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大雨の夜、「車の窓が開いている」と言った父に、私たちは何を伝えるべきだったのか

「本当のことを言わなかったのは、間違いだったのでしょうか」
ある家族が、静かにそう言った。
病室の空気は穏やかだった。
本人は落ち着いて過ごし、時折、笑顔も見せていた。
ただひとつだけ、「伝えなかったこと」がある。
──それでも、あれは正しい選択だったのだろうか。

1. 正直であることは、本当に正しいのか

私たちは、「正直であるべきだ」と教えられてきた。
嘘をつかないこと。
隠しごとをしないこと。
相手に誠実でいること。
それは信頼の基盤であり、社会の前提でもある。

医療の現場でも同じだ。
患者は自分の状態を知る権利を持ち、医療者はそれを説明する義務を持つ。
インフォームド・コンセントは、その象徴である。
だからこそ、「真実を伝えること」は正しい。
疑う余地のない原則のようにも思える。

2. それでも揺らぐ瞬間

しかし、その正しさが揺らぐ場面は確かに存在する。

私の父が、まだ自宅で過ごしていた頃の話だ。
ある激しい大雨の夜、父は突然、何かに弾かれたように立ち上がり、こう言い出した。

「車の窓が開いている」

時計の針は深夜を回っていた。外は視界を遮るほどの豪雨で、風の音も激しい。父はひどく焦った様子で、玄関へ向かった。

しかし、その車は、もう家にはなかった。父が運転を断念した際、すでに手放していたのだ。

「その車はもうないよ」

そう伝えるのは簡単だった。それが「事実」だからだ。しかし、その事実を突きつけることは、父に何を強いることになるだろうか。自分が車を手放したという喪失感、それを忘れてしまっていたという自分への失望、そして、今感じている「窓を閉めなければ」という切実な責任感の否定。

母は、父の前に静かに立って、こう言った。

大丈夫、あの車は今、修理に出してあるから。窓もちゃんと閉めて預けてあるわよ」

父は一瞬、きょとんとした顔をして考え込んでいたが、やがて小さくうなずいた。
「そうか」
そう言って、父は再び椅子に座り直した。外では依然として雨の音が続いていたが、家の中の空気は、一瞬にして平穏を取り戻した。

あのとき、母が選んだのは「嘘」だった。その嘘によって、父の尊厳と安心は守られた。もしあそこで「車はもうない」と正論を突きつけていたら、父は混乱し、自分を責め、雨の音に怯えながら夜を過ごしたかもしれない。

あのときの母の言葉は、正しかったのだろうか。それとも、やはり不誠実だったのだろうか。
それとも──

3. 真実とやさしさのあいだで

ここにあるのは、単純な善悪の対立ではない。
「正直であること」と「傷つけないこと」。
「真実を伝えること」と「安心を守ること」。
どちらも、目の前の人を大切にしようとする、切実な願いから生じている行為である。それなのに、この二つがどうしても同時に成り立たない瞬間がある。

正しさを選べば、相手を深く傷つけるかもしれない。
やさしさを選べば、自分が誠実でないように思え、罪悪感に苛まれる。
この矛盾は、理屈では解けない。

私たちは「真実」を、あたかも絶対的な価値があるものとして扱いがちだ。しかし、受け取る側にとって、その真実が「毒」になることもある。一方で、「やさしい嘘」は一時的な逃避に過ぎないという批判もあるだろう。しかし、その「一時的な平穏」こそが、その人にとってのすべてである場合もあるのだ。

4. 選んでいるのは、誰か

その選択を現実に引き受けているのは、現場にいる人間である。
医療者や介護職、そして家族。
「どこまで伝えるか」
「何をあえて言わないのか」
その判断は、その都度、個人に委ねられる。

ある医療現場で、こんな場面があった。
重い病状の患者に対して、
すべてをどの程度伝えるかが検討されていた。
本人は、不安が強く、
少しの情報でも大きく気持ちが揺れてしまう状態だった。
家族はこう言った。
「全部は言わないでほしいんです。穏やかに過ごさせたいから」

医療者は迷う。
伝えることが原則である。
けれど、その結果として目の前の人が崩れてしまうかもしれない。
結局、その場では言葉を選ぶことになった。
すべてではなく、今受け止められる範囲だけを伝える。
患者は、小さくうなずいた。
そして、少し安心したように見えた。

その判断は、正しかったのだろうか。
それとも、まだ知らされていない「真実」を奪ってしまったのだろうか。

その答えは、すぐにはわからない。あるいは、一生かかっても正解に辿り着くことはないのかもしれない。

ある選択は、その場ではうまくいく。
波風を立てず、穏やかな時間を作り出すことができる。しかし後になって、別の可能性を考えてしまうこともある。「もしあのとき本当のことを伝えていたら、もっと違う深い対話ができたのではないか」と。

逆に、迷い、震えながら選んだ不器用な言葉が、
あとから振り返ると最善だったように思えることもある。
その選択には、いつも「後からしかわからない答え」がついてくる。

そしてその答え合わせをするのは、多くの場合、本人ではなく、選択を下した周囲の人間である

だからこそ、私たちは迷う。自分の選択が、相手の人生を不当に歪めていないか。自分の「やさしさ」は、単に自分が傷つきたくないための「逃げ」ではないのか。

5. 「やさしい嘘」と「正直さ」のあいだ

以前、私は「やさしい嘘」について書いた。
そこでは、認知症の症状や混乱の中にいる人の安心を守るために、あえて真実を和らげるという選択肢を肯定的に捉えた。嘘が、ときに人を絶望から救い、支えとなる場合があるという話だ。

しかし今回は、その鏡合わせのような、より鋭い問いを自分に投げかけている。
──真実をそのまま伝えることは、つねに「善」なのだろうか。

私たちは「嘘をつくこと」の罪悪感には敏感だが、「真実で人を傷つけること」の残酷さには、ときに無頓着になることがある。「本当のことなのだから仕方ない」「正直に言うことが誠実さだ」という大義名分は、ときに相手の心を切り裂く刃(やいば)になり得る。

嘘が問題なのではない。真実もまた、ときに人を深く傷つけ、再起不能なまでに揺さぶる力を持っているのだ。

「やさしい嘘」と「冷酷な真実」。そのどちらも、人を守るための手段になり得ると同時に、相手の尊厳を損なう危うさを含んでいる。私たちはその極めて細い境界線の上を、バランスを取りながら歩き続けなければならない。

それは、相手を「一人の人間」としてどう見るか、という問いに帰結する。
目の前の人は、今、真実を受け止める強さを持っているだろうか。あるいは、今は真実よりも、温かな安らぎを必要としているのではないか。その見極めこそが、ケアの本質なのかもしれない。

結び:迷いの中に宿るもの

だからこそ、問いは残る。
あなたなら、このとき、どうするだろうか。
本当のことを伝えるだろうか。
それとも、相手の世界を守るだろうか。
その選択に、正解はあるのだろうか。

そして、その答えはきっと、
ひとつではないのだと思う。
同じ人でも、違う日なら、
別の選択をしてしまうかもしれない。
それでも私たちは、その都度、誰かのために言葉を選ぶ。
その迷いの中に、
ケアのかたちがあるのかもしれない。


💫みなさまは、どうお考えでしょうか。
よろしければ、ご自身のご経験をコメント欄で教えていただけると嬉しいです。

💫三澤直己さんに、本記事をご紹介いただきました!ありがとうございます🥰

コングラいただきました!ありがとうございます!!


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