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読解(どっかい)山下清💞「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」

読解コラム!?

山下清なら「💞愛の反対は憎しみではなく、無関心である」をどう読むか

マザー・テレサの言葉
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」。

もしこの一文を、放浪の画家・山下清が読んだなら、きっと難しい哲学の言葉には置き換えず、彼らしい素直な感覚で、こんなふうに受け止めたのではないだろうか。

山下清は、旅をしながら、人の顔や町の景色、花火や山の稜線を、ただ「きれいだなあ」「すごいなあ」と感じ、そのまま貼り絵にしていった人だ。

上手く描こうとか、評価されようとかよりも、まず「見て、感じて、好きになる」。そこからすべてが始まっている。

だから彼にとって「愛」とは、特別な言葉ではなく、
道ばたの草に目を止めること。
おにぎりをくれた人の顔を忘れないこと。
知らない町でも、夕焼けを見て「いいなあ」と立ち止まること。
そういう気にかける行為そのものだったはずだ。

一方で「無関心」とは何か。
それは、そこに何かがあっても見ようとしないこと。
人がいても、景色があっても、「別にどうでもいい」と通り過ぎてしまうこと。

山下清の旅には、それがほとんどない。
彼は、どんな小さな町でも、誰も気にしないような路地でも、ちゃんと足を止め、ちゃんと見ていた。

もし彼がこの言葉を読んだら、きっとこう言うだろう。

「憎しむっていうのは、まだ相手を見てるんだなあ。
 腹が立つってことは、その人のことをちゃんと気にしてるんだなあ。
 でも、無関心っていうのは、最初から見てもいないってことだなあ」

山下清の世界では、「見る」ことがすでに愛なのだ。
花火を見上げる。
山を見つめる。
人の顔をじっと眺める。

その見るという行為の中に、「あなたはここにいる」「あなたは大事だ」という無言のメッセージが込められている。

逆に、見ないこと。
そこにあるのに、気づかないふりをすること。
それが一番さびしいことだと、彼は旅の中で知っていたのかもしれない。

憎しみは、激しい。
怒りも、悲しみも、そこには感情がある。
でも無関心には、温度がない。
冷たくて、静かで、誰にも気づかれない。

山下清の貼り絵に「空っぽの景色」がほとんど出てこないのは、彼が世界を空っぽのままでは見なかったからだろう。どんな場所にも、必ず「何か」を見つけていた。

マザー・テレサの言葉を、山下清流に言い換えるなら、

「好きも嫌いも、ちゃんと見てる証拠。
 でも、見てもいないのが一番かなしいんだなあ」

そんな一文になるかもしれない。

愛とは、何か特別なことをすることではなく、
ただ、ちゃんと見ること。
ちゃんと気にかけること。
ちゃんと「きれいだなあ」「すごいなあ」と感じること。

山下清の旅は、そのまま無関心でいない生き方だった。
見知らぬ町も、初めて会う人も、すべてを自分の世界に迎え入れ、貼り絵として残す。
それは、「あなたは無視しない」「あなたはここにいる」と言い続ける行為でもある。

だから彼がこの言葉を読んだなら、
難しい理屈よりも、静かにうなずいて、こうつぶやく気がする。

「うん、そうだなあ。
 ちゃんと見るって、大事なんだなあ」

愛の反対が無関心だという言葉は、
山下清の目を通せば、
世界をちゃんと見続けようという、やさしい旅の教えになるのだ。

このコラムは、敬愛する人たちのことを思いながらエンターテイメントとして書きました。


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