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読解(どっかい)寺山修司💞デリダの言う「意味は常に揺れ動く差延である」を読み解く!

デリダの言う「意味は常に揺れ動く差延(différance)である」という一文を、もし寺山修司が読んだとしたら、それは難解な哲学概念として理解される前に、まず身体感覚として引き裂かれる言葉になっただろう。
寺山にとって、意味とは安定した場所に留まるものではなく、常に逃げ、裏切り、観る者の足元を崩す装置だったからだ。

デリダの差延とは、意味が決して現在に完全には現れず、他の意味との差異の網の目の中で、先送りされ続ける構造を指す。
そこには「中心」はなく、「決定的な意味」もない。

寺山修司は、この構造を理論としてではなく、詩と演劇と競馬新聞の中で、すでに生きていた人間だった。
彼の言葉は、常に何かを言いながら、同時にそれを裏切る。標語のようでいて、信条にならない。告白のようでいて、嘘である。

寺山がこの差延を読むなら、こう呟いたかもしれない。「意味とは、家出した言葉の行き先不明の履歴である」と。
彼にとって言葉とは、辞書に帰るものではなく、常に家出する存在だ。家出した言葉は、別の言葉とぶつかり、誤解され、変質し、思いもよらぬ場所で意味らしきものを生む。
しかしその意味もまた、すぐに次の誤読へと逃げていく。そこには完結も救済もない。ただ、漂流だけがある。

寺山演劇において、物語がしばしば崩壊し、役柄が入れ替わり、観客が舞台に引きずり出されるのは、意味が一箇所に固定されることへの徹底した拒否だ。観る者は「これは何を意味するのか」と問う前に、「意味を問う自分自身が揺さぶられている」ことに気づかされる。これはまさに差延の演劇化であり、意味が常に到来し損ねる状態を、身体ごと引き受けさせる装置である。

また寺山は、差延を時間の問題としても読むだろう。未来は常に予告されながら、決してその通りには来ない。過去は語られながら、決して同じ形では再現されない。彼のノスタルジーは甘美ではない。それは「失われたもの」への郷愁ではなく、「そもそも存在しなかった原風景」への執着だ。ここでも意味は、原点に戻ることを拒み、常にズレた形でしか現れない。

だから寺山にとって、デリダの差延とは「不安定であること」そのものではない。それはむしろ、意味が揺れ動くことによってしか、人は自由になれないという逆説の肯定だろう。固定された意味は、安心を与える代わりに、思考を停止させる。揺れ続ける意味だけが、人を旅に出させる。

寺山修司がデリダを読むとき、哲学は詩になり、理論は賭けになる。意味は解釈されるためにあるのではない。
裏切られ、誤読され、踏み越えられるためにある。差延(さえん)とは、意味の不在ではなく、意味が生き延びるための逃走経路なのだ。寺山はきっと、そう笑いながらページを閉じただろう。


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