、ミステリーだ」
笑うしかない。

まさか、こんなにも奇妙で不可解なミステリーに巻き込まれるとは、思ってもいなかった。

アリサは興味深そうに僕をじっと見つめる。
その瞳は、まるで何かを探るように、深く、そして鋭い。

「このアルバイトはネットで検索して見つけたもの。『住み込みで一週間世話をする』とだけ書かれてた。そして破格のバイト料が提示されていたわけ」

「怪しいにもほどがあるな」

僕は呆れてため息をついた。
そんな条件の良いアルバイトが、まともであるはずがない。

「でしょ? だからもう一人誘うことにしたの」

「なんで僕なんだよ」

自分が選ばれた理由が全く理解できなかった。

「語学が同じクラスと言うだけで、ほとんど話したこともない僕を?」

「だって、女友達と二人じゃ危なそうでしょ。やっぱり男の子と一緒の方が安全かと思って。で、教室の中を見渡したら、一番無害そうなのがあなただったわけ」

アリサの屈託のない笑顔が、少しだけ腹立たしい。

「光栄だね」
皮肉を口にしていた。

「で、アルバイトの内容は?」
僕は、改めて問いかけた。
この島に来た目的は、あくまでもアルバイトだ。それが一体何なのか、知る必要がある。

「それがね、私も分からないの。『住み込みで世話をする』としか書いてなかった」

アリサは、あっけらかんとした口調でそう言った。
彼女も、僕と同じように、具体的な仕事内容を知らされていなかったのだ。

「なら、今まで僕のいた家がそれじゃないかな。三人の子供たちの世話をしていたし」

僕の言葉に、アリサは目を丸くした。
「子供たち?」

「住み込みで世話をするは、まさに僕がしてきたことだ」

あの古民家で、僕は確かに子供たちの世話をしていた。
それは夢でも幻でもなく、現実の出来事だったはずだ。

「それって、子供たちにからかわれてたんじゃない?」

アリサの言葉に、僕は一瞬言葉を失った。
あの子供たちの奇妙な行動、そして夜に見た子供たちが戯れる影絵。
もしかしたら、本当に僕はからかわれていたのかもしれない。
あの子供たちの笑顔の裏に隠された意図が、全く分からない。

アリサは、島に到着してからのことを話し始めた。彼女もまた、僕と同じように、あの達観したような少年に迎えられ、この古民家に案内されたという。

「少年はあなたを迎えに行くと言って出ていったの。わたしも部屋の掃除をしてから彼の後を追いかけて海岸に行ったの。少年はいなかったし、いくら待ってもあなたは来なかった。だから諦めて戻ってきたのよ」

同じ少年に迎えられながら、僕は逆側の家に案内され、アリサはここで待っていた。
そんな馬鹿げた状況が、目の前で語られている。
まるで、二つの異なる時間が、この島の中で同時に進行しているかのようだ。

「でも、じゃあ、僕が過ごしたあの時間は?」

子供たちの笑い声、夕暮れの台所の温もり。
あの家で感じた喜びや苛立ち、そして何よりも、あの奇妙な不安感。あれら全てが、存在しなかったことになっている。
僕は混乱したまま、アリサの瞳を見つめた。
彼女の微笑みの奥に、何か秘密が隠されているような気がしてならなかった。

その時、アリサの右目の下のホクロに僕の視線はフォーカスした。
彼女のホクロは、たしか左目の下だった筈。
古民家同様、鏡の中のアリサ?

「どうかした?」

ぽかんと口を開けたままの僕を見て、アリサが不思議そうに首を傾げた。

「そのホクロ、そこだっけ?」
僕が指で示すと、
アリサは嬉しそうに自分のホクロの位置を指差した。
「ああ、これね。気が付いてくれて良かった。これに気が付いたってことは、わたしに関心があるわけね」

「否定はしない」
照れ隠しの上から目線だ。

「まっ、いいわ。これはね、付けボクロよ。その時の気分で場所を変えてるの」

体の力が抜け落ちた。
手品と同じで、種を知ってしまうと自分の思い込みが情けなくなる。

この島に来てからの不可思議なことも全て、思い込みによるものだ。
そう自分に言い聞かせた。

つづく

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