トイ・ストーリー5 考察|ラストの意味を「観たあと」に読み解く
※この記事は『トイ・ストーリー5』の結末まで、すべてネタバレします。
※未見の方はここで引き返してください。観たあとに、また来てもらえたら嬉しいです。
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先に結論を書いてしまいます。
私はこの映画を「おもちゃ対テクノロジー」の対決の話としては観ませんでした。本当の敵はタブレットじゃなくて、想像力の余白が消えていくこと。
そう読み直すと、あの憎めない緑のカエルも、農場で掘り出されたタイムカプセルも、最後にもう一度去っていくウッディも、ぜんぶ一本の線の上に並ぶんです。
今日はその線の引き方の話をさせてください。もちろん、これが正解だと言うつもりはないです。私にはこう見えた、というだけの話。
◆あのカエルは、なぜ「いいやつ」なのか
最初に引っかかったのはここでした。
リリーパッドには悪意がない。悪意がないどころか、彼女のしたことって全部「ボニーのため」なんですよね。
社交性を伸ばすという目的だけ見れば、タブレットを買い与えた親とまったく同じ。手段がちょっと独占的だっただけで。
たとえるなら、あなたのためを思って友達との予定まで全部仕切ってくれる恋人です。愛はある。ただ、重い。
読みは三つ立てられると思っています。
ひとつめ、現代の脅威は悪人じゃなくて「善意の最適化」だから、という読み。プロスペクターもロッツォも、愛を得られなかったり失ったりして歪んだ悪役でした。でもリリーは歪んでさえいない。
ちなみに「愛の傷で歪んだ悪役が、なぜ3では救われなかったのか」は、別の記事でじっくり書きました。
ふたつめ、リリーパッドはおもちゃの同族だ、という読み。「子供のために存在する」という根っこがウッディたちと同じ、いわば鏡像だから、排除じゃなくて更生の枠に入る。
みっつめはちょっと意地悪な読みで、本当の責任者である親を直接悪者にはできないから、デバイスに人格を持たせてクッションにした、というもの。
私はふたつめを取ります。ひとつめを補助線にしつつ。
決め手は退場のさせ方です。歴代の悪役って、転落するか置き去りにされるかだったんですよ。
なのにリリーは、罪悪感から自分で寄付トラックに乗って去ろうとして、ジェシーに説得されて戻ってきて、最後はボニーとブレイズを引き合わせる仲介役に回る。
この「悪役の社会復帰」って、敵をやっつける話では成り立たない。同族の再教育としてしか、成り立たないんです。
監督のスタントン——『ウォーリー』でスクリーン漬けの人類を描いた、あの人です——が公開時のインタビューで「テクノロジーを単純な悪役にはできない」「リリーは善意を持っている、優れたヴィランがみなそうであるように」と話しているのとも、噛み合う気がします。
ただ、みっつめの読みも完全には捨てきれずにいます。
だって、タブレットを与えた親は最後まで裁かれないままなんですよ。ここにうっすらとしたずるさを感じたのも正直なところ。
この引っかかりは、引っかかりのまま置いておきます。
◆タイムカプセルは、27年越しの返歌
『2』の「When She Loved Me」を覚えていますか。
エミリーに捨てられた記憶を歌う、シリーズでいちばん残酷な数分間。
今作のタイムカプセルは、あの歌への27年越しの返事だと思うんです。
大人になったエミリーは、娘にジェシーと名付けていた。
捨てたんじゃなかった。名前として、ずっと生きていた。
この場面、物語の働きとしてはジェシーの信頼回復装置です。それだけ読めば足りる。
でも私は、もうひとつ重ねて読みたくなりました。
クラウドを流れて消えていくメッセージと、土に埋めれば何十年後でも掘り出せる一枚の写真。この対比がわざわざ「記録」の話として置かれている以上、作品全体のテクノロジー論との二重写しを読まないのは、もったいない。
クラウドに10万枚あるのに一度も見返さない写真と、土の中に1枚だけあって27年後に人を泣かせる写真。うちのGoogleフォト、あれは何なんでしょうね。
愛は消えない、ただし保存形式による——と書きかけて、少し違う気がしました。
保存形式が違っても愛は残る。掘り起こす手間が要るだけ。そのくらいが正確かもしれません。
ついでに言うと、今回の主役がウッディでもバズでもなくジェシーなのは、この場面のためだと思っています。
見捨てられ不安を抱えた子が、リーダーとしてもう一度放置される。古傷に直撃です。
それでも彼女は逃げずに、最後はボニーとブレイズを繋ぐ側に回る。トラウマの繰り返しじゃなくて、自分から乗り越えにいく。
この流れを背負えるのは、シリーズでジェシーしかいません。
◆それで、スクリーンは結局「敵」だったのか
いちばん書きたかったのはここです。少し長くなります。
この映画、「スクリーンが遊びを奪う警告の話」として観ることもできます。実際、ボニーの部屋の暖色の明かりがブルーライトに置き換わっていく画は、はっきり奪い合いとして撮られている。
でも、思い出してほしいんです。
ウッディを呼び戻したのは無線機。ジェシーの居場所を繋いだのはカメラ玩具とGPS玩具。ボニーを迎えに来させたのは写真送信と音声認識。
物語を救いに向かわせる鍵が、ことごとくテクノロジーなんですよ。反テクノロジーの映画が、こんな設計をするでしょうか。
だから「道具は中立で、孤立にも接続にも使える」という読みのほうが一段深い。
でも私はもう半歩進めて、こう取りました。この映画にとっての敵は媒体じゃなくて、想像力の余白が消えることだ、と。
タブレットは遊びを「与える」。おもちゃは遊びを「引き出す」。塗り絵と白い紙の違い、と言ってもいいかもしれません。
農場のブレイズを見てください。あの子はしゃべるトイレの玩具ですら遊びに変えて、一人で何役も演じてしまう。
トイレで遊べる子は、たぶんどこに出しても生きていけます。
余白は画面の中にあるんじゃない。遊ぶ側と、それを一緒に面白がってくれる相手のあいだにあるんです。
そう読むと、冒頭と結末の量産バズの枠物語がきれいに閉じます。
デモモードのまま、存在しない「スターコマンド」を目指して歩き出した最新型のハイテク製品たち。彼らが最後は校庭で子供たちに拾われていく。
プリインストールされた台本を降りて、遊ばれるものになる。「テック対おもちゃ」という対立の図式を、作品が自分の手でほどいて終わるんです。
だからこの映画は、タブレットを叩き割らない。
◆ウッディはなぜ戻って、また去ったのか
呼ばれたら戻ってくる。でも、問題をほとんど自分では解決しない。
ジェシーに任せて、見届けて、去る。今回のウッディには、この「介入しない愛の距離感」が最初から最後まであります。
そして最後に見届けるのが「ジェシーとバズの結婚ごっこ」なのは、偶然にしては出来すぎている。
あれ、結婚式で親が席を立つ図なんですよ。
『3』でアンディがやった手放しを、今度はウッディが、おもちゃの側からやり直している。
フランチャイズの主役をジェシーに引き継ぐ襲名式、というメタな読みも成り立つし、実際そうなんでしょう。
でも私が受け取ったのは、もっと単純に、役目を終えた者の去り方のお手本でした。
◆観終わって、ここからは私たちの話
社交のために与えた道具が、社交そのものを奪っていく。
手段が目的を乗っ取る、というこの構図、子育てに限った話じゃないと思うんです。仕事の効率化ツールでも、健康アプリでも、たぶん同じことが起きる。歩数を稼ぐために、夜、意味もなくコンビニまで歩くあれです。
この映画の答えが良かったのは、「取り上げろ」じゃなかったこと。役割を変えろ、でした。
画面を、向かい合って遊ぶための仲介役に使い直す。
それから、何かを卒業する時期を決めるのは案外、本人じゃなくて周りの目だということ。だったら大人にできるのは、圧力と戦わせることより、同じものを面白がってくれる相手と繋ぐことなのかもしれません。
そして——過去は変えられないけど、過去の意味はあとから変えられる。土の中の写真一枚で。
役目を終えるって、消えることじゃない。主役の座を明け渡して、見届ける側に回ること。
この一点だけでも、この映画は観る価値があると思います。
配信はまだ先です。確かめたくなった人は、劇場でやっているうちに。
あなたはどう観ましたか?
私はリリーパッドを「同族」と読んだけれど、いやあれはやっぱり敵でしょ、という人もいると思うし、ウッディの去り方に納得していない人もいるはず。
コメントで教えてください。別の読みがあるなら、むしろそっちが聞きたいので。
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▼続けて書きました。3を見返してから読むと、5の景色が変わります。
シリーズの原点、第1作『トイ・ストーリー』(1995)の考察も書きました。バズの絶望と、「かっこよく落ちる」の話です。
ピクサーではなくディズニー本家のほうにも、“敵の消し方”がとびきり優しい映画があります。倒さないラストの意味を書きました。

